3. 自己言及と不完全性定理
命題論理の古典的な公理系が無矛盾・完全であることは割合早くから証明されていたが、述語論理についても、無矛盾(ヒルベルト、アッカーマン・1928)で、完全(ゲーデル・1930)であることが証明された。
しかし、数学については、公理系が無矛盾であれば不完全(証明も反証もできない決定不可能な命題が存在する)であることが、K.ゲーデルによって証明され、記号論理による公理的集合論(数学基礎論、いわゆる超数学)を建て上げようとしていた当時の数学界に大きなショックを与えた。
さらに、この不完全性は、真理性(タルスキー・1936)、計算可能性(テューリング・1936)、ランダム性(チャイティン・1989)にまでも拡張された。
(1) うそつきのパラドックス:
”矛盾”とは、古代中国の故事で、”どんな盾でも突き通す矛(ほこ)”と、”どんな矛も通さない盾”という宣伝文句で売っていた武器商人に対し、”では、その矛でその盾を突いたらどうなるか?”の問いに答えられなかったことから来ている。
論理的に否定的な”自己言及”を含む文章は、真か偽かの決定不能のパラドックス(矛盾)を生み、これらは無数の実例を作ることができる。たとえば、
・ 「私はうそつきである。」 と言う人がいれば、 もしこの言葉が本当ならば、その人は本当のことを言っているので、正直者であるから、この言葉と矛盾する。
また、もしこの言葉がうそであると仮定すると、その人はうそを言っているから、うそつきであり、この言葉がうそであるという仮定によって正直者となり、やはり矛盾する。
・ その他、「この文は偽である」と書かれた文章、 「落書きするな」という落書き、「今年は、決意をしない決意をした。」、「あるクレテ人は、『クレテ人はうそつきで、悪いけだもので、怠け者の食いしんぼうである』と証言した。」(まあ、待てよ、あいつにも一つぐらい良いところが ・・・・・ ないな ・・
) 、
・・・・・ 何らかの形で 自己を否定的に言及する(= 論理的に反転してフィードバックする)ことによって、矛盾を生じさせている。
このような矛盾する命題(ゲーデル命題)が生じるのは、レベルの異なる言語が混在して、それらが自己言及や相互言及することによる。 たとえば、
『クレテ人はうそつきである』 が”対象言語”であり、その上位の文「あるクレテ人は、・・・・と、言った。」は ”メタ言語”と呼ばれて区別され、対象言語の同じ言葉(クレテ人)に否定的に言及している。(タルスキー) さらにその上位に、” ・・・・ と聖書に書いてある” などを付け加えると、これは”メタ‐メタ言語”になる(?)。
相互言及の実例として、
・ カードの表に「このカードの裏の命題は真である」と書かれ、カードの裏には「このカードの表の命題は偽」と書かれてある場合
・ 抜き打ちテストのアナロジー (* これは、れっきとした、スマリヤン教授の有名なアナロジーですが、クリスチャン向けに多少改造してあります)
・・・・・ イエス様の再臨は2030年12月31日までには必ずある、という前提にしてある。
聖書のみことばは絶対的であり、次のような予告が書いてある。
1) 「その日(再臨)は盗人のようにやってくる。(= いずれかの日に再臨がある)」
2) 「どの日に再臨があるか、その日にならなければ決してわからない。」
信徒1は、その 再臨の日に際して備える必要などない、と考えていた。なぜなら、(みことばによって)再臨は不可能だからである。
もし、2030年12月30日が終わった時点までに再臨がなければ、12月31日には必ず再臨がある、ということがわかってしまう。これでは
みことば 2)の「その日にならなければ決してわからない」に反する。よって、再臨の可能性があるのは2030年12月30日までの期間である。
ところが、12月30日にも再臨は無い。なぜなら、もし12月29日が終わった時点で再臨が無ければ、必ず12月30日に再臨があることがわかってしまう。 ・・・・・ (日々遡って、結局、)再臨は無い、という結論に達する!
ここで、様相論理のうちの認知論理 「信じる」 を用いて、上記の設定が相互言及のパラドックスになっていることを示そう。
イエス様: それでは今から地上に再臨することにする。
信徒1: (用意ができていないので慌てて) 再臨は不可能です。なぜなら、昨日まで再臨が無かったから、今日
再臨があると分かってしまう。すると、みことば 2)に矛盾します。
イエス様: そのように 君は、今日 再臨が無いと信じていた。だから、みことば
2)に矛盾しない。だから今日再臨するのだ。
信徒2: 待ってください。私は、信徒1とイエス様との会話を予期していました。その上で、イエス様は再臨すると分かっていました。
イエス様: あなたはそこまで分かっていたのですか。それでは私が自己矛盾してしまう。再臨はやめた。
信徒3: 待ってください。私は 信徒2とイエス様との会話をも予期していました。その上で、イエス様は再臨しないと分かっていました。
イエス様: そうなると、私は再臨しなければならない。さもないと、私が自己矛盾してしまう。
信徒4: 待ってください。 ・・・・
この会話は、(信徒が無限に存在すれば)永遠に続き、決定不可能である。これは、みことばが信徒たちとの間に、相互言及的なゲーデル命題を設定したからである。
しかし、信徒0 だけは、”再臨はいつになるか分からないから、イエス様がいつ来られても良いように、毎日 備えておかなければならない”と、あまり考え込まずに受けとめた。これで正解。(「みことばは人の私的解釈をしてはならない」)
(2) 用語の定義と不完全性定理:
混乱を避けるために、論理用語は明確に定義されている。
システムSは 正常: システムSの すべての証明可能な命題が 真 であり、すべての反証可能な命題が 真でない
システムSは 無矛盾: 証明可能な命題 と 反証可能な命題が 同時に S に存在しない (A と
〜A が同時に成立しない)
・ 無矛盾性は、証明可能性にのみより、真理性によらない。
・ S が正常ならば、自動的に 無矛盾
システムSの ある命題が 決定可能: システムSの 命題 x が、証明可能 あるいは 反証可能
システムSは 完全: システムSの すべての命題が決定可能
(第1)不完全性定理とは、無矛盾なシステム S(数学理論の公理系、計算機システム(アルゴリズム)、など) によって構成されるある命題(ゲーデル命題
G)が、そのシステム S 内部で、証明も反証もできない(決定不可能な)ことを言う。
また、(第2)不完全性定理は、システムが無矛盾であるとき、システム自身の無矛盾性をそのシステムから証明できないことを言っている。
だから、システムの枠を広げると、証明可能(あるいは、反証可能)に変わる命題が存在する。
・ 自然数論の無矛盾性の証明は、自然数論の枠をはみ出した 集合論的な技巧をもってなされた。
・・・・ ”超限帰納法”(ゲンツェン・1938)
集合論には自然数論が含まれている。
・ 集合論の無矛盾性は、未だ一部しか証明されていない。
・ フェルマの最終定理は、自然数論の定理であり、ゲーデル命題の一つである。
・・・・ この式は一見、ピタゴラスの定理(n = 2 の場合)の拡張のように見えるが、フェルマ(1601−65)が提示してから、多くの有名・無名な数学者たちが挑戦して失敗し、懸賞金までかけられ、約360年も経て、ついに、1996年にワイルズによって証明されたことは有名である。その際用いられた数学理論は、「楕円方程式論」、「トポロジー(位相幾何学)のモジュラー形式」、「谷山・志村予想の(部分的な)証明」、道具として、「ガロア理論」、「ゼータ関数論」、・・・
にも及ぶ。
・ その他、一見簡単そうに見える数論の古典的な未解決問題は、その”証明”が非常に(”異常”に)困難なものが多い。
・ ゴールドバッハの予想・・・4以上の偶数は2個の素数の和で表現できる
(コンピューターの計算では
10億桁の偶数までは成立)
・ 完全数・・・その数を除く約数の和で表される数。たとえば、6(=
1+2+3)、28、496、8128、・・・であり、800万桁までにたった40個しか発見されていない、きわめてレアな数である。完全数が、1)
無限にあるか? 2) 奇数の完全数は存在するか?はいずれも未解決である。
・ 4色問題(証明されたので現在は”4色定理”と呼ばれている)は、問題を約2000個のケースに切り分け、それぞれコンピューターで計算して解決。複雑なプログラムを当時のスーパーコンピューターで1200時間以上使用して解いたと言われる。したがってその検証も困難だったが現在では真理だとされる。(1976・アッペルとハーケン)
・・・・”証明”をコンピューターで行うことができためずらしい実例。(ある”数論”の数学者に言わせると、”なんだ、底の浅い問題だったんだ!”?そうである)