6. 偽り者と原罪



  (1) 不完全性定理の裏返し:


  第2不完全性定理から、その逆もまた成立する。すなわち、公理系に矛盾が含まれるならば、1) その公理系からどんな命題でも証明でき、さらに、2) 公理系自体も無矛盾であるという主張も証明できる、という皮肉なことが知られている!これは、”理性”のうちにある、”偽り者”の”自己義認”の哲学の原理である。(偽りと正当化・すり替えによる矛盾 (→ 創3:1−7))

   ・・・ 人間でたとえるならば、正直で謙虚な人間は、自分が正直で謙虚な人間であることを示すことはできないが、悪辣で図々しい人間は、自分が悪辣で図々しい人間でないことを臆面もなく証明する!(どこかの政治家のよう?記憶にございません。何の事だかさっり分からん。)



  (2) アダムとエバの堕罪の背景:


  創世記3章にはアダムとエバの堕罪の様子が書かれてある。
  蛇の口を通してサタンがエバに語り、惑わした。その語り口調は次のようである。

  1) 「ほんとうに神様から語られたのですか?」(創3:1) ・・・ まず、エバの思索の中にいつも木の実のことがあるようにする

  実は、この最初の段階が重要なのである。サタンの惑わしの方法は、現在までも全く変わっていない、同じプロセスである。まず、サタンはこのように語り、エバに対し善悪の木の実に注意を向けさせる。(これは、広告業界やコマーシャルの常識である。チラチラと見せる。) すると、頭の考え(思索)の中で、エバはその木の実のことをいつも考えるようになった。それで、触れたいという欲望によって考えているから、神様が語られた言葉に 余計な言葉 ・・ 「それに触れてもいけない」を付け加え、また、神様の言葉を差し引いて語った。(「死ぬといけないからだ。」、神様は、「それを食べると必ず死ぬ」と言われた。)(3:3) ”何々してはいけない”と言われるほど、かえってそのようになってしまう。人間の意志の力ではどうしようもないのである。

  全世界を惑わす終末のにせ預言者は、「竜のようにものを言った。」(黙13:11)とあるように、サタンや共産主義的な惑わしの方法と同じである。
  (逆に、「いやし」の言葉の場合も、いやしを受けるその人が単純に信じることができる人であっても、まずその人の”思索”に、いやす人の言葉が入っていかないと、信仰が起こらずいやされない。)

  そして、頃合いを見て、サタンは、 みことばを握る手が緩んだエバに対し、あからさまにこう言った。

  2) 「あなたがたは決して死にません。」(3:4) ・・・ 神の言葉に完全に反対する虚偽(論理的虚偽)

  さらに、神様のみこころを邪推させて、

  3) 「・・・ 善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(3:5) ・・・ 罪、うその正当化

  そして、エバはその木の実を”見て”しまった。”見る”ことは所有することである。また、アダムは直接的には惑わされなかったが、妻のエバにそそのかされてしまった。(サムソンやアハブ王のように) こうして、罪の性質は全人類に入り、全世界はサタンの支配化に陥った。

  サタン(悪魔)は、偽り者(うそつき、a lier)である。(ヨハ8:44) これは、神様が語った言葉に対して全くの逆を言うことを意味している。そして、最も良い(?)詐欺師は95%本当のことを言って、残りの5%で欺く。 神様は語った言葉を必ず成し遂げる方である。(イザ55:11) しかし神様の言葉を個人的に受け取ったならば、その言葉を”堅く信じる”(= 当然のこととして行うほどに(行動が板につくほどに) 信じる)ことが条件である。(ヤコ1:22) そして、惑わしの最初の段階で、その偽りを思索に入れないことが大切である。

  サタンがよくささやく 惑わしの常套手段となっている言葉は、”神様はあなたなんか愛してないよ”、”おまえはだめな人間だ”、”あの人が悪い、この人が悪い”、・・・ しかし、イエス様が試みを受けられた時、一つ一つ”みことば”で立ち向かわれた。・・・「神様はひとり子を十字架にかけて死なせるほどに愛している」、「あなたは高価で尊い」、「さばくな、さばかれないために」・・・ 「彼らは何をしているのか わからないのです。」は最高のとりなしのことばである。

  また、イエス様は、ほとんどの場合、悪霊に「黙れ」と言われ、語ることを許されなかった。それは、たとえ 論理的に”真理”であっても(目に見える状況がそうであっても)、実を結ばず混乱させるだけだからである。(イエス様の場合は”まだその時ではない”為) そして、神様が語っている言葉こそが”真理”だからである。みことばは”種”であり、ある成長期間を経てから、花が咲き、実を結ぶ。


  3)の言葉は興味深い。神様はなぜエデンの園にわざわざ善悪の知識の木を植えたのだろうか?それは、神様が語った言葉をアダムとエバが守ることを信頼し、また、それが 最後に ご自身に似せて人間を造られた神様の”誇り”でもあった。同じ理由から、神様はあえて、人を信頼して 人を通して、伝道、奇跡、預言、賜物の働きなどの多くの賜物を与え、任せて行われる。 一方、サタンは誘惑者であり、千年王国の時に縛られる期間は、主の民でない人々(ゴグ・マゴグ)さえも罪を犯さないで生活する。(黙20:7、8) もし、惑わす者がいなければ、聖書も3ページくらいで終わっていただろう。 ( ”・・・ そしてアダムとエバはいつまでも、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。”)

  では、なぜ神様はサタンを造ったのだろうか?? それは、(一般に言われているように) 神の恵みを”深化”させるためである。 御子イエス様の十字架による贖罪によって「神の愛」がはっきりとあかしされたこと、これは、天地万物が創造される初めからの計画である。

  しかし、そうすると、神様が人に罪を犯させてしまう環境を設定されたのではないか? サタンの言っている 3)の言葉は正しいのだろうか? つまり、神様は アダムとエバが罪を犯すことを”予期”して善悪の知識の木を植えていたことになる!

  このことは、神の民であるはずのユダヤ人が追い出され、救いが異邦人に及んだことと同じである。
  聖書の中に論理的に矛盾している個所はたくさんある。

  したがって、神様は、”矛盾”しているのだろうか? ( → 7.へ )



  (3) 原罪 ・・・ 自分を見ること:


  アダムとエバが、善悪の木の実を食べて まず最初にしたことは、”自分を見ること”だった。 そして次に、互いを見て、互いに”恥ずかしい”と思った。(相互言及) 彼らの霊に”自己言及”、”相互言及”が入ったのである! 自分や他人を見るその否定的な出力データをインプットして、その行動がさらに悪の方向へ進む、という悪循環 ・・・ 霊的な 悪の”発振回路”(自己中心・人間中心)になってしまった! こうなると、もはや神様からの入力信号に反応しなくなり、その人の人生は、葛藤して大きく揺れ動く 矛盾だらけの人生になってしまう。 

  神様だけを見続け、神様だけを礼拝していた彼らが、自分を 神様や他人と比較して見るような霊性になってしまい、そして、2人は神様の目から隠れようとした。(隠蔽、偽善、仮面、壁を作る) 人は、劣るところ、みっともない所を隠そうとするが、これはきわめて原罪に近い。アダムとエバは、二人を造られ 愛してくださっておられる神様を避けて、悔い改めることをせず、恐れて隠れたのである。
  日本人特有の、この”恥ずかしい”、”隠す”という性質は原罪に近い。しかし、聖霊様に満たされると、本当の(良い意味での)”恥知らず”に回復する。

  人が神から離れて、自分が”神”になることが、”原罪”であり、原罪はありとあらゆる罪を引き起こす。かつては天使長ルシファーだったサタンは、自分の美しさと力により”高慢”になって、ついに 神のようになろうとして堕落した。(イザ14) そこで語っている言葉は、自我、自己中心の「(わたしは)〜しよう」の繰り返しである。 終末の反キリストは全世界の中で”自分が神である”と宣言する。 また、サタンの手下の悪霊どもも 神になりたいから、偶像崇拝の背後にいる。


  ちなみに、次の創世記4章では、カインがアベルを妬んで殺してしまった。アベルにもカインと同様に原罪があったはずである。しかし、アベルは「羊を飼う者」の仕事を通して愛すること”を学んでいた。(羊を飼うことは大変な仕事である)
  一方、カインは、神様に「あなたはそれを治めるべきである」と言われたにもかかわらず、自分の殺意を自制することができなかった(キレやすかった)。自制をつかさどるのは大脳皮質の前頭葉であり、学習しなければ発達しない部分である。



  (4) みことばの真理:


  多くの場合、神様のことばの多くは、人間の理性と全く合わない(論理的に矛盾する)ものである。それは、私たちが知ることは一部であり、一方、神様はすべてを知っておられるからである。

  イエス様が 十字架にかかられる前に、エルサレムを入城されたとき、幾人かのギリシャ人が弟子入りしたいと申し入れた。ラザロの復活のしるしを聞いたからである。ギリシャ人は、ヘレニズム文化の、理屈好きな異邦人の代表である。(ギリシャ語は最も微妙なニュアンスを伝える言語といわれ、新約聖書はギリシャ語で書かれている。”科学(サイエンス)”という言葉は、ギリシャ語の”サイアンス”から来ている。) 当時のギリシャ哲学は、いかに自己を主張できるか?自己を高めることができるか?を追求していた。しかし、イエス様は彼らに対し、本当の”霊の法則”を語られた。

  「自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠の命に至る。(それでも) わたしに仕えるというのなら ついてきなさい。」(ヨハ12:20−26)

  栄光の”復活”の前に、”十字架”がなければならないのである。(当時のギリシャでは π しか知られていなかった)


  ・  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持っています。」(ヨハ6:54) イエス様がこう言われて多くの人々が”ひどい言葉だ”と言ってつまずいた。そこで さらに言われた。 「もし人の子(=イエス様)がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」(6:62)

   ・・・ 奇跡・しるしこそが、みことばの正しさを証明する。(科学の範囲から”飛び出た”思索)


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