7. 神の愛の奥義   ・・・  神の不完全性?



  (1) 神の三位一体について:


   「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 (創3:22)


  ここで、「われわれのひとり」とは、イエス様が明確に現れるはるか以前の時代ではあるが、神の三位一体をすでに暗示している。(創11:7 にも「降りて(単数)、行って(複数)」) 聖書の文脈からの研究は十分なされていて、多くの聖句が三位一体を表現している。(→ 参照: 4.三位一体


  神の三位一体は、@聖書のみことばから、また、A聖霊様によって”体験的に”知ることができる。

  また、数学(=思索)と物理(=被造物・自然)との対応 ・・・ B自然啓示からも知ることができる。

                  

  オイラーの恒等式の、左辺の指数関数は、いのち、一方、右辺は、論理的善悪の規定を表わす。



  (2) 理性を超える神: ・・・ 「愛」という神の本質


  パトリック・グリム(ニューヨーク州立大、哲学者)による神の”非”存在論的証明は、不完全性定理による無神論者の哲学的議論に用いられている。すなわち、

  すべての真理を知る、無矛盾な存在を「(の属性)」と定義すると、神様は全知全能であるから、当然、自然数論と、自然数論の可付番・無限性を含む あらゆる(数学)理論全部をも知っているはずであり、その上で無矛盾である。しかし、ゲーデル命題については、どこまでも理論の範囲を広げても、公理系の矛盾を犯すことなしに、その真理を決定できないはずである。したがって、”神は存在しない”という結論に達する!(グリムの定理・1991)

  ただし、この場合の”神”とは、”人間理性で理解可能な”神である。すなわち、「本当の神」の知識とは、単純な無限性や、いかなる形式的な考察をも超越したものでなければならず、不完全性定理により、理性では本質的に認識不可能な知識である。 人間理性が神様と完全に共通して持っているのは”古典的な論理感覚”(命題倫理、述語論理)までである。
    「はい、いいえ、とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタ5:37)
           ・・・・ 自分を指して「誓う」とは、その誓いに行動が拘束されるから、自己言及の一つである。


  また、ゲーデルの第2不完全性定理を裏返すと、もし 公理系に矛盾が含まれるならば、1) その公理系からどんな命題でも証明でき、さらに、2) 公理系自体も無矛盾であるという主張も証明できる。自己中心で本能的な サタンや罪人の場合そうであった。(「悪者(の内側)には平安が無い」)

  しかし、理性を超えた「神の三位一体」も、理性で判断すると 見かけ上、そうである。
  1+1+1 = 1、あるいは、父+子+聖霊 = 、3つの人格の現われがあって なおかつ 一人の神!初めから、論理的に矛盾している!
  また、みことばの正しいことは、”具体的な奇跡”や”力”によって証明される。奇跡は、人間理性では決して理解することはできない。これは、科学から”飛び出た”霊的な思索の結果である。

      「神の国は、言葉ではなく、力にある」(Tコリ4:20)

  神か、悪魔か、罪人か???  ・・・・・  いずれも、”自分は神であると主張する。しかし、”神”はお一人で充分である。もし、複数の”神”が存在し、それぞれ”私は神である”と主張するならば、それらは互いに干渉し、一番強い神よりも弱い存在は、従属するか、あるいは、滅ぼし尽くされてしまう。これは歴史上の国家間の支配関係からも明らかなことであろう。


  ここに、御子イエス様の存在が神を説き明かすのである。神の子イエス様は、”しもべ”として世に来られた。そして、実に、十字架の死にまでも従われ、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださった。それゆえ、本来ならば罪に定められるはずの私たちは信じることによって、全く”値なしに”神の子とされる特権を受けたのである。
  すなわち、神の”非合理的な部分”、「神の愛」が御子によって完全に示された!!! 御子イエス様こそ、十字架ですべての不条理を受け取られ、また、再臨の時にはすべてを報復されるのである。

  システムが、たとえばコンピューターのアルゴリズムの規則が、完璧で無矛盾であればあるほど、いつまでも止まらないプログラム(無限ループ)が、しかもランダムに出現するといったような不完全な結果を外部にもたらす。
  しかし、”愛”によって内部の公理的部分が矛盾している(少なくとも我々の理性にとって矛盾して見える)ならば、無限に発展し、いつまでも続く、完全な体系が出来上がる。神様による支配(=御国)とは、このようなものである。

    「愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Tヨハ4:8)



  (3) 時間を超越する神:


  自己言及・相互言及による”矛盾”を、時間的に掃引すると、発振器のようなものになる。神様以外のすべての被造物は(御使い、堕天使などの霊の世界も含めて(ダニ10:13、黙12:12))時間の流れの中にある。だから、我々被造物から神様を見ると、神様は巨大なエネルギーの発信源のようである。 exp(i x)の形で表わされる電磁波や量子論的な振動は、そのまま、物理的なエネルギーである。
  ちなみに、時間とエネルギーの間の不確定性関係は、位置と運動量の不確定性関係から導かれる。 c (光速)と h(プランク定数) ・・・ 2大物理定数 を  c = h = 1 と置く単位系(自然単位系)は素粒子論でよく用いられるが、これは、神様の計量感覚が人間の日常的な感覚とはかなり異なることを示している。(KMSA単位系で c :3.00E+8(m/s)、h : 6.63E−34(J・s) ・・・ 42桁も違う!)

  また、「預言」は、みことばより 三位一体の中心点にある。(*)そして、神様の、時間を超越した存在は、未来を知って 予告する、「預言」によってあかしされる。預言の賜物は、9つの賜物のうち、唯一、未来を持ってくる賜物である。一方、いかなる物理的な方法によっても、未来に行くことはもちろん、未来を垣間見る事すらできない。( → 量子力学7(1)相対論による時間の扱い )

    「イエスの(神性の)あかしは、預言の霊です。」(黙19:10)

  *  
  @ ロマ12−6〜8: 御父から教会に与えられた7つの奉仕の賜物 ・・・ 預言、奉仕、教える事、勧め、分与、指導、慈善
  A Tコリ12−7〜11: 聖霊が与える9つの賜物 ・・・ 知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力
 (Tコリ12−28: 聖霊が教会に与える任命 ・・・ 使徒、預言者、教師、奇跡を行なう者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者など(順位がある))
  B エペ4−11、12: イエス様が与える5職の任命 ・・・ 使徒、預言者、伝道者、牧師、教師
 このうち、教会形成は使徒と預言者の土台による。(エペ2−20)

 @〜Bの3つの異なるカテゴリーの中で、”預言”だけが共通している。
 したがって、預言は神とのコミュニケーションの中心点であり、預言者は神の三位一体を余すところ無くあかしする職務である。
 また、預言は、啓示的に与えられる、未来を持ってくる唯一の賜物である。




  (4) 聖霊様による”良い自己言及”:  ・・・ 人は、自分自身で想う その通りの人になっていく


  すでに人間に原罪が入ったのはどうしようもない事実である。そして人間は生まれながらにして罪の性質が存在する。これは、霊的な”自己言及”、”相互言及”のループが、人の霊性の中に入っていることと同じである。サタンはこれを利用し、自分を見せ、他人を見せ、悪い言葉を語らせ、罪を犯させ、ついには滅ぼすのである。
  しかし、神様のご一方的な愛 ・・・ 御子イエス様の十字架の贖いを信じて、主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れた者は、信じたその瞬間、神の霊である「聖霊様」がその人の霊に入り、無条件に「神の子」としての身分が与えられ、神様の支配に入ったのである。


  1) 思索;

    自分自身についてのネガティブな考え方(=”悪い自己言及”)は、サタンの惑わしによる”死の自己言及”である。そして、その”思索”の通りに、(それが心に満ちて)悪い言葉を語り、そして、その悪い言葉によって悪い結果になる。(悪い言葉を語るとき、悪霊が働く。(伝10:20))

  しかし、神様は、ご自身の語られた ”みことばの約束”によって、私たちをそのようには見ていない。もし私たちが、神様が自分を見ている目で、自分を見ることができるならば、すばらしい、うるわしい、尊ぶべき、真実な、喜び楽しんでいる、健康な、また驚くべき祝福されている自分を見ることになる。これは、内におられる聖霊様による ”いのちの自己言及”である。他人についても同様である。もし、聖霊様によって、自分が祝福されているビジョン見ることができたならば、その実質は速やかに実現する。

  今日、サタンが教会を敗北させている主な領域は、”人間の考えの領域”である。エバの思索の中で、悪いものが成長していた。(チラチラするものを見ないこと) 悪い思いをすべて締め出して、神様のみことばにとどまるとき、私たちは平安と祝福の中に留まることができる。(みことば = 隠れ場)
  ”考え”は霊の出入り口である。 信じることは、考えの中で始まる。 聖書、また、聖書的原則を読み、深く瞑想すると、私たちは創り変えられていく。(ロマ12:2、ヤコ1:21、 ロマ12:2の「変える」は マコ9:2、3(変貌山)の「変わる」の語源)) それは、この世にあって、イエス様と同じような者であることを信じることによってそのようになる。
  たとえば、癒される人が、”考え”の中に油注ぎを受け取って、その後で、癒しの働きが起こる。
  私たちの中に、超自然的な刷新が起こされるためには、まず”考え”から始められていかなければならない。


 2) 言葉;

  言葉は思考プロセスを通して働く。もし、私たちが、”しっかりと考えて”みことばを信じるならば救われる。(Tコリ15:2)((注) 救い = 霊の救い のみならず、いやし、健康、繁栄、解放、全き者となること)

     「心に満ちていることを口が話す」(マタ12:34)

  神様は完全になった人を求めているのではなく、神様を信じることによって全き人になり、義とされる人を探しておられる。人間的に努力して聖なる者になれるわけではない。それは、みことばを単純に信じる(「わきまえの無い者(=単純な者)に悟りを与える。」(詩119:130))ことによって、「聖く、傷がなく、非難されるところがなくなる。」(コロ1:22) ただし、そのためには、霊的な”飢え渇き”が必要である。「義に飢え渇いている者は幸い。その人は満ち足りるからです。」(マタ5:6)

  「心の霊において新しくされ」(エペ4:23)、「悪い言葉の一切を口から出してはいけない」(:29)、「人はその口の実によって良いものに満ち足りる。」(箴12:14)、「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。(=預言的に語ること)」(箴16:1)、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法(=みことば)を守る者は幸いである。」(箴29:18)

 ・・・ 私たちは、口で告白するものを得るようになり告白する通りの人になる。これは、思索の”考え”が満ちると、口の”言葉”になり、そしてその言葉に”霊”が働くからである。神のみことばを(よく考えてから、信仰をもって)告白しつづけるならば、そのみことばに聖霊様が働く(ヨハ6:63)。そして、神のことばは必ず事を成し遂げ、空しく帰ってくることはない。(イザ55:11)


  以上をまとめると、

       救い → 聖霊様による自己言及 → 思索に満ちる

                  → みことば・預言的言葉の告白(言葉+行動) → 聖霊様が働く



  聖書の祝福のみことばの通りに考えると、神様からの祝福を受け、内側から変えられる。結局、神様は、アダムとエバ以来の罪の性質による悪循環を、聖霊様によってきよめ、神の良い循環にしてくださったのである。それは、サタンや積極思考のような 自分が神のようになろうとしてではなく、へりくだって受ける 上からの一方的な愛によって、無条件に神の子とされ、神様のことばによって生き、そして、品性にあっても力にあっても キリストに似た者になっていくこと( Christ‐like‐ness ・・・ 私たちの地上における最終目標)である。



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