2. ゲーデルの不完全性定理



  人間は、どこまで”知る”ことができるのだろうか?
  B・ラッセルによると、歴史上の哲学者たちの主張する、この”認識論”の問題は、『理性主義』 と 『神秘主義』の2つに大別される。 カート・ゲーデルは、前者の理性主義の立場から 数理論理学という 思索の最も深いところを厳密に追及し、そのことによって かえって 不完全性定理による人間理性の限界が明らかにされた。しかし彼自身は、(実在論者アインシュタインの影響もあって(*)) 生涯、”合理主義的”な(= 不完全性定理と矛盾した)世界観を持っていた。(この間違った信念に固執することは、結局、ゲーデル自身を精神的破滅へ追いやった。)



  (1) ゲーデルの不完全性定理:


  ”言葉”や”数学”の論理的骨子は記号化してすべて厳密に扱うことができる。
  述語論理とは、古典的な”命題論理”を拡張して、主語・述語にある量化された命題についても記号化して厳密に扱うもので、日常言語における あいまいさや多義性を避け、一定の公理と推論規則を人工言語によって厳密に構成するものである。(記号列を意味論上の普通の文に戻すことを”解釈”と言う)

  ゲーデルは、”述語論理のシステム S において、すべての命題が決定可能(証明可能)であること”・・・”完全性”を証明した。(述語論理の完全性定理(1929)) これによって、述語論理のすべての妥当な推論規則が公理化され得ることが明らかになった。彼は、アリストテレス以来の論理学を完成させたのである。
  一方、数学については、ヒルベルト‐アッカーマンの公理系が提案された。すべての数学は、公理的集合論 という それ以上単純化できない形式に還元される。この公理系の形式的な記号列も意味論上の解釈によって数学に持っていくことができる。(1928)

  ところが、数学については、そのような完全性が成立しないことが、不完全性定理(1931)によって明らかにされた。 (数学の不完全性、あるいは、無尽蔵性) 一般に、システム S が正常であるとき、真であるにもかかわらず S 内部では証明できないような命題(ゲーデル命題 G)が存在する。 すなわち、

  第一不完全性定理: システム S が正常であるとき、S は不完全である。

  第二不完全性定理: システム S が正常であるとき、S は S 自身の無矛盾性を証明できない。

  不完全性定理は複数の定理の集合であって、オリジナルの 自然数論の『ω無矛盾性』(ゲーデル、1931)についての不完全性が、『単純無矛盾性』(ロッサー、1936)の不完全性に拡張され、さらに、『真理性』(タルスキー、1936)、『計算可能性』(テューリング、1936)、最近では 『ランダム性』(チャイティン、1989)などのように不完全性の範囲が拡張されていった。
  不完全性定理が導いたのは、たとえば、自然数論の無矛盾性を証明できないことではなく、自然数論の無矛盾性を”自然数論内部で”証明できないことである。これは S + G にシステムの範囲を広げても新たなゲーデル命題 G’ が出現し、どこまでも同じ事の繰り返しである。
                                      ( →  不完全性定理の証明(抜粋)



  (2) コンピューターの不完全性:


  コンピューターは、アルゴリズムを表現する言語(構文論)、アルゴリズムを解釈する方法(意味論)、解釈したアルゴリズムを所定の手順で実行する方法(マシン化)の定式化によって構成される。構文論と意味論は 述語論理の公理系と同じように厳密に定義できるので、テューリングはアルゴリズムの各ステップを述語論理によって推論規則化し、純粋に機械的な操作によって答を導くマシン(テューリング・マシン)を想定した(1936)。
  現代のコンピューターでは、特定言語のプログラムによって、アルゴリズムがソフトウェアとしてハードウェアの各装置に組み込まれるようになっている。 たとえば、BASIC言語では、
            
  プログラムの記号は、1個の記憶回路 X に = の右辺の値を上書きする命令を表し、結果は、”1、2、3、・・・”がプリントされる。STEP 4からSTEP 2 へ戻る命令は”ループ”と呼ばれ、これを数学的に表現すると ゲーデルの”原始帰納関数”である。
  さて、このテューリング・マシンは、自然数論を含む一般システムであり、不完全性定理が拡張されて、次の定理が導かれる。これらはいずれも アルゴリズムによる思索の限界、すなわち、コンピューターの理論的な限界を示している。

  ゲーデル・テューリングの不完全性定理: すべての真理を証明するテューリング・マシン(= コンピューター)は存在しない。(1936)

  チャーチの非決定性定理: 任意のテューリング・マシンが何を導くかを事前に決定するアルゴリズムは存在しない。

  テューリングの停止定理: 任意のテューリング・マシンがいつ停止するかを事前に決定するアルゴリズムは存在しない。


   ・・・ コンピューターに守られた”バベルの塔”はどんなに完全に作っても不完全である。666の象徴(黙13:18、創11:4)。 第6日に造られた”獣”と”人間”(創1:26)はあらゆる方面で 神の安息(”7”)に達し得ない!



  (3) 人間機械論の否定について(未解決):


  百数十億個ある人間の脳細胞の集合体がすべての精神活動・理性を決めるのだろうか? ニューロン一つ一つに電極を刺し その機能を調べる研究は端緒についたばかりであるが、ニューロンが”ON状態(発火状態)”か”OFF状態”のいずれかの状態をとることは、デジタル信号の”0”、”1” と同じであるということが知られている。これは、、人間の精神構造が少なくともコンピューターの側面がある可能性を示唆している。
   しかし、純粋に論理学的手法によって、不完全性定理から ゲーデルは”人間機械論の否定を示そうとした。

  プログラムのループに相当する原始帰納関数は一般帰納関数に拡張され、また、思索による一般的な”計算可能性”は、”テューリング・マシンの計算可能性”と同等であることが証明された。(チャーチ‐テューリングの提唱)(1937)
  したがって、アルゴリズムで表現できるすべての”思索”は コンピューターの計算可能性と同じである。ここで、もし、人間の思索がアルゴリズムに基づいて機能するならば、少なくとも理性にあって、人間はコンピューターと同じことになる。(人間機械論)

  ゲーデルが導いた反機械論は、数学実在論とセットの形で導出され、2段階の”選言命題”の形である。(1951、ギブズ講演)

  定義1 すべての”真の”数学的命題の体系を”客観的数学”と呼ぶ。
  定義2 すべての”証明可能な”数学的命題の体系を”主観的数学”と呼ぶ。

  帰結1 数学が客観的数学ならば、いかなる公理系もすべての数学を含みえない。(不完全性定理と同じ)
  帰結2 数学が主観的数学ならば、人間は有限機械と同じである。(機械論)

  ・・・ 帰結2は 不完全性定理より、人間精神も コンピューター同様 自己の不完全性に直面し、人間精神の機能を完全には理解しえないことになる。もし、帰結2を否定すると次の帰結が導かれる。

  帰結3 人間精神は、いかなる有限機械をも上回る。
  帰結4 人間精神によって、絶対的に決定不可能な多項式問題(= ゲーデル命題)が存在する。
  選言A 帰結3、または、帰結4、または、その両方が正しい。

  ・・・ 帰結3のみが正しいとすると、次の帰結が導かれる。
  ((注) ゲーデルは後に帰結4を否定したが、これは彼の間違った”信念”(=合理主義的世界観)によるものであり、この個所の彼の論法は古典論理からすると”論点先取りの虚偽”になっている。)

  帰結5 人間精神は、脳の機能に還元できない。(反機械論
  帰結6 数学的対象は、人間精神から独立して存在する。(数学的実在論
  選言B 帰結5、または、帰結6、または、その両方が正しい。

  ・・・ 数学的実在論は、数学が人間精神と独立して存在していることであり、現在これを支持している数学者、哲学者は多い。このように、現在のところ、人間が単なる機械以上の存在であることの可能性が論じられている。
  これらの考察はある種の”生気論”を支持しているように見える。すなわち、人は、言葉や述語論理を用いる”理性的”な生物であると同時に、本来”霊的”な存在である。


  「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り(機械論)、その鼻にいのちの息を吹き込まれた(生気論)。そこで、人は、生きものとなった。」(創2:7)



  (4) 遺伝子による発生過程の不完全性(チャイティン(**)のランダム性):


  大きな自然数の桁に現れるそれぞれの数(2進数)について、たとえば、
  100100100100100100100100 は 100 の8回の繰り返し、と短く表現できる(圧縮可能)が、
  101100010111010011011010 は これ以上の規則性を見出せない(圧縮不可能)。
  後者のように、”それ自身よりも圧縮できない数列”を ”ランダム”と 数学的に定義することができる。

  自然数論を含むシステム S の、公理と推論規則を記述するプログラムを、2進法でコード化したビット数を n とする。 もし、S が n ビットよりも長い数列のランダム性を証明できるならば、その証明を可能にする n ビット以内のサブプログラムが存在するはずである。しかし、ランダム性の定義により、n ビットよりも長いランダム数は それよりも圧縮されたプログラムでは表現不可能であり、これは矛盾である。したがって、

  ゲーデル・チャイティンの不完全性定理: 任意のシステム S において、そのランダム性を証明不可能なランダム数 G が存在する。(1987、チャイティン・IBMワトソン研)

  ・・・ ランダム数 G はゲーデル命題の一つである。多項方程式の解が有限か無限かを決定するための 無限に続く命題と同様である。

  ランダムに選択されたプログラムが、コンピューターで動かされた場合に 停止する確率 Ω を定義する。(Ω = 0 のとき すべてのプログラムが停止しない、 Ω = 1 のとき すべてのプログラムが停止する。通常は 0 と 1 との間にある。)
  公理系 S と命題 P を記述するために n ビット必要であるとすると、公理系 S によって 命題 P は証明可能”(あるいは”反証可能”)である ということは、”プログラムが停止する” ということと同値である。
  (決定不可能であれば命題はいつまでもだらだら続き 停止しない。計算時間の長さではなく、計算過程のプログラムの複雑さによる。) すなわち、プログラムの停止確率 Ω は、公理系 S による任意の命題 P の”真理性を表している。
  ところが、上記の テューリングの停止定理により、チャイティンは この真理性 Ω が完全にランダムであることを証明した。

  チャイティンの定理: 真理性 Ω は、ランダムである。

  システム S における任意に選ばれた命題 P の真偽性は、上記の数列 1011000101・・・ のように純粋にランダムである。あらゆるプログラムが停止するかしないかは、コイン投げによる数列と、数学的には何の変わりもない。理性だけで判断するならば、神は、物理学においてのみではなく、数学においても”サイコロを振る”のである!

  したがって、システムは自己の情報量(複雑さ)を超えたランダム性を決定できない。すなわち、自己プログラムを完全に理解するコンピューターの概念は不可能である。

  このことを、遺伝子によって生物が発生する過程に適用することができる。
  DNAにある”遺伝子情報”を 生命体を構成し作り上げるための”プログラム”と解釈するならば、その出来上がった生化学的コンピューターの”複雑性”は、 Ω の含む情報内容と同じ程度にしか計れない。アルゴリズムがそれ以上複雑に成長すると、原理的に、遺伝子過程の特定が不可能になる。
  (直径30cmのお化けシジミ、恐竜の巨大化の遺伝子ではなく環境による限界?)


  「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」(マコ4:27)

  ・・・ みことばの種の成長と同じ。 良い麦と毒麦とは成長途中で見分けられない。実を結んでいるかの結果を見て経験的に知るしかない。


  *  ゲーデルは、亡命先の米国プリンストン高級研究所で、生涯アインシュタインと交友を持った。
  アインシュタイン(ユダヤ人)は、決定論的自然観を持ち 物理学的実在論を信じていた。
  一方、ゲーデル(異邦人・オーストリア人)も生涯、合理的世界観を持っていて、アインシュタインと話が合い、どちらも”理性主義”に立って追求した。しかし、彼は、後に”神の存在論的証明”を書いた直後、それを撤回し、精神的に完全におかしくなった。彼の信じていた”理性”による 神の存在証明が根本的に間違っていることに気がついたからである。


  ** チャイティンは、ゲーデルやチューリングの学問的後継者であり、ランダム性を通して形式公理的数学に限界があることを発見した。彼は、数学の創造には 情熱・直観・霊感が関与し、”芸術”と同じだと語っている。


  (参考)  脳細胞の視聴覚への反応:   ・・・・  神が人や動物を創造した証拠

  最近の研究によると、微細な電極をニューロンの一つ一つに刺してその興奮状態を調べる実験によると、サルの大脳の下側頭回には、図形(+、−、l、などの単純な図形)に個別的に反応するニューロンが存在し、それらの細胞が組み合わさって、より複雑な図形を識別する細胞が構成される、というような情報処理プロセスがこの領域にあると考えられている。つまり、細胞レベルで、すでに 反応する図形が決まっているらしい。(+ に反応するが、○、×、△には反応しないニューロンなど)

  また、ネコの脳に、特定の周波数領域の純音(時報のピー音)、ネコの威嚇の「シュー」という音、コオロギの「リンリン」音、など、様々な音に特異的に反応するニューロンが見つかっている。
  それらの知見などから、音楽の認識としては、大まかに以下のように推定することができる。
   @各周波数、各音量の純音に特異的に反応するニューロンがある。
   A次第に大きくなる音、小さくなる音などを識別するニューロンがある。
   Bいろいろな「音色」(楽器の音色を含めて)に特異的に反応するニューロンがある。
   C以上のそして、その他の様々なニューロンの組み合わせ、さらに、時間的な音声記憶の流れなどで、音・音楽を認識している。

  (以上は、内科医 S 兄よりのコメントでした。感謝します。)


  人間の聴覚は音の高さと強さについて指数的(逆から見ると、対数的)な感度を持っていることが知られている。音の 強さ に関しては、「人間の聴覚は、物理的な刺激が2倍、4倍、8倍・・・というように倍増すると、はじめて等間隔で音の感覚が大きくなったように感じる。すなわち、感覚が物理量に比例する対数的性質を持っている。」という Wever-Fechnerの法則がある。そのため、dB(デシベル)という単位が使用される。 また、人間の聴覚は、音量と同様、音の高さにも指数的感覚を感覚を持っている。特に音の 高さ が2倍、4倍、8倍・・・の場合にはオクターブの変化なので、音の強さ以上に明確に意識される。

  (蛇足: ”人間万事塞翁が馬”が転じて、”にんじん好きは細胞が馬”?)


             次へ          1.へ戻る