4. 人の霊的な能力について



  人は「神に似せて造られた」とは、どういう意味だろうか?
  人は陸上の動物と同じ 第六日に造られたが、神の息が入れられ、初めから霊的に生きたものとされた。アダムとエバは、動物に名前をつけ、動物を支配するように 神様に命ぜられた。


  (1) 語ることについて:


  @ 人間は、唯一”言葉”を使用する動物である。イルカやサルなども互いに音波でコミュニケーションをとるが、大脳皮質が発達して、圧倒的に複雑な言語を用いることができるのは人間だけである。
  さらに、A 人間は”霊的な”生き物である。それは、語る言葉に霊が宿りうる(言霊(ことだま))と言われている。人が罪に陥る以前は、アダムとエバのように礼拝を通して神との交わりがあり、おそらく聖霊様を通しての神との霊的な言葉のコミュニケーションができたと思われる。そして、彼らの語る言葉はみな祝福された
  神は”言葉の神”であり、また ”霊的な存在”であるから、神の姿に似せて造られた人もそのようである。動物には霊が無い。

  堕罪の後、ノアの洪水後のバベルで、神が人間中心主義(人本主義)を打ち砕くために言語が混乱するようにされ、この混乱ののろいは イエス様の十字架によって解かれ、再び一つになって回復し、これが”異言”であると言われている。天国では一つの言語になっている。
  (cf. ザメンホフ(ユダヤ人)が考案したエスペラント語は人間的試みであり祝福されていない。)


  「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」(マコ11:23)

  「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(出エジ14:15)


  もしキリストの十字架を信じて罪が赦され、そして、聖霊様のバプテスマを受けているならば、誰でも、語る言葉が神に造られた人間本来の”言霊”になり得る。ここでは、もし”祈ったならば”ではなく、語る”ならば”誰でもと書いてある。
  キリストにあって自分が何者であるかを知っているならば、このように神の権威をもって”言う”ことができる。(注)大声で言うのとは違う) それは、内側に神の力が宿っているからである。だから、神に対し賜物の責任を負うことになり、また 否定的な言葉もそのとおりになるので、語る言葉には気をつけなければならない。

  ”病気”という抽象名詞にそのまま、イエスの名によって、言葉で命令することは、いやしとしては最も基本的な方法である。(もちろん方法はこれだけではない(ヨハ21:25)) これには必ずしも 医学的に正確な病名や個所を語らなくても良く、ただ信仰をもって 子供のように単純に行えば良いのである。(メル・ボンド師の集会では9歳の、しかも その場で信じたばかりの子供がいやしを行った。) 語る言葉がそのまま預言になることもあり、また幻や知識の言葉が示されたらそれに対して語っていけば良い。

  通常は、まず病気の悪霊を追い出し(病気の名前に霊をつけて ”〜の霊よ、出て行け”など)、そして傷ついた組織や心に対し癒されるよう、あるいは再創造されるよう命令する。(悪霊が関与していない損傷については、再創造だけを命じる。 悪霊が追い出されると、バラの花が開くように、あるいは 押し縮められたバネが解放されるように、すみやかに自然治癒が開始する。悪霊にはデフォルメする力があり それが取り除かれるからである。(*))
  また、病を探してはいけない。良くなったところを探すようにすべきである。癒されている人に様子を聞くときも注意。(「探せ、さらば、見出さん。」(マタ7:7)、「舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴18:21))

  御名の力: イエスの名は、常に付けられる。なぜなら、イエス様にあって我々は義とされた者だからであり、(会社の書類に社長(あるいは 最高権威筋)の承認の判を押したようなもの)、悪霊や物や抽象名詞に対して”権威”(= 力)を持つのである。これが”霊的な法則”であり、不思議なことに、それらは言葉のとおりに従わなければならないのである。
  ただし、わざがはっきりと起こされるためには、何よりも聖霊様の臨在が十分強くなければならない。つまり主が働かれる動機(計画、あわれみ、主の栄光、求める、・・・)がなければならない。律法的、制度的環境(= 建前はどうであろうとも、事実上 神を度外視した 人間中心的な環境)ではわざは起こらない。(社長の判が軽々しく押されないのと同じ)

  解放には明確な神の時があり、解放と同時に救いに導く必要がある。(ルカ11:24−26) 悪霊との関係が長期にわたっている人に対しては 祈りと断食の併用が必要である。(マタ17:21)(黙示録の最終的なさばき(7つ目の鉢)は悪霊の無制限な憑依(ひょうい)状態である。(黙16:17、19:17、18)) また、イエスの名によってのろうなど、御名をみだりに(= 不正に)用いてはならない(御名を用いる回数ではない)(出20:7)。


  いやしと悪霊追い出しは、福音書の記事の約1/3 をも占める。それは神が愛の神であり、いやしは御心だからである。サタンによって束縛されてきた世の人たちに対し、神の愛とあわれみをいやしによって現そうとされるのであり、いやしと悪霊追い出しが起こるとき、”御国が来た”ことの重要なしるしになる。

  イエス様が神である理由から多くのわざをしたというのは間違いであり、信じる人は誰でもできるのである。これこそ神の子イエス様が人として来られた証である。 現在は聖書が完成しているから奇跡はもう必要ないという教え(契約神学)は致命的な間違いであり(Tコリ13:10の曲解、「完全なものが現れる」とはキリストの再臨の事を言っている)、むしろ、聖霊を汚す罪(= 赦されない罪)のスレスレの所まで来ているのである。聖霊のわざを否定する、あるいは 消極的にさせる働きは 明らかに最も効果的なサタンの働きである。なぜなら神の存在を不明瞭にするものだからである。もし、ねたみによって 悪意をもって 聖霊様の働きを悪霊呼ばわりしたらアウトである。(「後の時代にあっても赦されない罪」) パウロはコリント教会の人たちにさえ、御霊の賜物をさらに熱心に求めなさいと薦めている。

  また、特に、日本型リバイバルに向けて、誰でも聖霊様のわざができるように、積極的に人々を育て上げなければならない。(JRMによるメル・ボンド師のミニストリーなどではこれを行っている。) すなわち、神が与えた個人の召しと賜物”が開かれるように牧会していく必要があり、教会において、決して制限するような環境にしてはいけないのである。

  (注) リック・ジョイナーの天国に行ったあかしによると、歴史上非常に著名なある宗教改革者は、非常に大きな功績にもかかわらず 教会を強制収容所のようにしてしまったので、天国の最下位(雲のような証人の一人)にいたそうである。 また、80万人教会のチョー・ヨンギ牧師は 彼の信仰の初期に”ずば抜けて大きな器にする”という明確な神の言葉があったのでこのように成長した。神の言葉が無いのに同じようにまねをして失敗した多くの器たちがいる。)



  (2) 見ることについて:


  人の脳は、視覚野と認識野が後頭葉にあり互いに近い。(言語と意志は前頭葉にある。) 視覚野では、目で見る形状や文字、色などをすばやく捕らえて、聴覚などよりも多くの外部からの情報を認識して判断する。(サルの動体視力は人間の10倍あるそうである。鷲は数100m先の小さな獲物を見つける。)
  しかし、人は霊的な存在なので、”霊的な目”が聖霊様によって開かれたならば、神からの重要な多くの情報を視覚的に受け取るのである。我々は、霊の目で見ていないために どんなに多くの恵みを失っていることだろうか。


  「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」(U列2:10)

  これは象徴的である。エリシャはエリヤに「ここにとどまっていなさい」と言われたにもかかわらず、粘り強くエリヤから離れなかった。そして、エリヤの2倍の祝福を要求した。彼はエリヤが竜巻に乗って天へ上っていくのを”見た”ので 望んでいたものを手にした。その直後、エリヤが外套で水を打って水を分けていたのを見ていたので、すぐエリヤのように”行動”をして水が分かれ、エリヤにあった預言者の油注ぎが彼の上にあったのである。
  すなわち、見る”ことは、”所有する”ことである。


  「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」(ヨハ5:19)

  イエス様はいつも御父との親しい交わりの中で、御父の示す幻を見て そのとおりに従い、そして 神のわざを行っていた。

  芸術家は、まず座って、リラックスして、心のキャンバスに リソースを描く。 同様に、礼拝者、賛美リーダー、説教者、伝道者、預言をする者、ミニストリーを行う者、そして、すべての信仰の道を歩む者 ・・・ すなわち、創造的”な働きをするすべての人々(クリスチャンは本来そうあるべき) ・・・ もそうであり、神から瞬間的に示されるひらめきをとらえ神の芸術のキャンバスにそれを表現して、主の栄光を現す。 それらは、きよい生きた供え物として神にささげられるのである。(「霊的な礼拝」(ロマ12:1)、「霊とまことによる礼拝」(ヨハ4:23))
  ちなみに、取税人や遊女たちの方が、宗教の霊に囚われた宗教家たちよりも、先に神の国に入る。急進的な、あるいは、同性愛に落ちた芸術家の方が、実は、真の礼拝に近い。(マタ11:20−24) 「幻のない民は滅びる(箴29:18)」とあるように、神からの幻が無いと”創造的”ではない。創造的でなければ死に向かっている。

  フランシス・ハンター師は、”1000ドルの小切手を渡す男性の手”を聖霊様による幻で見て、集会の3日目に実際に受け取った。彼女はこのような幻を何度も見て 毎回 実際に得ている。(ある男性は、集会の前に子供に小切手を持たせて走って渡させた。それは、彼が前の年の集会で 1000ドル献金することによって10万ドルを受け取ったので、献金の時を待ちきれなかったからである。)

  チョー・ヨンギ師は、国会議事堂の前に一万人の会堂を建てた時、15人〜35人しか来なかったが、目をつぶって説教し ”霊の目”で会堂が一杯になっているのをいつも”見ていた”。その当時、目を明けているよりも、目をつぶっている時間が長かったそうである。そのようにして、人が増え、さらに増え、どんどん増え、ついに80万人の世界最大の教会に成長した!


  「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。そのように、彼は多くの国々を驚かす。」(イザ52:14)

  「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」(イザ53:10)

  「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラ3:13)

  十字架の予形は、アベルの羊の初子のささげもの(創4:4)、アブラハムによるイサクのささげもの(創22:1−)、ヤコブの皮をむいた枝とぶちとまだらのやぎ(創30:33−)、かもいに血を塗る(出エジ12:23)、竿につけられた青銅の蛇(民21:9)、全焼のいけにえ、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、祭壇への血の注ぎかけなど(レビ1−7)、遊女ラハブの目印の赤い紐(ヨシュ2:18)、・・・ のように、初めから主が語り導いたもので、それぞれについて”信仰”をもって行った場合、主は奇跡としるしを伴う大いなる祝福と災いからの守りを現してきた。
  アダムとエバ以来 罪に落ちた人間が、神と和解して本来の関係になり、神の民としての祝福を受けるために、いつも神にささげる”犠牲の血”が必要であったことを示している。そして、その完全な現れは、神ご自身によって備えられた、御子イエス様の十字架である。

  (神は良いことをする、良い神である。罪が無いとなれば、祝福は洪水のように押し寄せる。)

  十字架上のキリストの幻は、非常にダメージを受けて 人であることもわからないほど砕かれている姿で、時代を超えて 多くの国々の人々に現れる。人々が驚くのは、その姿がひどく砕かれているからである。そして、聖霊様によって、このような幻が見せられる場合、見た人に いやしと解放と祝福が現れるのである。
  いやしの場合、根気強く イエス様の上に自分の病を見続け、ある時 聖霊様による啓示として”見た”ならば、そして、自分がいやされて元気になっているのを見たならば、速やかにいやされる。そして、この方法は、主の”みこころなのである。


  「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(Vヨハ:2)

  ”見る”ことは、”想像する”ことではなく、このように起こるという”信仰”を持つこと(信仰に基づいて語る行動すること)である。神からの情報は信仰の種である。
  我々は神の計画見てその次元に入る必要がある。自分の想像に入ったり、みことばと一致しない幻を見たりしてはいけない。人は罪の性質により悪魔の計画に目を留めやすい。それに打ち勝つためには、ほんの少しの聖霊様による幻が必要である。
  宝の山である聖書にある神の祝福の約束のみことばは、霊の目で”見る”ことによって成就する。見る”ことは、”所有する”ことである。

  もしあなたが、”いやし”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”お金”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”解放”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”結婚相手”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”家族の救い”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”教会成長”が必要ならば、見なさい。
  もしあなたが、”事業の成功”が必要ならば、見なさい。


  (ハンター夫妻はご高齢であるにもかかわらず、今も奇跡が起こっているそうであり、十字架の真理があかしされている。)

  *  創造された時、動物はみな本来草食であったと書いてある。(創1:30) 動物どおしが食い合う 弱肉強食はサタン的としか言いようがない。解放されれば、”草を食うライオン”が飼われるかもしれない。解放は、消化器官や歯なども草食向きに瞬時にいやされることが予想される。


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