(参考) 世界の宗教と仏教の変遷
・・・ 「仏教の中のユダヤ文化」、久保有政、学研、2005年6月より
1. 世界の宗教の系統:
1) セム系宗教: 旧約聖書の唯一神教から分かれ出たが明確な”唯一神”という点では変わらない
・ キリスト教(1神教かつ三位一体、旧約聖書+新約聖書)
・ ユダヤ教(1神教 (*)(ヤハウエ神)、メシヤは待望中、旧約聖書+タルムード(教義集))
・ イスラム教(1神教 (*)(アッラーの神、 ムハンマド(マホメット)は預言者)、旧約聖書+コーラン) ・・・ イシュマエルは漠然とした唯一神を信じていた。ムハンマドやその教えを受けた”教友”であるイエスやモーセやマリアなどの像を作ることは偶像崇拝とされる
(* (筆者注) ゲーデルの不完全性定理より、人間理性で想定しうる、単純な”全知全能かつ無矛盾な神”の概念は存在し得ない → 神の愛の奥義(2) )
2) ハム系宗教: 元々、唯一神教 → 急速に多神教化した
・ シュメール人の”空の神” → その歴史の終わりには5000の神々
・ エジプトの神々も元は1神教
3) ヤペテ系宗教: メディア帝国(マダイ) → アーリア人(インド人、ペルシャ人)
・ ゾロアスター教(BC15−16c、他にも多くの神々があったが
拝むべき神は唯一(アフラ・マズダ(英知の主)) → ササン朝ペルシャの頃、2元論的な教理(アフリマンとアフラ・マズダ)に変わる
・ バラモン教(BC15、聖典”ベーダ”(サンスクリット語で”知る”の意)=英知の経典)、火神アグニ → 宇宙の本体としての神=ブラフマン(梵)・・・漠然とした一神教、ブラフマン(梵)と自分(我)は一体、に変わってきた
・ 原始仏教(哲学)(BC6c、シャカ、無常・無我・涅槃、”人間”の悟りと英知によって 輪廻世界の苦しみから脱する、神の存在は無関係)
∴ ヤペテ系においては、 英知の主 → 経典の英知 → 人間の英知 のように変遷した
・ 孔子、老子(BC6c頃、孔子;「天」、老子;「道(タオ)」として
漠然とした”神”を用いている)
2. 大乗仏教におけるキリスト教からの盗用:
・ 大乗仏教: 原始仏教では、神の存在は無関係だったが、大乗仏教では、漠然とした一神教:毘盧舎那(びるしゃな)仏(東大寺の大仏はこれを表わしたとされる)・・・宇宙の中心にいる真理そのものの仏
・ 仏像: 原始仏教の頃は無かった。BC4c頃、ギリシャのアレクサンドロス大王遠征により、インドとギリシャ文化の交流がなされ、ギリシャ彫刻の文化により仏像を作るようになった。初期の仏像はギリシャ彫刻に似ている。
・ 原始キリスト教の影響; AD1c 使徒トマス、使徒バルトロマイらがインドに伝道
AD52 インド南部に7つの教会
AD2c 南インドに爆発的にキリスト教徒が増えた
・・・・・ 既存の宗教はキリスト教に対抗する形で、聖書から盗用して民衆を取り返そうとした。たとえば、
・ ヒンドゥー教のクリシュナ神・・・キリストの姿を模倣 〜 福音書より借用している
・ 大乗仏教: インド哲学者”竜樹”(150−250、大乗仏教8宗の祖の一人)によりキリスト教的要素が取り入れられた ・・・・ シャカ伝(・ 三つの誘惑、 ・ 2枚の銅貨、 ・ シャカの母の処女性、予言、 ・ 少年期にバラモンを驚かせる才能、 ・ 49日間の誘惑、 ・ 救世主、 ・ 治癒神、 ・・・ 新約聖書と一致する点が非常に多い
その後の経典の多くは、シャカ亡き後、仏教徒が長期にわたって作り上げた
現実とかけ離れた空想話やフィクションで一杯である。
・ 阿弥陀仏についての聖書の転用;
・ 西方の極楽浄土はパレスチナを指す。
・ 阿弥陀仏の”永遠の命”(無量寿・アミターユース)と”永遠の光”(無量光・アミターバー) = ヨハ1:4からの借用
・ 人間観・・・煩悩具足の凡夫(罪深い者たち)、阿弥陀仏の憐れみにすがれば救われる = ロマ3:10からの借用
・ もう一人の偉大な存在者(”世自在王仏(せじざいおうぶつ)”のもとで人類救済、阿弥陀仏は国王から出家して世自在王仏のもとで悟りを求める心を起こした
・ 身代わりによる救い・・・阿弥陀仏が身代わりに修行したから、彼を信じるものは救われる。阿弥陀仏の名を唱えるだけで救われる(南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ))。 = 使2:21
・ 救いの対象は”悪人”・・・親鸞の歎異抄にある”悪人正機”、親鸞自身”悪人”と考えていた = パウロの「罪人のかしら」
・ キリスト教の「恵み」は仏教の”他力”、「信仰」は”信心”へ転用された。修行を積むのではなく、心に信じて救われ、口に阿弥陀仏の名前を唱えて、極楽へ行ける身になれる。 = ロマ10:10、エペ2:8
・ 法華経への転用;
インドで生まれた大乗仏教の経典の一つ(AD50−150)、南無妙法蓮華経と唱え、三つの新しい思想をもつ。
1.万人成仏の思想(一乗妙法)・・・一つの乗り物に誰でも
2.永遠の救い主(久遠実成の仏)・・・人間シャカは神格化され永遠の仏になった
3.実践論(菩薩行道)
・ 三身一体(さんしんいったい) ・・・ 法身仏、報身仏、応身仏、それらの どの一仏も 他の二仏はその中に含まれる = 三位一体 。 中国におけるネストリウス派(景教)では 「御父」=「妙身」、「御子」=「応身」、「聖霊」=「証身」と呼ばれた
・ 日本の鎌倉時代以降は、親鸞・・・浄土真宗、道元・・・曹洞宗、日蓮・・・日蓮宗、らによって、仏教が大衆化されていった。(仏教布教の使徒のような働き)
∴ 仏教は発展するほど、キリスト教の要素を取り入れ、キリスト教に似てきた。ヤペテ系の元々の「唯一神」が、”経典の英知”になり、次第にむなしい”人間中心の哲学”に変わっていったのは、人間の罪の性質(高慢、人間中心)によるもので、バベルの塔と同じである。また、仏教の教えの部分に感銘を受ける人も多いが、その良い部分は聖書のみことばからの盗用である。これは、浄土真宗がはやっていた織田信長の時代に、民衆が簡単にキリシタンに改宗できたのもこのためである。
3. 聖徳太子伝の仏教への書き換え:
535年以降の世界的な異常気象による飢饉や疫病のため、人々は現世利益をもたらす新たな信仰を求めていた。538年朝鮮半島から仏像や仏典が送られてきた時、宣化天皇は外国からの仏教を受容すべきか否かを決めかねていた。蘇我氏(仏教派)は仏教推進派で、天皇に日本も仏教を受け入れるべきだと進言したが、物部氏と中臣氏(神道派)は反対した。天皇は、蘇我氏に仏像を安置することを許可したが、その直後に天然痘が大流行し、その災厄のゆえに物部氏と中臣氏は仏教を非難した。(”疫病神”という言葉はここからきた))
587年蘇我馬子は、次の天皇となるはずの皇太子(穴穂部皇子、宅部皇子)、及び、崇俊天皇を暗殺し、女帝・推古天皇を立てた。推古天皇の摂政として甥の”厩戸皇子(うまやどのおうじ)”、すなわち、聖徳太子に実際の政治をゆだねた。時の実力者である蘇我氏は熱烈な仏教派であったが、推古天皇も聖徳太子も基本的に神道派であった。しかし、蘇我馬子は聖徳太子を暗殺したようであり、蘇我入鹿は聖徳太子の子孫を皆殺しにした(643)。さらに日本書紀によると、蘇我蝦夷は645年に朝廷図書館に火を放ち、すべての”天皇記”、”国記”などを焼いたとされている。
さて、日本書紀に描かれている聖徳太子像は、かなり聖人化された仏教徒であり、仏教を日本にもたらした熱烈な仏教推進者ということになっている。しかし、江戸時代に伊勢神宮の伊雑宮(いざわのみや)の神庫(かみくら)から発見された『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』には、一七条憲法の”篤く三法を敬え”の三法とは、「儒・仏・神」と記されていて、政治的には 儒教、仏教、神道の融和をはかっていたことがわかる。しかも、一七条憲法そのものも一つではなく、一般人、政治家、儒教徒、神道家、仏教徒のそれぞれに対し計五つ存在する。また、聖徳太子は個人的には”古来の唯一神道”であり、INRI すなわち 景教(ネストリウス派)の流れを汲むものであった。
すなわち、日本書紀の”篤く三宝を敬え”(三宝=仏・法・僧)は、聖徳太子が没して1世紀後の720年に、仏教僧の権力者の道慈(?−744)によって仏教に都合の良いように書き換えられたのである。