十字架信仰の力 ・・・・・・・ 2011年巻頭言
2011 1/11
近代の世界は、啓蒙思想と共に 科学万能主義が世の中に蔓延し、信仰や教会が衰退して、かつての純粋なキリスト信仰が、物質的・自然発生的な起源に取って代わられた時代でした。
ところが、20世紀末にもなると、(人々が気付くか気付かないかにかかわらず)それが逆転して、神様の存在、創造主をあかしする
いくつかの重大な事実が発見され、かえって、「(新しい)自然啓示」による神様の根本的なあかしがなされることが可能になりました。 つまり、人間の繁栄のために
経済、軍事などの目的で、自然科学の探求を推し進めていった結果、「確率性」、「不確定性」、「相対性」、「不完全性」、また、「DNA」などの、人の理解をはるかに超える新事実が次々と明らかにされ、最終的には、「創造主」の存在の必然性や 非常に傑出した偉大さが ますます明らかになってきたのです。その方が「キリスト」である事を直接認めようとしない人たちによっても、いわゆる”サムシング・グレート”として広く認識され始めています。
1) 神様の設定について;
人や生物が生存可能な環境の範囲は、なんと狭いことでしょう。
生物に対する この地球の存在は、どう見ても”奇跡”です。 地球には、適度な重力、適度な太陽からの光、水・適度に地表を潤す雨、酸素、たんぱく質・酵素やDNAなどの有機物の水素結合が壊れず充分働く 適度な温度範囲、光合成する植物と適度な昼夜の長さ(光合成の明反応・暗反応のバランス)、自転や天体の動きに良く適合した生体リズム、・・・などが、すべて最初から備えられています。これらは、どれ一つ欠けても、次の瞬間、生物は存続できません。
地の基が造られて 次に、植物が繁茂し、充分 酸素と炭水化物などの栄養分を作り出してから、最後に
動物や人が造られた(創世記1:9−31)という、聖書の言葉が生きています。
動物の中で最も過酷な条件に耐えるので有名な”クマムシ”(緩歩動物)は、”乾眠状態”になると、151℃の高温から絶対零度の極低温まで、真空から75000気圧の高圧まで、また、乾燥、放射線に耐えて生き延び、条件が良くなると蘇生します。 また、深海の熱水噴出孔周辺(〜100数十℃、−2500mh、硫化水素、メタンなど)に住む”チューブワーム”(有鬚(ゆうしゅ)動物)は、体内に共生する硫黄酸化細菌による硫化水素の代謝により、太陽光が届かない海底で炭水化物等のエネルギーを得て生きています。
しかしながら、たとえば金星は、地表温度 400℃(500℃max)、大気は90気圧の二酸化炭素、自転は地球の117日分で、大気には厚い硫酸の雲が覆い
太陽光が地表届かず真っ暗な灼熱地獄です。金星にはどんな微生物も生息できないと考えられます。 一方、火星の地表での大気は、二酸化炭素を主成分とした大気が大気圧で地球の0.75%(約750Pa)しかありません。にもかかわらず、春秋には
ドライアイスの気化による季節風の大暴風が赤道を越えて吹き荒れ 火星全体が大砂嵐になります。地表温度は最高20度までになるので、(生命体の発生の可能性は全くありませんが、)地球から持ち込まれた微生物がもしあれば、それが生存する可能性はあるかもしれません。 そのほかの星では生存は絶望的です。
また、物理学的には、基本的な2大物理定数である c (光速: 3×108(m/S)、 h (プランク定数: 6.626×10-34(J・S) を、人間の日常感覚から定義された物理量の単位、長さ: メートル(m)、質量:
キログラム(kg)、時間: 秒(S、sec)、電流: アンペア(A)で表すと、108-(- 34) = 1042 ものレベルの差異があります。 光速 c は 相対論に代表される宇宙規模の記述、プランク定数
h は 量子力学に代表されるミクロの物質や素粒子などの量子状態の記述に用いられ、それぞれが扱われるスケールの大小には非常に大きな開きがあります。
したがって、これらの 神様が定められた物理定数に現れる神様の計量感覚は、私たちの日常の計量感覚と比べて、実に、10の42乗もの隔たりがあることになります。
この中間にある 日常感覚的なスケールの世界の場で、生命の営みや、人間の一般的・社会的な営み、また、霊、たましいの振る舞い、が成されているのは驚くべきことです。
2) 人に与えられた思索と物理について;
虚数単位 i (≡√(−1))は、人が直感できない、しかし、数学の中で確固たる地位を占めている3つの”数学定数”のうちの一つです。
他の二つは、円周率π と 自然対数の底 e であり、それぞれ初等数学の3分野、初等幾何学(π)、初等代数学( i )、解析学(e)から独立に導かれた最も基本的な数学定数になっています。そして、驚くべきことに、これらの3定数は、無限級数の手法で導かれた オイラーの関係式において、 eiπ = −1 (オイラーの恒等式)の形に合体します。 つまり、全く独立して発生した数学的思索の基本3分野が、この式において
一つの形に結集するのです。 ベンジャミン・パース(19世紀の数学者・米国)は、このオイラーの恒等式を、”我々はそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも知らない。しかし
それが証明されたゆえに、それが真実に違いないと知っている。”と評し、また、20世紀の物理学者のリチャード・ファインマンは、”人類の至宝”と呼びました。(どちらもユダヤ人)
また、自然においても、ミクロの水面下の世界では、実に、数学3定数の思索の世界がそのまま当てはまる「波動関数」の形になっています。
マクロで見ると、熱力学や物理化学の式に見られるように、周りのどこを見渡しても”死”(e−x : x(実数))だらけです。(逆に、それが一種の安定化にもなっています。) つまり、初期値があって、後は指数関数的に減少する世界です。大宇宙にもある初期値があって、すべては時間と共にエントロピーが増大して、全体が疲弊していきます。
ところが、ミクロで見ると、純虚数の指数関数の「波動」(eiθ)が水面下にあって、それは永続的に存在し続ける、すなわち、初めも終わりも無い、「永遠のいのち」を表現しています。 この 虚数単位が 自然対数の底の冪に有るか無いかで、”死”か”永遠のいのち”かが決まります。
この、考えて得られる「思索」と、観測して得られる「物理」の根本的な類似性は、それらの作者が同一であることを示唆しています。
また、形而上学的に、π が 「御父」、 e が 「御子」、 i が 「聖霊」 をそれぞれ象徴しているとするならば、前記の”オイラーの恒等式”で 神の「三位一体」が表現され、 −1 は 「神の愛」を象徴しています。 このように、”自然”も、御子イエス様の「十字架の愛」をあかししています。
神様は、たったの6日間で天地万物を造られた 恐るべき偉大な、「聖」なる方です。
しかし、そのご性質は、同時に、根本から 「愛」なる方です。
神様は、罪を犯した人間を救うために、ダイナミックな奇跡や天変地異を起こさせて救う、というような方法はとられませんでした。
むしろ、神様のひとり子イエス様を、私たちと同じ姿で遣わされました。 肉体、たましいに おいて(霊は 神)人の形をとってこの地上に来られ、罪を犯して滅びに定められた人類を救うため、実に、自ら「十字架」にかかられ、(旧約聖書に書かれ、長い間行なわれてきた)「贖いの犠牲」となられました。
そして、御子イエス様の十字架の贖いを 自分の身代わりとして「信じる」人は、すべての罪が帳消しにされ、無条件で 神の子供とされる特権が与えられました。 しかしそれは、神様の気まぐれで行なわれたのではなく、はるか昔から、(アダムとエバの堕罪の直後に、)主によって約束され、長い間 神の器たちによって「預言」されてきたものです。
御子イエス様は、完全な「神」でおられるのに、完全な「人」として、私たちの中に住まわれたのです。 完全な「人」なので、私たちと同じように、(罪は犯しませんでしたが、)弱く、無力で、感情を持ち、卑しい肉体を着ておられました。
当時の ユダヤの歴史家 ヨセフス(37−100頃)による キリストの記述は次のようです。
”彼は、魔術的力をもつ一人の人間。彼のことを、一部のギリシャ人は”神の子”と呼び、彼の弟子は”真の預言者”と呼ぶ。彼は、死人をよみがえらせ、 すべての疾病を癒すと言われた。 性格と形は人間。背は低く、3キュビト(約153cm)。せむしで、顔長く、鼻長く、両まゆはつながっていた。髪の毛は 真中から分け、あごひげは無い。・・・” (→ 4. 十字架を負うという教理)
イエス様は、外見上は特に麗しい姿をされていたわけではなく、イザヤ書53章の予告の通りです。そして、強盗よりも低くされました。(ヨハネ18:40、イザヤ53:2、3)
このように、10の42乗もの計量感覚の異なる世界を造られた、「王の王、主の主」であり、「神のひとり子」であり、「神」でおられる方が、この地上生活の中で、ローマからも ヘロデ王からも 宗教家たちからも税金を搾取されるユダヤの民の一人として、概して最低の生活を送られたのでした。
しかし、ヨセフスが第一に挙げている特長にもあるように、イエス様が行なわれた「癒し」、「しるしと不思議」、「預言」という神の能力こそが、彼の「神性」をあかししているのです。特に、時間を超越して、未来のことを予告・予知できるのは「神」以外にありえません。(黙示録19:10)
「木にかけられる者は、すべて のろわれた者である。」(ガラテヤ3:13) これは、御子イエス様があえて、木の十字架にかかられた理由です。十字架によって、私たちののろいをも すべて取り去ってくださいました。
イエス様が受けられた、当時のローマの十字架刑について、最近の医学的見解は次の通りです。(伝統的な見地とは若干異なります)
”刑を受ける者は両手首と足首を釘で打ち付けられ、体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死に至った。そのため、長引く場合は48時間程度も苦しみ続けて死んだと言われる。”
・・・ 受刑者は、体重が支えられるために、(手のひらではなく)両手首の真中に釘が打たれ、自重でぶら下がるので 心拍が異常に上がり、肺に水がたまり、窒息死するのです。「兵士のうちのひとりが(すでに死んでおられる)イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた。」(ヨハネ19:34) の理由です。 また、イエス様は、十字架刑の前に、ローマ流の非常に激しい39回の鞭打ちと、ひどい懲らしめを受けて
衰弱しておられたので、6時間(朝9時から午後3時)で死なれました。
これは、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5) というみことばが、私たちに成就するためです。十字架のイメージとして、あなたの想像できる、のろわれた、最も汚い、醜い、病気だらけの、痛みだらけの、十字架上のイエス様の姿を想像してください。(黒い羊と ぶちとまだらの羊(創世記30:37−43)、青銅の蛇(民数記21:9))
「ゆだねる」とは、「投げ出す(cast)」の意味です。 力ある主の御前にへりくだり、投げ出してください。
「犠牲」の力は、異邦の偶像礼拝者のモアブの王が自分の後継ぎの長男をケモシュへのいけにえとしてささげたとき、(暫定でも)イスラエル人を追い払うことができたほど強いものでした。(U列王記3:26、27) まして、神の愛するひとり息子がいけにえとなったならば、どれだけ圧倒的な勝利をもたらすことでしょうか?
御子イエス様の十字架によって、私たちは 救われ、神の子供とされただけではなく、あらゆる のろい・悪霊の支配から解放され、肉体が癒され、たましいの平安が与えられ(→ 2006年十字架信仰の力 )、また、経済の祝福(→ 2008年十字架信仰の力 )を受けたのです。 たましいが幸いならば、すべてにおいての繁栄し、また 健康になります。(祝福の順序: Vヨハネ:2)
すべての(神様との関係の)回復と祝福は、御子イエス様の十字架に発します。 イエスの名の権威も強いですが、裏切ったイスカリオテ・ユダも他の弟子たちと共に用いていました。 十字架信仰こそが、あらゆる神の力の中で最強のものです。