(参考)  1. 犯罪と暴力によるローマの形成


  (1) 初期のローマ:


  ローマの歴史は、世界のどの都市の歴史よりも、犯罪と暴力に満ちている。
  ウィンウッド・リードという歴史家は、初期ローマについて、”無法者や逃亡奴隷が集まり、町をつくり、これを要塞化して、あらゆる逃亡者の逃げ込み場所を提供した。殴られて半死半生にされた奴隷、略奪した物をかかえた野盗、人殺しなどがローマに逃げ込んだ。そこはやがて戦闘の場所と化した。人々は、戦闘と農耕を交互に行なった。ローマは近隣の目からは鼻つまみの場所となった。”と述べる。


  BC10c−BC7c: イタリア半島北部にエルトリアに文明誕生
  BC509: 謎のアジア系エルトリアが追い出され、王政から、アテナイと同じ共和制(元老院とローマ市民)へ
  BC494: 平民階級は差別に反対し労働力集団の脱出デモ、平民に代表
  BC264−241、281−201: ポエニ戦争(ローマ対カルタゴ)、ローマの属州支配拡大
      戦争により軍隊に取られた農民が没落、政治の金権体質と職業軍隊化
  BC59−44: 執政官ユリウス・カエサル、ガリア遠征・・・ローマ帝国(イタリア、ガリア(フランス)、スペイン、小アジア、アフリカ北部)、ポンペイウスとの内乱、共和主義者によって暗殺
  BC27−AD14: アウグストゥス(オクタビアヌス)が100年間のローマ内乱を平定、共和制復興の宣言、しかし実質上の帝政(アウグストゥス=ローマ皇帝の意味)とした


  @ 民主主義という名のギャングのルール: 

  ギリシャ人は選挙という民主的制度を発明したが、ローマ人は、”選挙”という名のいかがわしい殺人制度を後世に残した。良い人間が出ても、悪い人間が出ても、貴族らの権力闘争による陰謀や民衆の人気が落ちることで、ただちに殺されるのである。
  ・ BC486 スプリウス・カッシウスという貴族が平民階級に公共の土地を与えようとして、独裁者の立場を狙ったとして貴族らに弾劾され処刑された。
  ・ BC440 スプリウス・マエリウスという裕福な平民が飢饉時に所有の穀物の値段を下げることで、その場で殺害された。彼の仇を打つと口にした人間も平静理に処分された。(民衆の空気を和らげるために彼の穀物は無料で分配された)
  ・ BC390 ガリア人のローマ占領から救った英雄であるマルクス・マンリウスは、帰還した兵士が借金のために投獄されているのを見て、私財でこの兵士らを解放するように乗り出したが、貴族階級は社会の風紀を乱す者として弾劾し、民衆を扇動して死刑を宣告、崖から突き落として彼を殺した。

  A 戦争による無慈悲な性格の形成:

  地中海には海賊や略奪を目的とするギリシャ人、マケドニア人、リディア人などが出没していた。そこでしばらくの間は、ローマはカルタゴと同盟してギリシャの軍勢に対抗した。しかしギリシャが本国に帰還すると、ローマとカルタゴは対立状態になった。カルタゴは傭兵で戦うのを常としていたが、仕事にあぶれた傭兵は常に危険な存在だった。
  ・ ママティーンというイタリアの種族の傭兵は、シチリア島のシラクーザとの戦闘から故郷へ帰る途中、手厚く歓迎してくれたギリシャのメッサーナという小さな町に宿泊した。しかしこの軍隊は夜中に起き上がり、町の男の喉をかき切り、女を犯した。それから25年間、海の疫病神として暴れまわり、シラクーザやカルタゴの船を主として狙った。

  ローマ人は、現実的で思慮深い人たちであったが、ギリシャ人の繊細さと知性は持ち合わせていなかった。カルタゴと軍事力の拮抗した第1次ポエニ戦争は25年間続き、ローマは降参する寸前まで追いこまれた。このとき、無慈悲な意志力や、熱烈な国家愛、攻撃精神が培われた。さらに20数年後カルタゴがスペインを征服すると、第2次ポエニ戦争となり、ローマはスペインを併合し、地中海世界の盟主となった。

  B 富による頽廃:

  ポエニ戦争以後、ローマの国内事情は一変した。富は洪水のように流れ込み、ミルクの風呂に入り、平民階級のほうも政治側のご機嫌取りや娯楽の提供などで骨抜きになった。執政官の地位を志す人間は多額の出費を必要とする剣闘士ショーを開催しなければならず、それらが豪華であるほど選挙で当選する確率が高い。かつてのローマ人は年一回のお祭で満足したが、今は数十回である。知識階級はギリシャ文学を読み、プラトンを論じ、そして、少年愛の趣味に傾く。金持ちの若い男は半分透けたローブを身にまとい、ヘアスタイルを競う。このように、たった半世紀の間に、ローマは一種のソドムに成り果ててしまった
  古い時代の一部の人間は、頽廃の危険を指摘したが、圧倒的多数の市民らはその指摘の意味するところさえ理解できない。
  ローマ軍は弱体化しカルタゴを陥落させるのにてこずった。しかし、カルタゴが壊滅した後、さらに、ローマはすでに地中海世界をはみだして支配を続けていった。富は至る所から流入し、市民はすべてそのおこぼれにあずかる。平民階級にも無料で催し物が提供され、戦争捕虜がライオンと格闘する見世物が行なわれた。金持ち階級の権力が増大しても、娯楽を提供しつづける限り平民階級は文句を言わない。ローマには、すべての人に対しあり余るほどの物が満ちていた。
  社会の状況も変わってきた。戦争からの帰還兵は借金のために投獄され、中小規模の農家は富裕な地主に飲みこまれた。一部の腐敗した人間が、大部分の富と土地を所有する。地中海の海賊は捕らえられると、奴隷となって焼きごてを押され、新しい大規模農場に送られる。BC134年のシチリア島における奴隷の反乱では7万名が同島を制圧したが、ローマはこれを皆殺しにした。



  (2) ローマの”真の”没落


  ローマは地中海世界の征服に乗り出し、世界の最も富裕な都市になった時に、ローマの問題は始まった。東洋人が内面世界へ接近し、自己抑制、自己規律にその最高の表現を見出したのに対し、ローマは”迷信”という強い信念を持っていただけで、ローマ人の”想像力の欠如”は、彼らを粗野で近視眼に導く結果になった。そして、暴力や殺人が自己正当化されていった。


  @ ガイウス・マリウスの恐怖政治:

  マリウスは小作農の息子だったが、軍隊時代に頭角をあらわし、貴族階級の娘と結婚する。彼が40代の時、アフリカの将軍ユルグタが反乱を起こし、部下の将校スラが罠にかけ、ユルグタを生け捕りにしてローマに連れてきた。怒ったローマの民衆はユルグタの宝石や衣服を剥ぎ取り、イヤリングも耳ごと引きちぎり、数日後彼は処刑された。マリウスはローマで1番の人気者になり戦勝のトロフィーを授けられた。
  この時期、ゲルマン族を含む野蛮人が北から侵入し、ローヌ川東岸のアラウシオ(オランジュ)ではローマ軍はほとんど壊滅していた。幸いなことに蛮族は2つに分かれ、マリウス率いる軍隊はこれらを討ち取り根こそぎ殺すことができた。この功により、マリウスは異例の6期連続して執政官に選ばれた。(執政官2人、通常1期1年)
  ところが、マリウスの野望から、民衆扇動家らと組んで保守派を追い落とし自ら独裁者になろうとしたが、この革命は失敗した。民衆の暴動が起こり、かつての同盟者はカピトリヌス神殿に逃げ込んだ所を民衆に虐殺された。
  これを境に、一貫して尊大な男マリウスは、猜疑心の強い”妄想狂”に変わってしまったのである。

  さらに、黒海沿岸のポントスのミトリダテス王が、この機会に乗じて自らの帝国の拡大をもくろみ、シリアと小アジアに侵入し、10万人以上のローマ人を虐殺した。しかし、アジアからの脅威が迫っているにもかかわらず、ローマのマリウスとスラの内部抗争は激化していた。マリウスは民衆扇動家を雇って民衆に直接訴え、マリウスに軍隊の指揮権を与え、ライバルのスラを八つ裂きにするよう決定させた。軍人出身のスラは軍隊に逃げ込み、軍隊をつれて再びローマへ戻ったので、マリウスはアフリカへ逃げた。スラがミトリダテス討伐に出向くと、その留守にマリウスはローマに戻り、ローマの城門を閉鎖して、彼が遺恨を抱いている人間すべてを殺すよう軍隊に命じ、数日の間にローマの各分野のすぐれた人間数千人が殺害された。マリウスが道路を歩くと人々は急いで彼に挨拶するが、マリウスが横を向くと敵という合図となり、随行の兵士がその場で斬り殺した。マリウスは自らの妄想の餌食となり、不眠症になり、夜毎に泥酔して最終的には熱病にかかり死亡した。
  ミトリダテスに和平を強要してローマに戻ったスラも、報復として、マリウス支持者を探し出して殺害した。元老員の議員や役人は千人単位で殺された。このようにして、政治的理由だけではなく、独裁者にとって個人的に邪魔な者はすべて殺すようになった。

  カルタゴ陥落の時の、ローマがまだ誇りに満ち、独立と民主主義精神の盛んな時代の人間のほとんどは姿を消し、その多くはマリウスに殺された。残ったのは”羊”だけである。 こうして、ローマの真の没落は始まった。これ以降のローマの歴史は、主として犯罪的暴力の歴史である。


  A ユリウス・カエサルの台頭:

  マリウスとスラの抗争以降、イタリアの街道には盗賊団がはびこり、ローマでは人殺しが日常茶飯事になり、地中海には海賊が横行した。滅亡したコリントやカルタゴの残党の多くが海賊になった。海賊のために、この時期、アフリカやエジプトから運ばれた穀物がローマの諸港に荷揚げされたのは1/3にすぎないという記録が残っている。

  ・ 軍から脱走して捕らえられ奴隷となっていたスパルタクスという剣闘士は、カプアの剣闘士奴隷養成所から脱走し、ベスビアスの山麓に逃げ込んだ。このうわさを耳にした各地の逃亡奴隷が集まってきた。再度捕らえられたらなぶり殺しは必至である。最強のポンペイウスの軍隊はスペインへ遠征中であり、彼らは鎮圧のために派遣されたクラッススの軍隊と戦い常に勝利を収めた。奴隷たちは当初の一連の勝利で暴徒と化していた。彼らの興味は人殺しと婦女凌辱でしかない。(彼らもローマの歴史と同様に、努力と意志で勝ち得たその成功は、堕落と悪へつながる道でしかなかった。) 復讐と略奪に酔った奴隷軍は、イタリア本土からの脱出をめざすスパルタクスの計画を退け、ローマ軍の精鋭と正面から戦い、スパルタクスは戦死し、部下6000名はローマへ至る街道で磔刑にされた。

  ・ ポンペイウスは、急遽スペインから戻り、このスパルタクスの戦いに間に合い、そしてクラッススよりも先にローマに戻ったので、凱旋将軍として歓呼をもって迎えられた。ポンペイウスはマリウスやスラと同じく直情径行な軍人であり、海賊の討伐を行ない、約1万が殺され、約2万が降伏した。しかしポンペイウスは降伏した海賊を殺さずに土地を与え、彼らはまっとうな農民になった。

  ユリウス・カエサルは、秀才の名こそ高かったが、他の若者と同じように時代のファッションの先端にいて、詩を書き、香水を使い、髪の毛をカールさせ、相手は男も女もおかまいなしであり、誰も国家の偉大な指導者になると思わなかった。
  彼が若い頃、海賊に捕らえられ20タラントの身代金を要求されると聞いた時、俺を侮辱する気か、50タラントに上げろ、と言った。身代金が到着するまで彼は海賊と寝食を共にし、召使のようにこき使った。眠る時には静かにしろと命令した。海賊仲間のゲームにも加わった。彼の詩を読んで聞かせた。彼の詩を海賊たちがあまりほめないと野蛮人とののしり、自由になったら磔にしてやると言った。海賊たちは、甘やかされて育ったらしいこの横柄な若者を面白がって大笑いした。しかし、身代金が届くと、彼は小アジアのミレトス港に行き、数隻の船を連れて戻り、海賊を一人残らず磔にした。ただし、十字架に打ちつける前に、喉を切り裂く程度の慈悲を見せたという。

  カエサルはクラッススから巨額の借金をし、豪華絢爛な320組の剣闘士によるショーなどを催したので一般人士の人気を一身に集めた。そこで、凱旋将軍ポンペイウスと大金持ちクラッススと共に3頭政治を始めたが、かつてのギリシャとは異なり、終ることのない中傷や内部抗争の権力闘争がひどすぎた。カエサルは嫌気がさし、ガリア遠征に赴いた。遠征では、ライン川から北海に至るガリアを屈服させ、ブリテン島の半分を征服した。クラッススはこれに対抗してシリアに遠征したが戦死した。カエサルは自分の大勝利が嫉妬の対象でしかないことを知っていたので、帰途 ルビコン川で軍隊を止めた。元老院は軍隊を解散しないと公共の敵とみなすと言ってきた。カエサルは全軍と共に勝者としてローマに入城し、ポンペイウスはエジプトに逃げたが上陸したとたんそこで刺し殺された。敗北した将軍には用がないということだ。カエサルはポンペイウスが死んだことを知らず、エジプト遠征に行き、クレオパトラを助け、プトレマイオスを破った。カエサルは偉大な勝利者としてローマに凱旋した。(『われ行けリ。われ見たり。われ征服せり。』) カエサルは、マリウスやスラと違って、かつての敵を皆許した。しかし、これが間違いであり、BC44年3月にカエサルは元老院で刺殺される。

  B アウグストゥスの統治:

  アウグストゥスは、帝国の富を用いて大理石造りのローマを再建し、街道から盗賊を追い払い、世界初の消防組織と都市警察を組織した。(* したがって、福音が宣べ伝えられる環境が整えられた。(ルカ2:1))

  アウグストゥスは帝国に富と平和をもたらしたと言われる。しかし、当時の倫理基準はきわめて低く、アウグストゥスでさえも個人生活で姦通を非常に好んだ。彼は老境に達しても、妃リウィアが調達した若い処女を犯し続けた。彼の娘ユリアも色情狂で年中兵士らをかどわかしていたので、ついに彼女は遠くの島に生涯の流刑になった。大衆は娯楽と無料の催し物を求めてやまないので、アウグストゥスは派手な見世物と休日を増やし、ついに休日は年に117日にもなった。
  富はあり余るほど流通し、上流階級は娯楽と飽食とセックスに没頭した。アウグストゥスは法律でこの状況の是正(ワインの量を規制する法律など)を試みたが、このような法律は通用するはずもなかった。

  C カリギュラの狂気:

  カリギュラが帝位に就いたのは25歳だった。絶対権力が彼を狂気にした。彼はローマを、”俺に首根っこを叩き切られる町”と呼んだ。 彼は病的な浪費癖で金を人々にばらまき、盛大に剣闘士の試合を開催し人気を高めた。湾に5キロに渡って船を2列に並べ、その上で馬を駆って打ち興じた。ある剣闘士とフェンシングの練習中、剣闘士がわざと倒れたのに、カリギュラは短剣で刺し殺した。寺院で神へのささげものの動物に、主催者が木槌で最初の一撃を与えることになっていたが、カリギュラは動物の喉を切り裂く役目の神官の頭に木槌を打ち下ろし昏倒させた。ある宴会の席で突然げらげら笑い出したのを見た周囲の人がおそるおそる尋ねると、カリギュラは、ちょっと頭に浮かんだが、俺が一つ頷きさえすれば、お前たちの喉は全部かき切られる、と言った。サーカスの野獣に与える肉の値段を知った時、罪人を生きたまま食わせろと命じた。罪人を1列に並べ、あの禿頭からあの男まで一人残らず打ち殺せ、と兵士に命じた。金が欠乏すると、いつものように金持ちに難癖をつけて財産を没収した。彼のお気に入りの処刑方法は、めった切りで、数百の小さな傷を加えてなぶり殺しにする方法である。
  このような気違い男がある程度命が長らえたのは、ボディーガード(ゲルマン族から特に選んだ)が周囲を固めていたからである。しかし、一人離れた時に、親衛隊に刺殺された。

  ・ カリギュラの叔父のクラウディウスは、この親衛隊によって、50歳で次の皇帝に擁立された。カリギュラの妻と子供は惨殺されたが、彼はびっこでどもりであり、無害な間抜けと見られていたので長生きしていた。クラウディウスは比較的良いローマ皇帝の一人とされているが、内に秘めたサディストであり、罪人に”従来スタイル”の鞭で打ち殺すのに立ち会うのを好んだ。闘技場で機械装置がうまく動かない時は、設備の責任者をライオンと戦わせた。2人の姪は、犯罪の事実を示す明確な証拠も無く、自らを弁護する機会も与えられずに処刑された。また、彼も、ティベリウスやカリギュラ同様にセックス狂だった。


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