3. モンゴル帝国の卑劣な戦法



  モンゴル帝国のチンギス・ハンは、”(当時のレベルで)最強で最も血に飢えた征服者”であると言われている。これは、中世ヨーロッパ・ロシアのキリスト教国へのさばき・中世の終焉、及び、啓蒙時代への扉を開くものとしての意味を持ち、また、反キリストがきわめて短時間に全世界を征服することの雛型と考えられる。ロシアの中央集権制は、このモンゴル支配が原因であったと言われていて、スターリンもチンギス・ハンから学んだ。
  そのやり方は、(当時の)熟達した騎馬による戦闘能力、手段を選ばない卑劣な戦法(捕虜を盾として先頭に押し出すショック吸収部隊、退却と見せかけて守備軍が出て来たところを包囲・殲滅する、同盟して戦い 勝利してから同盟国を裏切り滅ぼす、など)、容赦の無い全員抹殺、覇権を争う親類や国内の族長らの抹殺、自分を一種の”神”とする絶対服従の強要であり、その残忍で無慈悲な殺戮はヨーロッパでは”地獄の使者(タルタロス=タタール)”として恐れられた。この限界を知らない支配欲はきわめて霊的である。最終的には数世代の後、権力抗争と腐敗により解体した。
  (ただし、チンギス・ハンは宗教(カラコルムの仏教、景教、イスラム教、ロシアのロシア正教など)には驚くほど寛容だった。)


  (1) チンギス・ハンのモンゴル統一


  モンゴル族は、ウイグル国の解体後バイカル湖畔から南下してモンゴル東北部に広がった遊牧民族であり、11世紀には ハンを頂点とする有力な集団に成長していた。当時は、開拓時のアメリカインディアンと同様に、多くの部族に分かれ、たいていは(部族内も含めて)陰惨な抗争状態にあり、残酷な殺し合いを繰り返していた。

  チンギス・ハン(1162−1227)として知られるテムジン(鉄木真)は、近隣で有名な戦士エスゲイの子供だったが、父エスゲイはテムジンが幼少の時 謀略をもって殺害された。エスゲイの部族はこの機会に、エスゲイの未亡人と共に 当時9歳だったテムジンを含む家族を荒野へ追放した。長く過酷な荒野での生活は、彼らを強靭に鍛えたが、同時に無慈悲にもした。
  テムジンは十代の時、魚のことで兄弟の一人と喧嘩し、これを殺した。かつての仲間の部族は、先手を打って彼を生け捕りにして監禁した。しかしテムジンは苦心して脱走した。

  モンゴルの草原地帯には多くのハン(封建族長)が覇を争っていたが、父親の旧友であるケレイト部族(部族で ネストリウス派のキリスト教を信仰 *)のトグリルと同盟を結んだ。(トグリルは兄弟2人を殺害して王の地位についていた。) ある部族がテムジンのキャンプを襲撃し彼の妻ベルタをさらっていった時、テムジンとトグリルの騎馬は女子供を含むこの部族の全員を虐殺した。この事件で、テムジンの名は近隣に広まり、部族の長に選ばれた。しかし、これによって血盟の友ジャムカとの間に激しい争いが起こった。最終的にはテムジンが勝利するが、テムジンが大敗北を喫した時、ジャムカはテムジンの部下70人を生きたまま釜茹でにし、この残酷な処刑のため人望を失ったという記録がある。

  12世紀の始め頃、中国は宋王朝が支配したが、宋の初代皇帝の太祖は国内の反乱を恐れて軍隊を小規模に抑えていた。これが裏目に出て、満州の遊牧民族である金の皇帝が北京に居座わり、宋の皇帝ははるか南方へ退いた。
  金の皇帝は、この強力な新しいハンであるテムジンのことを聞くと、タタール族に対抗する同盟を提案してきた。そこで、テムジンとトグリルの連合軍は、タタール族が急設した要塞を襲い 守備軍を皆殺しにした。
  さらに、(モンゴルの歴史家によると、)テムジンの部族の”妖術使い”が起こした大暴風の中で、モンゴル族内の古い敵すべての軍隊を粉砕し、族長クラスを全員殺した
  次に、タタール族を1202年の決定的な戦闘で破り、捕虜はすべて処刑した。
  1206年の春、チンギス・ハンはオノン川の源流近くで、モンゴリアの全部族を結集させ、モンゴル族のハンであることを宣言した。

   * それゆえ、チンギスハンは宗教、特に、キリスト教に寛容だった。


  (2) 中国への侵略


  かつての同盟者である金は代替わりしてその後継者を愚帝とみた。1211年モンゴル軍は北中国に侵入し、契丹が反旗を翻し、モンゴル軍の将軍ジュベは北方の通路から北中国に南下した。契丹はモンゴルの属国になりそこの領主となった。ジュベは、(今後もこの戦法を使うが)まず退却のふりを装い、防御の気がゆるみ 追跡してくる敵を包囲し殲滅した。 モンゴル軍は収穫に火をつけ、町々を略奪した。大きな町々には宮殿や仏像などもあったが、彼らの反応は放火して打ち倒すことのみであった。

  モンゴルの戦士は馬上では恐るべき凶暴性を発揮するが、フン族やヴァンダル族と異なり、幕舎の中では善良でおとなしい。北京には耶律楚材(ヤリツソザイ)という学者がいたが、チンギス・ハンは彼の誠実さに感銘し重要な参謀の一人とした。彼の進言により収穫や建物を残し 年次の税を徴収した。しかしチンギス・ハンが直接指揮をとっていない戦闘では相変わらず放火と略奪が行なわれた。
  宋の宮廷は中国南部に逃げ、中国の北半分が占領された。そこでモンゴルは西の方へ遠征を開始した。


  (3) 中央アジアへの侵略


  トルコ(セルジュク・トルコではなく、現在のウズベク共和国のトゥルケスタン)の皇帝マホメットはガンジス川からチグリス川までの広大な地域を支配したばかりだった。チンギスはこの時点では戦いを望んでいなかった。マホメットの方から使者を寄こして平和な関係を求めてきたので、チンギスも3人の使者を遣わして高慢な口上書き、”互いの領民の交易の振興において両国は利害を等しくするものなり。以後、朕は貴台のことを息子のごとく見るであろう”を送った。それでもマホメットは友好的な返書を再度送った。
  そこでチンギスは、トルコの物産を購入するための財宝と金銭を山と積んだキャラバン隊の一団を送った。しかし、国境の町オトラールに着くと、同地の総督はキャラバン隊を取り押さえ使者100人を一人残らず殺した。チンギス・ハンは激怒したが、再度マホメットに使者を送り、オトラールの総督の引渡しを求めた。ここで、マホメットは、この使者を切って捨てるという、ヨーロッパに”黄禍”をもたらす大誤算をした。

  ・ 復讐に燃えるチンギス・ハンは全軍を挙げてトゥルケスタンになだれ込んだ。軍勢の数ではトルコの方がはるかに勝っていたが、広大な国境線に分散していた。チンギス・ハンは全軍をもって北方の山脈を踏破してオトラールに来た。モンゴル軍が城内に乱入すると総督は最強の手勢と共に砦にたてこもった。兵糧攻めが1ヶ月続いた後、砦には矢が尽きた。総督は必死の抵抗の姿で捕らえられ、溶融した熱い金属が総督の耳と目に注がれ処刑された。

  チンギス・ハンをあえて侮辱王のしたこれらの町々を攻撃し、直接何の関係もない領民を虐殺した。
  自主的に城門を明け渡した町は容赦され、住民を城壁の外に出し、モンゴルの兵士は数日間好き放題に略奪した。3日間抵抗してから降伏したタシケントの西のベナケットでは、兵士は全員処刑され、職人(中世では馬10頭分の価値があった)は連れ去られた。若い男はモンゴル側に連行され、次の戦闘で盾として先頭に押し出され、敵の攻撃のショックを吸収する部隊として用いられた。

  ・ ブハラの町は抵抗した。そこの傭兵は夜になると逃亡したがモンゴル軍はこれを捕らえ全員処刑した。それから町に入り略奪し、女は夫の見ている前で強姦され、最後に町に火がつけられ焼け落ちた。
  ・ サマルカンドの町は1220年に包囲されたが、約5万の軍隊が駐留し城壁は難攻不落に見えた。チンギス・ハンは捕虜を先頭に押し寄せてから、負けたと見せて退却をよそおった。追撃に出てきた守備軍をモンゴルの大軍が包囲し、5万の軍はなぶり殺しにされた。町の傭兵部隊の半分がモンゴル軍に寝返り、砦にたてこもった軍は飢えて出てきた所を殺され、次に、寝返った部隊も処刑された。チンギス・ハンは裏切りを嫌悪した
  トルコのスルタンは恐怖だけが先に走りまともなことは何もできず、とにかく逃げて、最終的にはカスピ海のある島で疲労によって衰弱死した。
  ・ モンゴル軍はサマルカンド近くのオアシスで一夏を過ごすと、オクサス川沿いの町を攻撃し、住民を一人残らず虐殺した。兵士はすべての死者の腹を断ち割って飲みこんだ真珠などを取り出した。
  ・ バルフの町は初めから降伏し、将軍ジュベに事前に恭順の意を伝えていたにもかかわらず、周りの町々への見せしめのため、全住民を城壁の外に集合させ、それから全員が虐殺された。
  ・ アフガニスタンのカリスミア帝国への攻撃中に、バミヤン渓谷でチンギスの孫が命を落とした。そこでチンギスは、その地の生き物を胎児から動物に至るまですべて殺すよう命じた。

  (チンギスの別の一面として、1222年帰国の際、イスラムの学者を伴い法律学者の都市論と行政論の講義に耳を傾けたという。また、中国の高僧と老子について長い会話を行なっている。)

  ・ 四男のトルィがイラン東部のコーラサンのニサに侵略した際、住民全部を数珠つなぎにして城壁の外に出し、モンゴルの兵士が取り囲み矢を射かけて惨殺した。メルプの町では全員の首を切らせて、それぞれ男、女、子供の生首の山とした。

  ・ 将軍ジュベは、コーカサスとロシアの地へ派遣され、カリスミア帝国の地ではないにもかかわらず、同じように侵略し住民を惨殺した。カスピ海の北の草原地帯では、山岳部族の三つの部族の連合体から攻撃を受けたが、ジュベはこのうちの一つであるキプチャク族に 大量の略奪品を与え 同じ遊牧民族のきずなの言葉で巧みに買収して、他の2つの部族を滅ぼした。その後でジュベはキプチャク族に襲いかかって惨殺し 与えたものをすべて奪い返した。
  ドニエプル川流域の現在のアレクサンドロフ近くで、約8000のロシア軍を撃破した。ロシアの皇子の一人は砦に逃げ込み、ジュベは彼が故郷へ帰るための安全な条件を提示して 皇子一行が砦から出た所で虐殺した。 このように、チンギス・ハンのきびしい規律で 裏切り行為を許さなかった


  (4) チンギスの子孫による拡大


  モンゴル帝国はチンギスの死後も半世紀に渡って拡大を続け、その後1世紀経ってから崩壊を始めた。三男のオゴタイが帝位に選ばれ、金朝を攻めた。金に北半分を奪われた宋の皇帝を説得して同盟し、金を攻めさせ、1234年に金は屈服した。それから、例のように手のひらを返したように裏切り、宋を攻撃した。

  西方ではロシアの征服が進行した。キエフの町は1234年モンゴル軍に蹂躙された。さらにポーランドに侵入し、ドイツとポーランドの連合軍を壊滅させた。(ただし、モンゴル軍は広大な草原地帯を好み、ドイツの森林地帯や山岳地帯へは入らなかった。また、アフガニスタン以降のインドや中国南部以南も暑さと湿気とハエを嫌い侵入することはできなかった。)
  次に、カルパチア山脈を越え、ハンガリアの地に侵入し、カール大帝の頃から略奪を繰りかえしていたマジャール人を撃滅した。

  アジアでは、中国のオゴタイが没し(1241)、1260年フビライがハン位についた。
  1274年日本に遠征したが、初めて敗北した。7年後、14万の大軍が同じ博多湾に押し寄せたが、前の時と同じところに上陸するという致命的間違いを犯した。日本は博多湾に土塁を築き、モンゴルの大軍はこの湾に釘付けになった。そのうちに台風が見舞い、船の半分は沈没し彼らは本国に逃げ帰った。残されたモンゴル兵は日本の武士になぶり殺しにされた。中国にたどり着いたのは半分以下だった。
  13年後フビライの死後、跡取りたちが抗争を開始すると元の国内は内乱状態になった。フビライの死後74年たって、台頭してきた漢が中国を治めた。


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