4. 中世末期から近代のヨーロッパの不法



  (1) ペストの大流行

  13世紀の終りから14世紀前半にかけて、全世界レベルで地震や異常気象があった。
  1281年台風が日本海のフビライ・ハンの艦隊を沈めた。1293年津波で約3万人の日本人が死亡した。1302年イタリアのヴェスヴィオス火山が噴火、1329年シチリア島のエトナ火山が大噴火した。1318年イングランドで大飢饉の最中に大地震が起こり多くが死んだ。1304年エルサレムが洪水に襲われダマスカスも水浸しになった。1359年フランスで雷鳴を伴った暴風雨が吹き荒れ6千頭の馬が死んだ。

  そして、1333年、中国のキアン川と准(ホワイ)河の間の平野(長江の北の支流)で日照りによる飢饉が発生し、次に豪雨が降り続き チンチョウという山がそっくり崩壊した。この洪水で4000人が死亡した。さらに、近くの山脈で大地震が起こり、長さ160キロの湖が出現した。この地震による死者は推定500万人であった。この死体の山からペスト菌が発生した。(ペストは腐乱死体で繁殖し、ノミを媒体とし、ネズミがそれを運ぶ。症状は、非常な渇きを覚え、股と腕の付け根が腫れ上がり、皮膚に黒い斑点ができる。)
  南宋で発生したペストで、モンゴル軍のモンケ・ハンは死亡した。ペストは1340年までに中国全土に広がり、インド、モンゴル、ペルシャ、小アジアへ伝播し、1346年にはクリミア半島だけで8万5千人がペストで死亡した。(飢饉とペストのため、1200年に1億3千万人だった中国大陸の人口は、1393年には6千万人と半分以下になった。)
  モンゴルの軍勢タタール人はカーファ(現フェオドシア)に逃げたジェノバ商人を兵糧攻め中だったが、ペストによりこの包囲側のタタール人の半数が死亡した。そこで彼らはペスト菌に侵された死体を、チンギス・ハンが中国から学んだ武器である巨大な”投石器”で城壁内に打ち込んだ。守備側はこれをただちに海岸に捨てた。しかしペスト菌は、停泊中の船から地中海へ向かった。
  1347年、船がシチリアのメッシナとジェノバに入ると、そこで数千人単位で人々が死んだ。1348年にはイングランドにまで達した。

  ・ ドイツでは”ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだ”といううわさが広まり、逃げたユダヤ人がスイス西部のションで捕まり、拷問によって罪を白状させた。そして、フランスのプロヴァンス、ナルボンヌ、カルカソンヌ、ドイツのストラスブルク、フランクフルト、マインツ、北部のハンザ同盟の諸都市などで、ユダヤ人の大虐殺が始まった。ユダヤ人は焼き殺されるか、家の中に閉じ込められ餓死した。らい病患者もスケープゴートにされ、追い出され、あるいは石を死ぬまで投げつけられた。
  ・ ペストの流行中に、フラジラントという鞭打ち苦行の巡礼行脚が始まり、このヒステリー症状を伴う巡礼は全ヨーロッパに広まった。しかしフラジラントが町々を巡ることはペストの流行を加速させるだけだったので、人々は一転して彼らを敵とみなし迫害した。
  ・ ペストによって、修道院からは修道僧が逃げ出し、農奴は領地から逃げ出した。1350年までに、全ヨーロッパの人口の3分の1にあたる2500万人(8世紀2700万人→1300年で人口7300万人)が死んだ
  この疫病により、聖職者の権威は失墜し、農奴も領主もなくなった。そして、ウイクリフなどの宗教改革者が中世の精神構造を変革する動きを始めた。


  (2) 魔女狩り

  魔術師は”超常能力”をたまたま備えた人間であり、最も一般的なのが病気の治癒能力である。古代のギリシャ、ローマ、中国、インド、エジプト、日本、シュメールなどでは、魔術師あるいは魔女は一種の畏怖の目で見られ、魔女や占い師は社会に役立つ一員として認められていた。(19世紀のスピリチュアリズムの運動は”魔術”の復活である。)
  13世紀教皇イノケンティウス3世はカタリ派(世界を悪と考えるグノーシスの禁欲的な民衆派)の皆殺しを命じた。彼らのうちの少数の生き残りはアルプスやピレネー山地の峡谷に移り住んだ。1320年、ヨハネス22世は敵が自分の命を狙っているという妄想にとりつかれ、かつてのカタリ派の本拠地フランス南部のカルカソンヌの枢機卿に、魔術師、魔女、異端者に対しいかなる処置を取っても良いとの権限を与えた。
  しばらくは魔女迫害は散発的だったが、16世紀にドミニコ会の異端審問官らが書いた”魔女のハンマー”という本が出版されてから本格的になった。(印刷術はこの40年前に発明されていた。) この本は、悪魔との汚れた催淫的な行為の具体的描写を含んでいたため各国語に翻訳され再販を重ねた。16世紀の終り頃が魔女迫害のピークになった。
  魔女の摘発には、正当な理由が無くても、訴えがあった場合、拷問で自白させて”魔女”と断定された。

  ・ フランスでは、1557年トゥールーズで40人、1582年アヴィニオンで18人、1581年から91年にかけてフランス北部のロレーヌ地方で900人、1609年から4ヶ月の間に400人の”魔女”が焼き殺された。
  ・ ただし、フランスでは、聖職者が黒魔術に関係したケースも多かった。1630年代ルーヴィエのフランチェスコ派の尼僧院で、2人の聴罪師が尼僧の誘惑で黒ミサを続け 赤ん坊を磔にした罪で、この2人の僧侶は公開で焼き殺された。
  ・ ドイツでは、1572年ドイツ西部のトーリアで5人、1587年から94年にかけて300人以上、17世紀初めには数千人が焼殺された。フランツ・ビュアマンという魔女摘発人は1631年と1535年にある村の人口(300人)の約半分を焼き殺した。さらに、バンベルグで1600人、ビュルツブルグで757人が焼き殺され、これには3歳から15歳までの子供も含まれていた。
  ・ イングランドでは、マシュー・ホプキンズという法律家が、自分の故郷エセックス州のマニングトリーという村が魔女に取りつかれたと信じこんだ。彼は、全身を針で刺して痛くない個所があったり、女を池に放り込んで沈んだ場合”魔女”と決めつけ、その村の68人が首吊りにされた。

  30年戦争で魔女迫害は下火になり、1714年プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世は、この種の裁判の一切を禁じて終息した。


  (3) 新大陸の発見と征服

  ジェノバの航海家クリストファー・コロンブスは、スペインの女王イサベルの庇護を受けて、大西洋を西へ横断し中国とインドへ至る航路を発見しようと、スペインのパーロスから 1492年8月3日 サンタマリア号他2隻で出発した。水夫たちの 世界のヘリから落ちるのではないかという不安から反乱になりかけたが、10月12日バハマ諸島のサンサルバドル(コロンブスが命名)にたどり着き、さらに、ハイチとキューバを発見し、黄金を探す一隊を残してスペインに戻った。しかし、この時は黄金は発見されず、2隻目の船ピンタの船長は現地の女からもらった”梅毒”を持ちかえり、それから10年以内にヨーロッパと中東のすべての港に広まった。
  初期の探検家の多くが非業の死を遂げた。ジョヴァンニ・カボート(1450−98)は大西洋のどこかで船ごと消息を絶った。フロリダ半島を発見したポンセ・デ・レオン(1460−1521)はインディアンの矢で殺された。パナマ海峡を横断して太平洋を初めて通ったヴァスコ・デ・バルボア(1475−1517)は本国から派遣された総督と衝突して刑死した。初めて世界一周をしたフェルディナンド・マゼラン(1480−1521)は、2年間の航海半ばで、銃口をフィリピンの原住民に向けてキリスト教に改宗させようとしたので殺された。

  ・ 1519年スペイン領イスパニョラ(現在のハイチ)の総督は、エルナンド・コルテス(1485−1547)に中央アメリカの内陸部の探検を命じた。アステカ族には、偶然にも、”白い皮膚の人間(”白い神”)が昔やってきて、知識と技術を授け、また戻ってくる”という言い伝えがあったので、コルテスら500人のスペイン勢は難なくテノティトゥラン(現メキシコ市)に入り、アステカの国王モンテスーマは彼らを歓迎してもてなした。王の城の部屋には黄金や財宝で満ちていたので、王を捕らえ、コルテスが事実上の王となった。アステカ族は反乱を起こしたが、重火器を使うスペイン軍により メキシコ全土で計画的に殺され、彼らが上陸してから3年以内にアステカ帝国は滅亡した。

  ・ フランシスコ・ピサロ(1475−1541)はペルーを征服した。彼はカール5世(スペインではカルロス1世)から資金の提供を受け、1532年、わずか180人と27頭の馬でパナマから南へ進軍した。インカ族の国王アタウアルパは、こころよく彼らを迎え、ピサロらが友好を装って用意した会合に 武装もなしに 国王らが多数の貴族らと共に出席した。ピサロらはインカ族の出席者に襲いかかり、数百人が惨殺された。ピサロは王の釈放のための身代金である一部屋分の黄金を受け取ると、王を殺した。インカ側はこの成り行きに意志がなえて、ほとんど抵抗なしに首都クスコを明け渡し、インカ帝国はあっけなく滅亡した。ただし、ピサロは、分捕り品のことで内輪もめとなり、部下に殺された。


  (4) 宗教改革時の抗争

  「救いの信仰の回復」、また、「牧師職の回復」に伴って、サタンは荒れ狂った。
  1513年教皇にレオ10世が即位したが、芸術と娯楽に巨額の金を使い(オペラも発明した)、教皇財産を後継者の分まで使い果たした。そこで彼は”免罪符”を発行し、多くの人は 小さな罪一つ一つで100年の煉獄よりは得な取引と考え購入した。マルチン・ルターはこの状況を憂い、95か条の弾劾文をヴィッテンベルクの城門に公表した。ラテン語で書かれたこの文は、誰かがドイツ語に翻訳して紙に印刷して世間に流したので、全ドイツに議論の火がついた。レオ10世の最後通告により、時のドイツ皇帝カール5世は、1521年ルターをヴォルムスでドイツ国会に召喚し、異端者と名指しした。しかしルターはフリードリッヒ公により、山賊一味の誘拐と見せかけて城に保護された。翌年町に戻り、聖書のドイツ語翻訳と著作に専念した。
  ドイツ各地の諸公は、ルター主義になれば、教会の富、富裕な僧院の財産に手をつけることができると考えた。教会を襲う農民反乱をルターが支持しなかったので、反乱農民は処刑され、ルターは農民から裏切り者と呼ばれた。そして貴族階級はルターを同盟者とみなした。1526年、議会はプロテスタントまたはカトリックを選択できる法律を可決し、カール5世の反対にもかかわらず、プロテスタントは”合法宗教”地位を得た

  ・ 1527年カール5世の傭兵部隊は、ローマの城壁を乗り越え、際限のない略奪と凌辱と拷問を数ヶ月行ない、ローマにとって、ヴァンダル族のアラリック以来の最大の惨劇となり、ルネサンスは終焉した。ドイツから集められた傭兵部隊は、この破壊をプロテスタントの義務と考えた。カトリック教徒のカール5世はプロテスタントを憎むに至った。
  ・ 1525年チューリッヒでアナバプテスト派により再洗礼が行なわれると、市会は非合法組織と決めつけ、捕らえられた者は死刑を宣告された。
  ・ 1535年ブリュッセルでは、すべての”異端者”に死刑を宣告した。ルターが召される10年前から、プロテスタントとカトリックの殺し合いが始まった。
  ・ カール5世は、祖母の頑ななカトリック教を受け継ぎ、異端者を焼き殺す手段も受け継いだ。1521年農民一揆は砕かれ大量処刑が行なわれた。1522年、ネーデルランド(オランダ)に異端審問所を持ち込み、1523年には早くも2人のプロテスタントが、賛美歌を歌い、信仰を叫びながら、火刑で殉教した。
  ・ カール5世は、野心に満ちたサディストのアルバ公に、ヴィッテンベルクを降伏させた。しかし、全ドイツの住民は熱狂的なプロテスタントで屈服させることは不可能だった。彼はカール5世はアウグスブルクで和議を結び、その地域内での信仰を認めざるを得なかった。

  ・ イングランドの女王”血まみれ(ブラディ)”メアリーは、オランダを取ったスペインのフェリペ(2世)と結婚した。フェリペが強硬なカトリックだったので、メアリーは”異教徒”を禁止する法律を復活し、イングランドをカトリックの国にすると宣言した。(メアリーは恐らく狂人だった。腹がせり出してきた時、医師はヒステリーが原因の想像妊娠と診断した。) 彼女によって、300人のプロテスタントを火あぶりの刑で絶命した。
  ・ オランダでは、フェリペがアルバ公を派遣し、全人口300万人もの人を、異端審問により殺害しようとしたが、あまりにも数が多すぎて不可能だった。オランダでフェリペが最初にやった仕事は、異端審問の続行であり、精神異常者のティルトマンという男を任命した。彼は、容疑者を引きずり出し太い棍棒で殴りつけて喜んだ。
  ある男が聖なるウエハースを僧侶から引ったくり踏みつけ侮辱したので、彼はその男をの手足を赤熱したやっとこでねじ切り、体を宙吊りにして火の上で前後にゆすってゆっくりローストにした。
  ある一家が家でお祈りしたかどで、初め、父親と十代の息子だけが火刑になった。そのとき小さい子も”永遠の父・・・”と言ったので、そばにいた僧が”神様はお前の親父と違う”と叫び、一週間後、妻と下の子も火あぶりになった。
  フェリペによって、オランダ統治の最初の2年間で数千人が焼き殺された。1567年にはアルバ公を派遣した。
  処刑の方法は当初、鉄の猿ぐつわをつけさせ舌を切り取り、熱した鉄棒で切り口を焼き、それから火の中に投げ込んだ。処刑の能率が悪いので、次は、人々をうつぶせに寝かせ、斧や鉄の棒で背中を叩き割った。それでも能率が悪いので、3人まとめて縛って川に投げ込んだ。この方法で、アントワープではある1日で8000人が殺された。このようにしてアルバ公によって1万9000人が処刑された。

  カルヴァンは、ジュネーヴに戻ってからの4年間に、彼の狭い宗教観にたてついたとして、58名を処刑した。洗礼の儀式でちょっと笑った商人も、説教の時うたた寝した男も、牢屋にぶち込まれた。1553年にはスペインから来たアリウス派の男を火あぶりにした。このように、カルヴァンは異端者破門の権限で市側を抑え、一種の恐怖宗教支配(=カルト)を行なった。
  カルヴァンの存命中、ジュネーヴは迫害されたプロテスタントの避難場所となり、その多くが、彼の天罰と地獄の火の教義(予定説)をひろめた。(* 確かに「真理」の一つではあるが、彼は方法を間違え極端に走りすぎた。)


  (5) アルコールによる治安の悪化と不法

  ジェームズ一世はワインとシェリー酒に高額の税をかけたので、一般庶民が飲めるのはビールだけとなった。エリザベス時代のイングランドでは、フランスと事を構えていたためフランスからのブランデーを輸入禁止にし、かわりに麦芽を蒸留した強い酒ジンが安く流通し始めた。ジンの消費は、1690年50万ガロン/年が、1727年350万ガロン、1750年1900万ガロンになった。あるジンの販売小屋に夕方の3時間に1411人が出入りし、ジンを買い求めると両親、子供を含む家族全員が歩道に座り込み前後不覚になるまで飲んだ。
  そのためイングランドにはジンの金を得るための犯罪が波のように押し寄せ、1699年には 5シリング以上の盗みに対しては絞首刑を適用する法律ができた。法律もひどいが状況もひどかった。17世紀後半から18世紀にかけて、集団強盗や街道の追いはぎは日常茶飯事だった。子供はスリとして訓練されたり、売春に出されたりした。
  版画家ウイリアム・ホガースの2枚の版画のうち、”ビール街”では大勢の男女が知的談義を交わして楽しそうに飲んでいる。一方”ジン街”では、酔っ払った母親の腕から赤ん坊が落ちかけ、気違いが赤ん坊を串刺しにし、屋根裏部屋の窓からは首を吊った男が見える。

  犯罪が増えると処刑も厳しくなった。処刑はイングランドでも大陸においても、見せしめのため残酷なものであった。
  ・ 政治犯や、特に凶暴な犯罪者には、”首吊り、はらわた抜き、四つ裂き”の刑が執行された。罪人は車の後ろに引きずられて刑場に到着する。首を半吊りにして、生きたままはらわたを抜き、そのはらわたを火で焼く。それから体が四つ裂きにされる。女性はたいていは生きたまま火で焼かれた。
  ・ 盗みは、絞首刑だったが、後の1699年の法律では、片方の頬に焼印を押すように改善された。
  ・ うさんくさい宗教を言いふらすなどの言論に関する罪人は、体を固定され 舌に穴をあけられた。
  ・ 詐欺師は、両耳をそぎ落とし、鼻を切り裂き、焼き鏝で体を焼く刑が言い渡された。
  大陸ではさらに残酷だった。
  ・ 神の冒涜者は、舌を灼熱したやっとこで引き抜いた。
  ・ 1757年ダミアンという気違いによるルイ15世刺殺未遂事件が起こった。(現在で言う”心神喪失状態”の犯行) 刑場に運ばれた時、すでに彼の両足は大ハンマーで砕かれていた。胸部が灼熱したやっとこで切り裂かれ、そこへ鉛が流し込まれ、次に、4頭の荷馬車で手足が引き裂かれた。ダミアンは片腕だけになるまで意識があったという。

  やがて、処刑は一般の見世物を意図するようになった。ロンドンのハイドパークの隅にあったタイバーン処刑場では、公開処刑は休日に行なわれた。
  ・ 1721年ある女が偽金作りで生きながらの焼殺刑になったとき、群集は娯楽の要求でブーイングがとび、最後のお祈りの終わらぬうちに火が付けられた。
  ・ 1725年、夫の財産目当てに、情事にふけっていた下宿人の2人の若い男と共謀して夫を斧で殺させ、死体をばらばらにして捨てたキャサリン・ヘイズは、夫殺しの”小反逆罪”が適用され、生きながらの焼殺を宣告された。(2人の若い男は絞首刑) 判決後、監獄へ戻る途中彼女は金切り声を上げてわめき続けた。火刑の杭に縛り付けると、死刑執行人は慈悲のため彼女を絞殺しようとしたが、火が手を焦がしたので彼は飛びのいた。


  (6) 産業革命の歪

  1700年当時のイングランドは30年戦争に参加しなかったので、フランスやドイツよりも富裕な社会を形成していた。そこで、農民も商人もより効率的な生産手段に投資し始めた。しかし、この産業革命は多くの失業者を生み、粗悪な労働環境を生み、労働者たちは反発した。

  ・ 1733年ジョン・ケイは木のハンマーで飛び杼(ひ)(=フライシャトル)を両側から打つ自動織機を発明したが、多くの労働者を失業させて恨みを買い、また、企業家が彼に権利の使用料の支払いを拒んだ。ケイの生家は群集に叩き壊され、彼は居場所を転々とし 羊毛の袋を頭にかぶって人目をしのんで生活したが、生活困窮者として死んだ。
  ・ 鉱山業は重要性を増していき、出水をくみ上げるポンプなどの動力のため、蒸気機関が発明された。一方、農業は、肥料、種まき機、鉄製農機具などの普及により多くの人間が農村から仕事にあぶれ、労働力として都市部の工場に集まり始めた。
  しかし、工場の労働環境はきわめて劣悪だった。綿織工場では、5歳以上の子供が救貧院や孤児院からかどわかし同然で連れてこられ1日12時間働かされた。工場から出ることは許されず、食べ物は十分与えられず、殴られ、拷問まで行なわれ、逃亡すると鎖につながれ、自殺する子供もあり、多くの子供が小さいうちに死んだ。大人の労働者は1日14時間働かされ、雇い主が用意した不潔な地下室で寝泊りした。
  ・ 19世紀始め頃、機械打ちこわしの秘密結社ラダイトが活躍し、自動機械を破棄しなければ工場を焼き討ちすると脅迫した。政府軍との抗争にまでエスカレートし、1813年には集団裁判が行なわれ多くが死刑または流刑になった。


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