2. 犯罪の心理学



  (1) アッシリアの変化


  周口店のクロマニヨン人の洞窟の遺跡には、人間を生贄としてささげ、明らかに人肉食いが認められるという。しかしそれは宗教的理由による。またエジプトの初期の王ナルーメルのレリーフには、首を切られた敵の死体の間を威張って歩く王の姿が描かれているが、これは単なる勝利の意思表示である。しかし、サディスティックな残虐性が歴史に現れるのは、BC1000年頃からである。

  ノアの洪水(BC2000年頃)の後、隆起してできたメソポタミアの地に、シュメール人(ハム系)が移住し セム系の人々と交流し、メソポタミア文明の基礎が築かれた。その後、ウル王国(ハム系・現在のクゥエートのあたり)が繁栄した。(テラ、アブラハムの時代、BC1600年頃?)
  BC1230年中アッシリアの独裁者ティグラートニヌルタ1世の石造り祭壇の絵図には、神がいない空っぽの台座の前にひれ伏している王の姿が描かれている。そして、彼は常に神経が緊張し、頭痛持ちであったと記されている。(”神を有せざる者が通りを歩む、頭痛が衣服の如くこの者を襲う”の碑文) この頃から、男女の串刺しや子供の斬首の絵柄が現れてくる。
  宗教・礼拝・芸術・感性にかかわる右脳の働きが抑えられ、言語・理性・機械的行動をつかさどる左脳だけが用いられるようになり、脳の働きのバランスが崩れた結果であると思われる。

  その後の新アッシリア(帝国)は、およそBC1000年頃から BC612年に滅亡するまで、メソポタミア一帯を支配するために、全歴史上 ペルーを支配したピサロ以外に他に類を見ない”恐怖の政策”を行なった。
  ・ アッシリアの王ティグラート・ピレセル1世の法典は、これまでのハンムラビ法典(BC1750頃)とは一転して、過酷を極めた内容になったが、後に彼は暗殺された。
  ・ アッシュル・アクバル3世の銘板に描かれた浮き彫りによると、裸で地面に釘付けにされ生きながらに皮を剥がれ、舌や耳をやっとこで抜かれ、村の全住民を腰から肩まで杭で串刺しにしている。(大英博物館にはさらにひどい図柄もあるが一般公開しない方針だそうである)
  ・ さらに、ティグラート・ピレセル3世(744−727)は反乱を粉砕する手段として、被征服住民を遠隔地へ強制移住させるようになった。(BC744で1年に6万5千人が移動させられ、多くの者が餓死した)

  * テイグラート・ピレセル3世が最初にイスラエルへ進攻した時は、貢物で災禍を免れた。(U列16:8) しかし、BC721年 その息子のサルゴン2世(シャル・キン、シャル・マヌエセル)によって北イスラエルは滅亡し、上層民は捕囚の民としてハラフとハボル(ゴサン川のほとりの町)、メディアの町々に連れ去られ、逆にイスラエルには他の民族が入植させられた。(北イスラエルのその後の歴史は知られていない)(U列17:6)

  ・ アッシリアの軍隊は屠殺職人のように村落に襲いかかり、奴隷にし、数千人単位で虐殺した。BC689年バビロンに侵入したセナケリブ王(サルゴン2世の片腕だった)は全住民の計画的な皆殺しを行ない、道路の各所に死体の山が築かれた。次に、運河の水を引いて廃墟の汚物を流し去った。
  ・ アッシリアの暴虐は、普段は敵対しているセム系の民族を結集させ、BC654年頃バビロニア、エラム、カルディアなどが反乱したが、アッシュール・バニパル王(668−626)はこれに立ち向かい、いつもの残忍さで平定した。エラムの地は文字通り地図から消され、多くのエラム人が奴隷として連行された。


  * BC701年 セナケリブは、ヒゼキヤ王の時代のユダに攻めこみ エルサレム以外の町々を取った。バビロンによるエルサレム陥落の直前までは、エルサレムに主の臨在があった。
  セナケリブがイスラエルの生ける神である主を冒涜したので、ヒゼキヤ王が主に祈って、預言者イザヤに神のことばがあり、御使いが一晩でアッシリアの陣営の18万5千人を打ち殺した。セナケリブはニネヴェに帰り、8年後に彼はニネヴェのニスロク神の寺院で礼拝中に息子たちによって殺された。(イザ36、37、U列18−20)

  * BC660年頃(アッシュール・バニパル王の頃?)、ユダの預言者ヨナ(* アミタイの子ヨナとは、”真実の子ハト”の意)は、ニネヴェに行ってその滅亡を預言した。しかし、ヨナの驚くべき”説教の賜物”(と、三日三晩大魚の腹の中にいたことのしるし)によって、なんと、王から一般民、家畜に至るまで、灰をかぶって荒布を着て断食し、その悪から離れ、罪を悔い改めたので、主はさばきを思いなおされた。その理由は、右も左もわきまえない12万人以上の人間と多くの家畜を主が惜しまれたからである。悪の権化の町ニネヴェにさえも、神の愛が臨んだのであった!
  そして、その当時の彼らの多くの人々(バビロニアの王ネブカデネザルやアラムの将軍ナアマンなども)は、その「信仰」によって義とされ天国市民となり、逆に、イエス様の時代の律法学者とパリサイ人を罪に定めることになった。(マタ12:41、ルカ11:32) 倫理観の厳しい保守的なイスラエルの都市の方が、さばきの日にはニネヴェやソドムやゴモラよりも重い罰を受ける。それは、どれほど暗い闇があったからだけではなく、どれだけの光がはねつけられてきたかによってさばきが行なわれるからである。 「多く与えられた者は多く求められる」。

  ただし、この約50年後のBC612年に、ニネヴェは、新バビロニア、メディア、カルディアによって 跡形も無く滅亡した。アッシリアの滅亡は、まわりの諸国に憎まれていた程度に応じて、完全に歴史の記憶から消し去られた。したがって、北イスラエルの民の手がかりも無い。(ニネヴェの廃墟にあった図書館の粘土板が多量に出土し解読中)


    * 歴代の7つの”悪”の帝国

  黙示録の「7人の王」(黙17:9、ダニ10:20 「ペルシャの君」、「ギリシャの君」)を、旧・新約時代すべてを通じての、
  1.新アッシリア、2.新バビロニア、3、メド・ペルシャ、4.ギリシャ、5.ローマ、6.中世ヨーロッパ、7.近代から現代、8.終末の大バビロン

と取ることができる。
  ・ 「終末の獣は8番目であるが先の7人のうちの一人=バビロニア」(黙17:11)
  ・ 5.から7.までは、主の関心がイスラエルからキリスト教国に移ったため。5.のローマはキリスト教国になっても背後にある霊性はほとんど変わっていないとする。=「打ち殺されたと思われた頭の致命的な傷が直ってしまった」(黙13:3)



  (2) 犯罪者の心理学


  人間の欲求の5つの段階は、1.生理学上の欲求(食物、)、2.安全上の必要、3.帰属と愛の欲求(他人に必要と思われる、・・)、4.尊敬の欲求(好かれ尊敬されること)、5.自己実現である。ただし、多くの人間は第4段階にとどまる。(エイブラハム・マスロー、1954)

  犯罪者とは、基本的に、暴君ネロにも見られたように、目先の必要事項に支配された人間であり、自分の内側に甘やかされた未熟な子供のような人格が存在している。
  マルキ・ド・サドは多くの日々を監獄の中で過ごし、エロティックな白昼夢に浸る想像力過剰に陥っていた。一方、たとえば多くのローマ皇帝や戦争で堕落した軍人のように、野蛮な気晴らしのために 想像力を完全に欠如した状態での愚行を行なった。 しかし、両者とも、サディズムの中味は”膨張したエゴ”にほかならない。サディストは、”自己義認した人間(*原著では”確信人間(Right man)”)”が、大声をあげ威張り散らしながら我が道を行くという権力感情を自らの行為から引き出す者である。

  また、ほとんどの犯罪者には、本来の自分自身をも偽り欺いて、都合の悪い考えを意識の外に追い出す 心の”閉め出しメカニズム”を内側に備えている。何かに集中している時には脳がほかの刺激を受け付けないことは、ネコなどの動物実験(ブルーナーの猫)でも証明されている。ネコの前にハツカネズミを置くと カチカチ音に対し鼓膜が振動しているはずなのに、脳の神経系統が”対抗刺激”を送り出し 鼓膜からの電極のパルス電位は打ち消された。(=文字通り、聞く耳を持たない状態
  人間の5感は、1秒間に約1万単位の情報を受け取り、脳の処理システムに送られる。しかし、”心”はその内の7つ程度しか使うことができず、残りのほとんどの情報はこのブロックシステムにより無視される。

  したがって、犯罪者の性向は、人間本来のエゴの上にある、 @”弱さ・未熟さ”と、 A”自己欺瞞”である。これは、アダムとエバの時代からほとんど変わっていない。


  その他として、次のような要因が挙げられる。

  1) 関心が持てない無味乾燥した作業や複雑な問題と格闘するなどにより、人間が退屈すると、左脳は孤立し、脳の右半球のみにアルファ波を出し始め、右脳は睡眠状態に入る。(たとえば、社会学を勉強したいのに家庭の事情で家事の退屈な反復作業をしている女性が抑うつ感に陥っていた。夜学に通って社会学の勉強を始めるととたんに直った。)
  したがって、人間は退屈すると、なにか面白いことをする衝動に駆られる。(子供: テレビ、いたずら、大人: 買い物、ゴルフ、酒、奇怪な抗議運動、浮気、・・・)
  このように、”神への礼拝”に代わって現れた、”攻撃”することや”アルコール”によって、怜悧な理性から解放し本能的な目的感を回復して右脳と左脳のバランスを調整し直そうとする。

  ・ ギリシャのアレクサンドロス大王は、アル中特有の極端な性格だった。彼は知的浪漫派の家系でアリストテレスに学んでいるが、哲学の慰めを享受するにはあまりにも感情的かつ粗野だった。乳兄弟のクレイトスと口論になった時彼を護衛兵の槍で突き殺し、その直後にその槍で自分の喉を突こうとした。町の住民を最後の女、子供まで皆殺しにし、一方、ある重臣が死んだ時には悲嘆を隠そうともしなかった。またその死の床に付き添った医師を処刑した。アレクサンドロスの極端に揺れ動く行動は、アルコール中毒者に典型的に見られる、酩酊時の狂乱と それに続く発作的な感傷と寛大さであり、左脳の狭い意識から逃れようとする逃避行動である。

  2) 人口増加や移動などによる混み過ぎは、ストレスによる暴力を誘発する。野生動物のグループ間には暴力行為はほとんどない。米国東海岸のチェサピーク湾のジェームズ島で、鹿が大量死した。300頭の鹿のうち220頭が死に、アドレナリンを分泌する副腎に肥大が見られた。鹿に必要な土地の面積は 1頭当たり16平方キロであるが、この時は4平方キロしかなかった。
  ノルウェイ産のネズミ(レミング)による込み過ぎの実験では、まず両端の領域に支配力が最も強いオスが多くのメスを従えて占領した。次に、中央部の領域では 支配力が次に高い一群のネズミが凶徒に化し、レイプ、ホモ行為、共食いを盛んに行なった。オスはメスの穴に入り込みこれを犯し子供を食い散らかした。
  ある刑務所での、受刑者たちに近づいて不快感を感じたら”ストップ”をかける実験では、暴力犯以外は必要とする個人空間は1平方メートルだったのに対し、暴力犯では3.6平方メートルであった。
  ただし、動物においては暴力への抑止力は外部刺激にのみによるが、人間の場合は全く異なる抑止力を必要とするので、”個人空間”が真の問題ではない。

  3) 日本兵による南京大虐殺: (中国政府による虚偽なので削除いたしました。 (2016 12/19) → むしろ、中国租界における日本軍の麻薬利権のほうが問題)

  4) ヒトラーは、あらゆる犯罪者に共通している”怒りの感情”をコントロールできなかった。批判や反対を耳にすると、彼はヒステリー症状を呈した。クビツェクというヒトラーの幼友達によると、子供の時から、彼はごく些細なことや不注意な言葉使いによっても異様に感じられるほどの烈しさで猛り狂った。ヒトラーはイギリスの首相チェンバレンとの2度の会談でも自制心を失い怒鳴りわめき散らした。ドイツ陸軍内部に時限爆弾によるヒトラー暗殺計画が暴露すると、数十人の首謀者をビアの線で首吊りにし、彼はその処刑の様子をフィルムに撮らせ、繰り返しそれを鑑賞した。しかし、怒りの感情の抑止力欠如のため、2度の致命的な失敗をし、ドイツを敗北に導いた。1度目は、1940年8月イギリスのベルリン空襲に激怒して対抗し、本来は南部の空軍基地を標的するべきものを、非軍事目標のロンドンに空爆して浪費した。2度目は、1941年3月ユーゴの大規模な反乱に激怒して”仕返し”と怒鳴り散らし、ノンストップでベオグラードを撃滅した。このためロシアへの侵攻が4週間遅れ、ロシアの過酷な冬のためにモスクワ占領まで至らなかった。



    (3) エリートの危険


  エリートは騙されやすく、詐欺に遭いやすい。詐欺事件についてのあるアンケートによると、Aグループの『エリートタイプ』は、高学歴や一流企業のサラリーマンに多く、知識や社会経験が豊富で”俺は騙されない”と自信を持っている。このタイプの人は、権力や権威を大切にする傾向があり、自負心が強い。そこを刺激し、学者や著名人の権威を利用したり、相手を持ち上げながら話すと、意外と簡単にセールストークに乗ってくる。自分よりも学歴や資格が上回る人に対して疑いを持たない傾向にあるので、有名な学者の名前を出しデータを捏造した偽造論文で 浄水器や健康食品などを買ってしまう。(ご存知ですよね。うん、まあ。)
  (cf. その他、騙されやすいタイプとして、 Bグループ: 『親分肌タイプ』 ・・・ 断るのは格好が悪いと考えていて下手に出られると断れない、 Cグループ: 『オタクタイプ』 ・・・ 一点豪華主義・高額あるいはレア商品、 Dグループ: 『癒し系タイプ』 ・・・ 押しに弱い)

  ・ オウム真理教による地下鉄サリン事件で、かつてエリート中のエリートだった林郁夫がこの殺人集団の実行犯として逮捕されたのは、世の中に大きなショックを与えた。
  林郁夫は、東京の内科・小児科の開業医の次男として生まれ、両親は町の人々に尊敬され彼は両親を誇りに思っていた。彼は、小学校から大学まで成績はトップクラスで、慶応大学医学部に進学した。卒業後、心臓外科医として病院勤務し、慶大付属病院、米国デトロイトの心臓外科で世界的に知られるサイナイ病院を経た。同病院に留学中に同窓の麻酔科医と結婚した。彼女は戦後まもなくの民主党総理大臣の姪にあたる。ここまでは順風満帆の人生だった。
  彼は、慶応義塾高校の頃、宇宙論や幸福論などに興味を持ち、”現在社会の様々な問題を解決できる、包括的、統合的な法則を学び、それを体得して世の中に広めたい”と考えるようになった。そして、国内の病院勤務の時に、仏教に関心を抱くようになり、”釈迦の教えこそ現代の問題を解決する法則だ”と思うようになった。1975年に阿含宗(あごんしゅう)の前身である観音慈恵会に入った。折りからの超能力ブームにより、1986年阿含宗が”密教の法”を信者に伝授し始めた。しかし、管長が”死ぬまでには解脱できるだろう、と心細いことを言うので失望し、彼は阿含宗の修行に不満を感じ、気功や合気道をはじめた。
  そのころ、オウム真理教の本”マハーナヤ”を読んで、1989年2月に世田谷区のオウム真理教の道場に行き、”グル”である麻原彰光と出会った。1990年1月43歳で医局長になっていた晴嵐病院をあっさり退職し、オウムの出家信者になった。彼は、自分がマスコミで批判されているオウム真理教に入信することは、不当な国家権力に対抗し、世の中にその教えの正しさを訴えることになると考えた。(しかし、すでに1989年11月には麻原彰光の指示により、横浜市で坂本弁護士一家が殺害されていたのを、その時の彼は知らなかった。)
  その後の彼は、山梨県上九一色村の本部で、オウムの”省庁制”では”治療省大臣”(”霊的ステージ”では”師長”)として、命じられるままに細菌兵器としてボツリヌス菌の研究をし、1995年3月20日午前8時頃、千代田線で地下鉄サリン事件の実行犯となり3人が死亡した。(5人の実行犯のうち彼だけが無期懲役で、他は死刑が確定した。)

  彼は、社会に対する問題意識を持っていた”正義感の強い立派なエリートの善人”であったが、結局、彼の哲学的な”善”への志向は方向性を間違えて、@ 仏教やニューエイジにかかわる悪霊を受けてしまうことになった。その惑わされた背景には、”自分が何かしなければならない”という強い自負心(傲慢)があった。(cf. キリスト教の方向性は逆で、神様にへりくだり、ただ恵みを受けることである。) また、入信後は、A 霊的ステージ”という権威・制度に騙され、そのまま行きつく所までずるずる引きずられていったのである。

  「イエスを告白しない霊は、どれひとつとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(Tヨハ4:3)


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