6. 量子力学による自然啓示(1)   ・・・・・  信仰のあかし



  20世紀の物理学はユダヤ人物理学者がメインとなって作り上げたこと、あるいは、大いに関与したことには神の計画がある。
  旧約のイスラエルの民は、(ヤーウェ神)の民として選ばれ、元々、みことば”をゆだねられた民であった。たとえば、モーセ五書の死海写本は3000年経っても一点一画が全く変わっていない。しかも1900年の放浪の民としての期間を含んでいる。
  同じように、物理学、数学・論理学などの自然を記述するための記号や式や図形などは、まさに 純化された自然科学の”言葉”であることと共通点がある。


  (1) 奇跡現象の位置付け:


  ここで まず、”奇跡” ・・・ 特に、物理的奇跡 というものが存在すれば、自然科学の全体がどのように見なされるかを考えよう。 奇跡の要素は、キリスト信仰にあって重要な役割を持っている。 80万人教会のチョー・ヨンギ牧師は”奇跡こそ、神の存在証明である”と言った。 使徒行伝時代の福音宣教が破竹の勢いで進められていったポイントは、しるしと不思議が伴っていたからである。 (Tコリ2:4、使4:33、ヨハ14:12、etc.)

  非常に大雑把に言って、次のような科学分野どおしの関係がある。

           

  (ただし、< は 左のものが右のものを土台としているといったような意味)
  もし、奇跡の存在が明らかにされれば、質量やエネルギー、運動量、角運動量などのすべての保存則が破れ、物理理論は根底から揺るがされ、特に、ぎりぎりいっぱいまで類推された分野は大幅に修正されなければならなくなる。 すなわち、時間的に実証できない”進化論”と、距離的に(相対論より 時間的にも)実証できない”宇宙論”についてはそうである。
  一つや二つの奇跡ならば、それをうやむやにして葬り去ろうとする傾向が 日本の科学者にはあるだろう。(マヘシュ・チャブダ師の金歯の奇跡も担当の歯科医たちが診断書を書き直したそうであり、これは神に敵対する行為(サタン的行為、サタン=敵対者)である。)  しかし、有無を言わせないほど 明らかに、かつ 非常に多くの奇跡現象が起こり続け、それをマスコミも連日大々的に報道するならば、科学者たち自身が大幅な修正を公言しなければならなくなるだろう。 預言によると、日本について まさにその時が近いと言われている!。

  「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使4:20)



  (2) 創世記による階層構造:


  創世記による物理的優先順位は、

  第一日の段階:
  創1:1 時間の創造  ・・・ 創造の「初め(ベレーシス(ヘ))」が存在するので、被造物全体を貫く時間をも神が創造したと考えられる。物質だけではなく、(御使い、堕天使)も、例外無く時間のパラメーターに支配されている。(ダニ10:13、黙12:12など) cf. 神ご自身は時間をも超越した存在。(ヨハ1:1、17:5など)

  創1:2 量子力学的な場と性質の創造 ・・・ 複素数の場に ゲージ場と分離不可能性の性質を創造し、神の性質 e、π、i を転写。(孵化の段階 〜神のことばが発せられる準備段階)

  創1:3〜5 光の創造 ・・・ 神のことばによって、瞬間的に 「光」(エネルギー=電磁波=物質光)の創造。光速(c)=一定の原理。(信仰的実現の段階)

  第二日の段階:
  創1:6〜8  ・・・  水と水の間に 「大空」(一般的な空間)の創造。複素共役の波動関数によってこの宇宙に物質(粒子)が実現するシステム。”確率性”およびプランク定数(h)はここに現れる。 また、光速を優先させたため、空間(したがって 自動的に 見かけ上の時間も)の方がローレンツ短縮する。ただし 時間は決して逆行しない。

  第三日以降の段階:
  ・・・ 以上の備えられた場で、神がさらに ”ことば”によって 各段階に従って瞬間的に 物質を創造し続けた。(大いなる奇跡: 植物(第三日)、天体(第四日)、海と空の動物(第五日)、陸の動物・人間(第六日)の創造(これらの理性に反する順序は、後にあかしされるための しるしである。))
  現在も起こる(神のあかし目的の)奇跡は”再創造”のわざである。したがって、「神に似せて創られた」人間(創1:26)も、”ことば”によって環境を創造していくのである。



  (3) 信仰義認の構造:


  20世紀初頭に量子力学が始まってから100年以上経っているが、”確率性”については何の進展も無い。ユダヤ教の神を信じていたユダヤ人であるアインシュタインは、量子力学がこの確率性を原理として有していたので これを”不完全”な理論と呼んだ。 人の思索とマッチングし、古典的に展開でき、因果関係が成り立ち、決定論的であるのは、水面下の波動関数のみであり、しかも 固有値のあらゆる”可能性”の予測までである。 神は、なぜこのような、”確率性”という 人が知ることができない本質的な障壁を置いたのだろうか?

  創世紀第二日の記述には「良し」と書いていない。これは他に”良し”とされるべき要因(= 信仰)が存在するからだろう。
  さて、パウロが書いたと言われる ヘブル人への手紙は、当時のユダヤ人クリスチャン宛で、内容の中心ポイントは”信仰”についてであった。それは、律法による”行い”に慣れ親しんできた彼らの弱点が ”信仰”だったからである。
  信仰は、 1. 第1義的に; 信念、信頼、確信、信仰(ギリシャ語ですべて同じ言葉)、2. 第2義的に; 神の(今語っている)ことばに聞き従う、の2種類あり、ここでは主に 前者のことを言っている。(後者は、7.預言の項)

  「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブ11:3)

  「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブ11:6)

  目に見えることを知的に知るだけのことは、”信仰”と呼ばないのであり、神が喜んでくださり、報いを与えてくださるのは、ただ信仰による。神の子イエス・キリストの十字架を信じる 信仰によってのみ義とされ、行いによらない。(信仰義認) 
  旧約時代は、まだ十字架による贖いが明らかにされていなったが、神のことばに聞き従う信仰が存在した。ユダヤ人ののろいの原因は”不信仰”であった。旧約時代の出エジプトの途中で イスラエル人の多くは、不信仰のゆえに神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた。北イスラエル国は偶像と姦淫のゆえ滅亡した。そして、最終的に律法主義に陥った(元々神の民、主が語った契約の民)ユダヤ人によって、実に、神の子キリストは十字架にかけられ殺されたのである。
  その結果、イスラエルは神に捨てられ、福音は異邦人に宣べ伝えられた。ユダヤ人は(エルサレム陥落の時残っていたのはパリサイ派)世界に散らされ、1900年もの間 放浪の民となって 不条理な迫害を受け続けた。それは、不条理を受けられたキリストを信じないままであったからである。その間、ほとんどのユダヤ人たちに覆いがかかったままで、彼らがキリスト教に改宗するようなことは無かった。(*)
  現在は、キリストの十字架の血潮による、より優れた契約の時(新約時代)であるが、目に見えるもの、知っていることだけにより頼む態度を神は嫌われる。 神は、むしろ 私たちが幼子のようにあまり考えないで、リラックスして 神にもっと信頼して求めてほしいと望んでいる。

    量子力学の構造と信仰のまとめ:

   


  確かに、それぞれ全く別々のソースからの、”思索”と”自然”の一致は、驚くべきものである。同じ神が、この両方を創造したからである。 ただし、その一致は 水面下の波動関数についてまでである。

  絶対的なものは神のみである。 量子力学の”確率性”や”不確定性原理”(また、”相対性原理”、思索では論理学の”不完全性定理”(**))は、知的に突き詰めていった私たちが、ある所で 神に降参・ギブアップするように、あらかじめ計画された自然啓示であると言える。

       

  降参する閾値(しきいち)が低いのが異邦人で、最も高いのがユダヤ人である。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人(異邦人)は知恵を追求する」(Tコリ1:22)傾向にあるから、異邦人は割と単純に理論を重んじて素直である。ニコデモのトンチンカンな受け答え(ヨハ3:1−)にもユダヤ性を感じる。(ハイゼンベルク;ドイツ人、ゲーデル;オーストリア人)  したがって、イスラエルのリバイバルは最も終わりの時になる。

   「先の者が後になり、後の者が先になることが多い。」(マタ19:30)


   *  ユダヤ人には ごくまれにキリスト教への改宗者がいた。メンデルスゾーンは、J・S・バッハを再び世に紹介してリバイバルさせ、また”真夏の夜の夢”の”結婚行進曲”で有名。終わりの日の キリストの再臨の時、キリストと全イスラエルが”結婚”することを暗示している。 マルクスは形式だけの改宗者でその実は無神論者。


   ** 不完全性定理は、なぜ神がエデンの園に善悪の知識の木を置いたか、なぜ人の堕罪を予知して食止めなかったか、なぜサタンを創り、滅びの子を定め、ゲヘナを創造したか、永遠に 天国と地獄が存在する状態でハッピーエンド?、・・・などの問いに、論理学的に答えるものである。

  自己プログラムを完全に理解するコンピューターの概念自体は不可能である。それと同じように、『もし、すべての真理を知る”無矛盾”な存在を”神”と呼ぶならば、”神”は存在しない。』 (グリムの定理)という結果が出る!。 すなわち、神が存在するならば、人間の理性では認識不可能な存在である。(ゲーデルの不完全性定理から パトリック・グリム(ニューヨーク州立大・哲学者)が導いた結果(1991))  ・・・ 神の”三位一体”も 実は 人が認識不可能な概念である。(三神論、一位説(ユニテリアン)、エホバの証人(イエス・キリストを御父よりも低い位置に置くもの))は異端)

  また、20世紀初頭の数理論理学や数学の研究者たちには 精神疾患者や変わった人が多かった(ゲーデル、カントル、ヒルベルト、・・)のは、あまりにも知性だけを追求しすぎることが、神が創造した人間の本来の精神構造と合わないため無理がでて支障をきたしたのである。(そのため ゲーデルに息抜きを与えた彼の妻・元キャバレーの踊り子、7歳年上のアデルは生涯ゲーデルを精神的に支えることになった。またディズニーの”白雪姫”を観てなんとか精神状態を保っていた。)

  知的に納得のいくことばかり求めて、どうして 神の子キリストの十字架の不条理(= 神の愛)を理解できようか? 十字架上のキリストがすでに成就してくださった。( It has done!)これが 信仰である。

  したがって、本当に神を知るのならば、伝統的な神学で行われてきた、神が存在することの ”可能性”から”必然性”を導こうとする『神の存在論的証明』(アンセルムス、アクィナス、デカルト等)のような”理性主義的”アプローチでは不可能であり、一度知性を捨てての”神秘的体験”のアプローチ(= 聖霊様が共におられること)をしなければならない。
  そして、真に神を礼拝する”礼拝者”こそが、罪の無い時のアダムとエバのように、創造された人間の本来のあるべき姿であり(罪は十字架によって葬り去られた)、 天の御国にあっても、礼拝は永遠に続くのである。 賜物は主の再臨の時にすたれる。 しかし”信仰”は永遠に続く


  「見よ、神はいと高く、私たちには知ることができない。」 (ヨブ36:26)  (ヨブはパレスチナ東方の異邦人

  「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためです。」 (Tコリ2:4、5)

  「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」 (Tコリ13:13)


             次へ       本文1.へ戻る