3.偽装している善について


 アベルの殉教後、セツからノアまで罪が増大し大洪水のさばき、神に聞き従ったノアとその家族8人のみ救われる。アブラハムの時、大いなる祝福の約束、しかし、出エジプト時の民は”奴隷根性”による不信仰のため、カナンの地に入れたのはヨシュアとカレブと荒野で生まれた民、残りは全員荒野で死亡。ソロモンからの偶像と姦淫により国力が減退、預言者への迫害、ついに(反キリスト的な)バビロンにより滅亡、その直前に宮から主の栄光が去った(エゼ11:23)。回復した第2神殿には主の栄光が失われた状態、エジプト、シリアの支配から最終的にはローマの支配へ。次第に福音の内実を欠いたユダヤ教という宗教、すなわち”律法主義”に陥っていったのである。

 このように、人の罪が増大して、それが満ちた時に、神のさばきが行なわれるというパターンである。しかし、さばきが行なわれた時点での罪の質は明確に変化している。単純な罪ではなく、だいぶひねくれたものになっているのである。最終的にどうしても赦されない罪とは、”聖霊を汚す罪”である。


 彼ほどの善人はいないと見られていたヨブ(ヨブ1:8)は、許された試みの中で非常に苦しめられ、ついに、隠れていた罪、”自己義認”の罪が指摘された。(ヨブ32:2) これは、いかに人の原罪が根深いものであるかを例示するものである。(だから、私たちは、試みに会わせず悪(=悪魔)より救い出しください、と祈る必要がある)
 一方、サムソンは、あまりきよめられていなかったが明確に主の”召し”があり、悔い改めて、また、彼の髪について主の語った”ことば”を信じて、最後に最も大きな働きをした。彼が柱を引き抜いて死ぬ時に殺した者の数は、生きている時に殺した数よりも多かったのである。(士16:30、悔い改めの力) 長い間、宗教、慣習、伝統にとらわれてきた、信仰の弱いユダヤ人クリスチャン充ての、ヘブル人への手紙では、純真な信仰に立ちかえるよう、サムソンを信仰の勇士の一人として引用している。(ヘブ11:32) サムソンや遊女ラハブの信仰は、罪が赦されて余りある、神の喜びだった

 ダビデは王となってからこの類の罪を犯したのは興味深い。(T歴21:1〜) これは、イスラエル全体の罪でもあり(Uサム24:1〜)、主が許したサタンの誘惑によって、主によって打ち勝ったのに、兵力誇示のため軍隊を数えた”高慢の罪”を砕かれた。ダビデの悔い改めの祈りは、この”隠れた罪(=傲慢の罪)”について詩篇に記されている(詩19:12、13)。
 預言でも語られているように、日本のリバイバルに際しても、このような高慢の罪だけは赦されないでさばきが行なわれると思われる。神によって始められた事が、肉によって完成されるような事については、主の厳しい介入がある。聖霊様によって始められた事が、人間的な制度によってコントロールされるならば、当然さばきがある。100年前のアズサ・リバイバルも礼拝をプログラム化したためわずか3年で終わり、聖霊様の臨在が去って、他国へ飛び火した。
 (日本にたくさんの預言が来るが、上下関係や階級制度、文化や伝統の上に建てるならば、リバイバルしない。イギリス、韓国にも、制度のゆえ、さばきが来る。(マーク・フィサー))

 リバイバルには礼拝と祈りの回復が伴う(黙5:8)。ソロモンは、知恵を求め、あらゆる学問や、神殿建設、あらゆる栄華を極めた者の代表者であり、それでも伝道者の書にあるように、「空の空」であると告白した。また、神が創造した野の花ほども着飾っていないと言われた。 しかし、ダビデには喜びがあり、その喜びとは、神を礼拝する事であった。(イザ61:10も) 罪ある人間が、アダムの時のように、神を礼拝できるのは、唯一イエス様の十字架を通してである。ダビデの時代にはすでに贖いを信じていたので、幕屋には隔ての幕が無かった。

 世界に預言の霊が下って、エリヤの時代が到来するが、迫害者のサウル王も、ダビデを迫害中に預言者の群れのところに行き、預言の霊の満たされ、預言をした。しかし彼の品性は変わっていなかったのである(Tサム19:23,24)。心が悪い状態でも一時的に預言の霊が臨むことがある(ヨハ11:51、52)。賜物は、祈らなくても、聞き従わなくても運用しうる。霊、知性の実だけではなく、主の品性としての実を結ぶべきである。
 問題は、リバイバルの激しい聖霊様の働きが終わった後で、主がとどまっていてくださるかどうかである


 その後の歴史上のイスラエルは、偶像・姦淫からの(悔い改めでは無く)単なる反動で、パリサイ的律法主義という偽善の背信・不信の最悪の状態に陥った。これは、旧約時代のあからさまな罪に落ちたイスラエルや、異邦の悪名高い都市であるソドム(同性愛)、ツロ、シドン(贅沢・騒乱)やニネベ(魔術)よりも悪い状態で、宗教的な善人の町の方が”原罪”に最も近い状態である。(マタ11:20〜24、12:42) 人間的な評価はどうであれ、主がみことばによってこのように語っているのである。
 そして実に、御子イエス様は、最も敬虔そうに見えていたパリサイ派のユダヤ人によって十字架につけられ殺されたのである!
 神の子イエス様は取税人や罪人の友となり、子供たちを受け入れ、また異邦人にもわざを行なわれた。しかし、偽善の律法学者、パリサイ人に対する言葉の厳しさには驚かされる。(ヨハ8:44など)

 現代の時代、聖霊様の自由を認めず、イエス様を十字架につけているのは、何であろうか?


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