ヘブライ語の超論理性について:
ヘブライ語は、伝言ゲームをしても変わらない言語だと言われている。それは、あいまいな言葉が無く、すべて具体的だからである。そのため、聖書が書かれた時代の古代ヘブライ語は、現代ヘブライ語とほとんど変わっていない。
一方、ギリシャ語は、きわめて論理的な思考を好むヘレニズム文化の中で育ってきた言葉なので、世界中で最も論理的でニュアンスを正確に表現できる言語と言われている。使徒たちを通して書かれた、新約聖書は、理屈を重んじる異邦人にも福音を分かち合う事ができるように、すなわち、時間の流れの中にある”この地上に来られた”御子イエス様を良く伝えられるように、神が歴史の中に計画・配慮されたものである。
カトリックの旧約聖書は、ヘブライ語 → 70人訳ギリシャ語(*) → 日本語、
プロテスタントの旧約聖書は、ヘブライ語 → 日本語
聖書のヘブライ語の最大の特徴は、時制が無く、完了形か未完了形か(**)の区別しかない事である。すなわち、超論理的なものを表現し、信仰が最もfitする言語である。これは、神にとっては、すべては、すでに完了した、という、時制などを問題にしない、時間を超越した存在である事を意味し、それは、端的に聖書ヘブライ語の中に表現されている。
「救いの信仰」から始まって、「聖化」、「預言」、いやしや繁栄などの「祝福」、あらゆる種類の「油注ぎ」(***)などは、”すでに与えられている恵み”である。そしてそれは、私たちが礼拝し、祈り求め、また、捜す事により呼び込まれ、実際に受け取るのである。すなわち、聖書ヘブライ語は文法からして信仰の本質を表している。
→ 参照メッセージ: マーク・フィサー師(預言)、メル・ボンド師(いやしと祝福)
したがって、旧約ヘブライ語聖書を読む際、自動的に、読む人が信仰を持って読むか、否かで、その持つべき意味が全く変わってしまう。翻訳にあっても同様である。
神は生きておられるから、信仰と不信仰との結果が極端な差をもって成就し、それゆえ最も神をあかしすることができる言語である。そのために、神に選ばれたユダヤ人たちが、良くも悪くも身をもってそのことが歴史の中に成就していった事の要因として、言語の文法の要素が強く影響したと考えられる。(****)
私たちクリスチャンも、聞き方や読み方、また、語る(告白する)言葉には注意していきたいと思う。
* 70人訳(セプチュア・ギンタ)は意訳が多いと言われる。(ex)アブラハムに現れた「エル・シャダイ」・・・”全能の神”は意訳。正確には「乳房の神」、幼な子を愛し養う、恵みとあわれみの神。自らの血(=乳)を注ぎ出して愛する神の意。)
** 完了形: 時間を超越した、神の領分で、予定論とかかわる。信仰の土台として、ほんの少しの”神の啓示”が必要。
未完了形: 永遠の時間の流れにある、人に関与する領分で、自由意志にかかわる。
*** すでにある油注ぎを悟って受ける事は、器による油注ぎ=「按手」とは異なる。わざわざへりくだって特定の器の集会に出席する理由は、メッセージだけでなく、器からの良い油注ぎを受けるためである。
**** 現代ヘブライ語で、未来を表すために”未完了形”を用いているのは、今だユダヤ人が旧約聖書における信仰の本質を悟っていない(不信仰の状態にある)事を表していると思われる。