5. 古代イスラエル民族にかかわる遺跡・遺物:
1. イスラエル石碑:
イスラエル石碑(メルエンプタハ石碑、メルネプタハ石碑(Merneptah Stele(英語読み))は、イスラエルが「民族」の形で歴史上初めて現れる資料で、イスラエル民族の 「出エジプト」の時期を決定する重要な資料です。 旧約聖書にある系図から遡って、いつ頃天地創造がなされたかを知るためには、ヨシュア記、士師記で年代の記録が途絶えているので、全体をつなげる為に、この「出エジプト」の時期を
どうしても知る必要があります。 この石碑は、内容は エジプト側から見た エジプト軍の戦勝記念碑であり、イスラエル民族のことについては、エジプト軍が彼らを打ち破ったという、事実と違うことを書いています。
メルエンプタハ石碑は、1896年にテーベで、イギリスのフリンダーズ・ペトリーによって発見されたもので、紀元前1212年から1202年?まで統治した古代エジプトのファラオ、メルエンプタハによる碑文です。(高さ3m、黒色花崗岩、碑文によると第19王朝メルエンプタハ王の治世5年に制作された と書かれている) 現在はカイロのエジプト考古学博物館に収蔵されています。
メルエンプタハのミイラは、1989年、アメンホテプ2世の墓で ヴィクトル・ロレによって発見されました。 長い間、エジプト考古学博物館に所蔵されていましたが、2021年、他の17人の王と4人の王妃とともにエジプト国立文明博物館に移されました。 彼は人生の大半を軍人(主に対リビア)として過ごし、ようやく60歳でファラオとなり、高齢のため関節炎、虫歯や歯周病、動脈硬化など様々な病気がありました。
(1) 「迫害の王」ラムセス2世と 「溺死の王」メルエンプタハ:
メルエンプタハは、ラムセス2世の第13王子で、40歳の時に「軍隊の監督者」となって長い間軍人として働きました。王位を継承したのは彼が60歳になってからです。
彼のミイラは、全身が所々白くなっており、特に口の周りが白くなっています。 これは、彼の溺死体がしばらくの間海水に漬かっていて、屍蝋(しろう、皮下脂肪のカルシウム石鹸)ができたか、塩分がしみ込んで粉がふいたか と考えられています。 ( → こっち来てミイラ (*^∇^)ノ” )
父のラムセス2世(Ramesses II、紀元前1301年頃 - 紀元前1213年頃)は、エジプト古王朝第19王朝のファラオ(在位:紀元前1279年頃 - 紀元前1213年頃)です。 彼は、ナイルデルタの地に王の町を作り、各地に多くの神殿やオベリスク、巨像を建てるなど、古代エジプト文明が最も栄えた時代の王でした。
ヨセフを宰相に引き上げたヒクソス(シリア、パレスチナ系非エジプト人のアジア系の支配)のファラオのいた第15王朝)の時代は過ぎ去り、へブル人たちは数が増えると同時に 冷遇されるようになり、ラムセス2世は巨大な建設事業のために へブル人たちを奴隷としてこき使ったようです。 そのうめき声が主の耳に届きました。
ラムセス2世は、簡単な銘文や工芸品を用いて先人の業績を奪い、カデシュの戦い(BC1286頃、ヒッタイトとの戦い、引き分けか敗北で講和した)の真実を隠蔽し、エジプト全土にわたって彼の”偉大な勝利”を誇示しているので、当然、イスラエルの民が
大いなる神の奇跡によって エジプトから出て行き、割れた紅海にとどまっていたメルエンプタハの軍隊が全員溺死したことは、とても書けないはずです。 このようにラムセス2世が虚飾や捏造で知られていたことを考慮すれば、多くの学者により、このメルエンプタハ石碑において、逆のことを書いて捏造したと考えられています。
したがって、ラメセス2世が「迫害の王」。 そして、メルエンプタハのミイラからは塩分が浮いて白く変色していることから、彼がヘブル人を紅海までまで追いかけて、モーセを通して主は海を真っ二つに割り、海底を歩いて渡り、追ってきた「溺死の王」は 海が元に戻り
彼の軍隊と共に溺死したので、「溺死の王」はメルエンプタハということになります。

(2) 出エジプトの時期:
この碑の成立年代は、エジプト考古学に基づいて、BC1207年出エジプトの7年後の、BC1200年にテーベに建てられたといわれています。(ユダヤ暦と若干異なる)
エジプト滞留のイスラエル人たちの増え方は、
@ ヤコブたち(67人*)が ベエルシェバから ゴシェンの地(ラメセスの地)へ移住したのが、 BC1207 + 430 = BC1637 この時ヨセフは 38、9歳? これから逆算すると、ヨセフが売られたのが BC1675年前後となり、彼が獄にいる間に 第15王朝のヒクソス王朝(BC1663-1555)が成立したことになる。 ヨセフを宰相に任命したのが 最初の王 サイティス(サリティス by.ヨセフォス)であり、ナイル川デルタ東部を占領し、メンフィス、パレスチナまで直轄支配した王ということになります。
* この時、ルベン5、シメオン7、レビ4、ユダ6、イッサカル5、ゼブルン4、ガド8、アシェル7、ヨセフ3、ベミヤミン11、ダン2、ナフタリ5
の (妻は別にして)計67人 (創世記46:8−)
A ヒクソスを滅ぼし、エジプトを再統一した第18王朝(新王朝の始まり)の最初の王
イアフメス(1570-1546)の最初の年に、ヘブル人は250人。
B 第18王朝最後の王 ホルエムヘブ(1321-1293)の最初の年には、ヘブル人は
4万8千人にまで増えていた。 彼は、カナンのシリア遠征に失敗し、ヘブル人の勢いを恐れていました。
C 第19王朝のラムセス2世(1279-1212)の時に、古王朝最大の勢力となりました。そして、次の
メルエンプタハ(1212-1202?)の時は、BC1207年に、モーセが率いる出エジプトの民は (20歳以上の)男だけで60万人にもなっていた。 (出エジプト12:37、民数記1:46)
このメルエンプタハこそが、呪法師らを使って神とモーセに逆らい、極端にかたくなになったファラオ(パロ)です。この当時の呪法師たちは、本当にしるしを行う
きわめて霊的な者たちでした。
その後のエジプトは、これだけ多くの民が一度にエジプトから出たので、経済が大打撃を受け、建設事業は滞り、内政も混乱しました。 次はアメンメス(1202?-1199)、セティ(1199-1193)、サプタハ(1193-1187)など、若い王たちによる短い治世が続きました。
(3) メルエンプタハ石碑の解読:
エジプト象形文字(ヒエログリフ)の解読は、主に ロゼッタストーン(新王朝のBC196 プトレマイオス、1799年発見、 ヒエログリフ−デモティック(民衆文字)−ギリシャ文字で同じ内容を3段で記述。辞書の役割)によります。 ペトリーは、考古学チームの一員であるドイツ人文献学者ヴィルヘルム・シュピーゲルベルクに碑文の翻訳を依頼し、この
征服した民族あるいは部族を表す記号、I.si.ri.ar を発見しました。
碑文の大部分は、メルエンプタハ王が、リビアとその海の民の同盟国の敵に対して行なった勝利を称えるものです。 最後の2行に、カナン遠征について触れており、メルエンプタハ王はそこでアスカルナ、ゲゼル、ヤノアムなどの反乱を起こしたカナン人の都市、そして、「イスラエルは一掃され……その種はもはや無し」と、イスラエルの民を打ち破り、滅ぼしたと述べています。 イスラエルの記事は、27行目です。
実際の100万人以上のイスラエルの民は、モーセに率いられ、シン(シナイ半島)の荒野で40年間過ごしていたので、カナンの地には存在せず、戦いもなかったのです。
● 最後の2行はカナンに焦点を移しています。 (紙に転写しているので、右→左 の原文を 左→右 にして読む)
(訳文) ”王子たちは平伏し、「平和!」と叫んでいる。 九つの弓(=敵
の意)の間では、誰一人として頭を上げない。 ジェヘヌは荒廃する。 ハッティは平定される。 カナンはあらゆる悪によって略奪される。 アスカルニは連れ去られる。 ゲゼルは奪われる。 ヤノアムは消滅する。 イスラエルは荒廃し、その子孫はもはや存在しない。 カル(コール)はエジプトのせいで未亡人となった。 すべての国々は共に平定される。 落ち着きを失っていた者は皆縛られる。”

2. ゲゼルカレンダー:
(1) 歴史的背景:
ゲゼルカレンダーは、1908年に発見されました。現在はイスタンブール考古学博物館が所蔵。 これは当時の 農事暦で、最も古い ヘブライ語(フェニキア文字を借用)で書かれた碑文です。(cf. バビロン帰還後の第2神殿以降からのヘブライ文字は
アラム文字になった。死海写本もアラム語系)
ゲゼルカレンダーの発見地は、イスラエル中央部・海岸寄りの、エルサレムから西北西に30km、ラトゥルンとラムラの間に位置する、古いカナン人の町、古代要塞都市
テル・ゲゼル(Tel Gezer)です(「テル」は遺跡、丘 の意)。 ここは、
中期青銅器時代(紀元前1500〜1200年)にはカナン人の宗教的中心地で、10本の巨大な列柱(マツェバ)が立てられています。
イスラエル民族が入植したヨシュアの時代に、ゲゼルは、エフライムの部族の割り当て地の都市の1つになりました。(ヨシュア16:3) そこにいたカナン人は奴隷となりました。
また、ペリシテ人特有の、ツートンカラーの土器や、物語が書かれた”アシュドッド土偶”も発見され、ダビデが「ギブオンからゲゼルに至るまで」、イスラエルを悩ませたペリシテ人を打ち滅ぼした、とある通りです。
(T歴代誌14:14−16、 Uサムエル記5:23−25)
さらに後の、ソロモン王の時代(BC1000年頃)には、エルサレム、ハツォル、メギドとともに、この都市を要塞化しました。そこには要塞化された宮殿が作られ、ソロモン王の門など、その遺構が発掘されています。
エジプトのファラオはゲゼルに攻め上りました。ゲゼルの町を火で焼き、住んでいたカナン人を殺した後、ファラオはこれをソロモンの妻に嫁入り持参品として与えました。
ソロモンは、このエジプト王の娘以外にも、モアブ、アモン、エドム、シドン、ヘテ(ヒッタイト)の女性など、700人の妻と300人の側室を持っていたと記されています。
(アモン人ナアマ、その子が次のユダ王国の王レハブアム) そして、神殿とは別に、偶像の「高き所」を作り、偶像崇拝をするようになり、主の裁きによって、ソロモンの死後、南のユダと 北のイスラエルとに分裂することになったのです。 レハブアムの代に(BC925)、エジプトのシシャクによって神殿は破壊され略奪され、ユダ王国はエジプトの属国になりました。
ソロモンの時代には、エルサレム神殿(第1神殿)の建設に際して、ツロ(ティルス)のヒラム王(在位前969-936年頃)との交易がありました。(T列王記5:1−6、 Uサムエル5:11) これに前後して、ヒエログリフよりも単純で、習得が容易なフェニキア文字(古ヘブライ文字)が普及していったようです。 ゲゼルカレンダーは、石灰石に彫られた文字の書体はやや乱雑、稚拙で、一説には
子供が父親に対して書いた、あるいは 文字の練習用とされています。(最後に「アヴィー(わが父)」と彫っている。)
(2) ゲゼルカレンダーの解読と その意義:
これは農事暦であるので、当時のあらゆる作物の、作付けや刈り入れの時期を見ることができます。 そして、これは、レビ記などと共に、「初めの雨」はすでに2000年前に起こったことですが、「後の雨」、小麦、大麦、オリーブ、ブドウなどが象徴する、終末の異邦とイスラエルのリバイバルと、主の再臨の時期の預言的内容を、裏付けていると、みなすことができます。
神様は、このように、我々にこれからの出来事の備えをするように、特にこのゲゼルカレンダーの発見を通して 語っておられます。
内容は、 ・ ユダヤ暦(宗教暦)の6、7月: 収集の2ヶ月(オリーブ)、 ・ 8、9月: 種播きの2ヶ月(初めの雨、 大麦・小麦)、 ・ 10、11月: 2番播き(遅播き)の2ヶ月(雨季、 えんどう豆・野菜)、 ・ 12月: 亜麻を引き抜く1ヶ月(亜麻繊維=リネン)、 ・ 1月: 大麦刈りの1ヶ月、 ・ 2月: 小麦を中心とする収穫の1ヶ月、 ・ 3、4月: ぶどうの手入れと収穫の2ヶ月、 ・ 5月: 夏の果物(**)の1ヶ月(いちじく、ざくろ等)。
これは、レビ記にある 例祭(レビ23:24−37、 23:5−)と重ねることができます。 ・・・ ・イスラエルのリバイバル(オリーブの収穫)の後、 ・ラッパ(ラッパの日 7/1、ロシュ・ハシャナ(政治暦の新年、年頭)) ・主の再臨(贖いの日 7/10、ヨム・キプール(YWM H KPRYM、the day of atonements、贖罪の日)) ・千年王国(仮庵、H SKWT、tabernacle 、スコット 7/15−21)。

** 主ご自身が 預言者に対し、語呂合わせをして語っておられる箇所:

3. テル・ダン石碑:
1993〜1994年、イスラエル北端部の テル・ダンの発掘(「テル」は遺跡、丘 の意)に伴い発見された石碑の一部で、石の断片をつなぎ合わせて解読可能となった。
内容は、フェニキア文字で書かれた戦勝記念碑で、アラムの王ハザエルによって BC9世紀に彫られたものとされています。 この石碑は、「ダビデ王」の名前が聖書以外で初めて現れる文献で、一時期、この石碑の真偽のほどが議論されましたが、現在では本物と認められ、エルサレムのイスラエル博物館に展示されています。
石碑は、断片Aと 断片B1、B2 をつなぎ合わせた構造で、これでも全体の一部です。
預言者エリヤが主の祭壇を立て直し、バアルの預言者たちを殺し、(3年の干ばつの後で)大雨を降らせ、イゼベルの所から逃げ、ユダのベエルシェバから歩いてホレブの山に来た時、主が現れ、ダマスコのハザエルに油注いでアラムの王とし、また エフーに油注いでイスラエルの王とするよう命じられました。 また、エリヤの後を継ぐ預言者として エリシャにも油を注ぐように言われました。 (T列王記19:15−18)
実際は、エリヤの後を継いだ預言者エリシャがハザエルに会いに行きました。 そしてハザエルがアラムの王になり、彼がイスラエルを大迫害することを預言しました。(U列王記8:7−15)
ハザエルはイスラエルと戦い始め、その後、油注がれたエフーが バアル崇拝のイゼベルらを滅ぼし、またサマリヤにいたアハブの子70人を切り殺し、根絶やしにしました。(U列王記10:1−17)
ハザエルはイスラエルの全領土を打ち破り(U列王記10:32)、さらにユダのエルサレムに進軍しました。(12:17) ユダの王ヨアシュは、彼の前の王たちが捧げた物、および、主の宮と王宮の金をハザエルに送ったので、彼はエルサレムから引き返して行きました。(12:18)
ハザエルとその息子の王によって、その後もイスラエルは虐げられ続けましたが、主はイスラエルをあわれみ、預言者ヨナの言葉によって イスラエルは回復しました。(U列王記14:25)
その間ずっと、アハブ、イゼベルのバアル崇拝をやめさせたエフー王も含めて、一貫して、ネバテの子ヤロブアムの罪(ベテルとダンにあった高き所で、金の子牛に仕えること)、を王たちはやめませんでした。
バアルは異教の偶像、しかし、金の子牛は 出エジプトの時、イスラエル人が作った偶像で、イスラエルを統治する政治的手段として役に立つものだったからです。
この罪が 主の御怒りを引き起こして、イスラエル、ユダにも災いがもたらされた原因だったのです。 ハザエル自身は異邦人だったので、偶像のハダド神を拝んでいましたが、預言者エリシャに語られた主の言葉は信じていました。
特に この石碑が見つかったこと自体が神のメッセージであり、現在に生きるクリスチャンたちへの警告でもあります。

(訳文)
1. [ ]...[ ]そして切り[ ]
2. [ ]私の父は行き、[ ]そして[...]に対して戦った
3. そして私の父は死の床に伏した。父はそのまた[父ら]に会いにいった。今、イ[ス]/ラエル王の支配は侵入した。
4. 私の父の支配していた土地の中に。[しかしその後]Hadad神が私を王にしたのだ。
5'. そしてHadad神が私の前を進み、ゆくべき道を教えてくださる。So
I went forth from [the] seven[...]/s
6'. of my rule,そして私は[7]0もの王たちを殺した。その王たちは数[千もの馬]/車
7. と数千もの騎兵を操っていた。 [そして私は殺した...]雄羊の子供[...]
8. イスラエルの王、そしてまた私は殺した[...]ヤフーの子供[...
王]/様
9. 王はダビデの家柄である。そして私は[彼らの街を崩壊し変わり果てた]姿にしてしまった。
10. 彼らの土地を[荒廃させ ...]
11'. others And[...そして...王になった]
12. 全イス[ラエル...そして私は横たわった]
13'. siege against [...]
4. メシャ碑文:
メシャ碑文は、1868年に ヨルダンの死海東方、首都アンマンから南に約70kmのディバン(古代都市、現在も、デボン紀のデボン)で ドイツの宣教師F.A.クラインによって発見されました。
内容は、モアブの王メシャ(BC9世紀)がイスラエルからの独立を記録したもので、黒い玄武岩に彫られています。発見当時、高さ115センチ、幅約60センチの黒色玄武岩で、ほぼ完全な姿でしたが、砕かれてしまいました。しかし破壊される前に、ぬれた紙で圧写され拓本が作られていたために、完全に復元されました。
言語はフェニキア文字で書かれ、ヘブライ語とほとんど同じモアブ語で書かれています。 現在はフランスのルーブル博物館に復元されたメシャ碑文と拓本とが展示されています。
34行からなるこの碑文は、フェニキア文字で書かれた、古代イスラエルに関する碑文としては最大のものです。
BC850年頃、モアブ人のメシャ王がイスラエルに対し反乱を起こして勝利し、独立を勝ち取ったことの記念碑で、元君主であった
北イスラエルの王アハブの死後に作製されました。
モアブ人は、アモン人と共に ロトの(娘たちとの近親姦の)子孫です。
(碑文の内容の概略)
”私はメシャ、ケモシュの子、ディボンのモアブの王である。 モアブがイスラエルの王
オムリに征服されたのは、偶像の神 ケモシュの怒りのゆえである。 オムリの息子((名前の言及はないが)= アハブ王)に対し、メシャの勝利であった。 さらに、ガド族のアタロト、ネボ、ヤハツの人々を征服。 要衝の地にある要塞の修復、宮殿と貯水池の造営などの
公共事業を行なった。 ホロナイムに対しても戦争を行なった。”
● 聖書による同時期の記述:
「ユダの王アサの第三十一年に、オムリはイスラエルの王となり、十二年間王であった。 六年間はティルツァで王であった。 彼は銀二タラントでシェメルからサマリヤの山を買い、彼が立てたこの町の名を、・・・サマリヤと名付けた。」 (T列王記16:23、24) ・・・・ サマリヤは北イスラエルの首都
「モアブの王メシャは羊を飼っており、子羊十万頭と、雄羊十万頭分の羊毛とを イスラエルの王に 貢物として納めていた。 しかし、アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルに王に背いた。」 (U列王記3:4、5) ・・・ 聖書の記述は、メシャ碑文と、イスラエルの王が1代ずれており、聖書ではモアブを征服したのはオムリの子アハブであり、反乱はアハブの子ヨラムに対するものです。
「そこで、彼は自分に代わって王となる息子をとり、その子を城壁の上で
全焼のいけにえとしてささげた。 このためイスラエル人に対する大きな怒りが起こった。
それで イスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。」 (U列王記3:22)
・・・・・ これは難解な箇所です。 アブラハムがイサクを主に捧げようとしたのと同じように、メシャ王は よりによって自分の跡取の息子を(偶像のケモシュに?)捧げました。 しかし、主は、これを良しとされ、圧倒的に優勢だったイスラエル、ユダ、エドムの連合軍を、ただちに追い返されました。
これは、御子イエス様の十字架の効力が、いかに強いものであるかの 主の示しです。 旧約の信者と、新約の信者との決定的な違いでもあります。(マタイ11:11)

* 偶像神ケモシュの名前は、絶ち滅ぼすべき反逆民、日本書紀の熊襲(クマソ)として用いられ、名前だけでなく、物語もほぼ同じ伝承が伝えられています。(∴ 系図も含めて、日本神話は、おそらく日本に来たユダヤ人たちによって創作されたもの)
・ 「ケモシュ(Kemoshi)」(民21:29、モアブ人の守護神) ・・・ イスラエル人エフデは策略によって短剣を上着に隠し持ち、ケモシュの宮に入り込み王を剣で刺し殺した。(士師記3:16−30)
・ ヤマトタケルノミコトも策略によって短剣を上着に隠し持ち、クマソの王を刺し殺した。(日本書紀)
因みに、蝦夷(えみし)は エブス人、 土蜘蛛(つちぐも)は 「エドム人=穴に等しい者(トシュウェイ・グーマー)」から来ています。
* (鉄器時代の既知の碑文4つのうちの1つ、クルフのモノリスについては、情報が無いので割愛させていただきました。)