神の考古学的遺物・遺跡のまとめ
2026年3月5日
1. 死海写本: ・・・・ 死海写本の発見の経緯と、調査・検証結果、マサダの遺跡、ペラの遺跡
2. ノアの箱舟: ・・・・ ノアの洪水の証拠と伝承、発見の経緯、ノアの箱舟スキャン・プロジェクト
3. オーパーツの再発見: ・・・・ 年代決定法の検証、激変期の地層形成、生き残っているオーパーツ
4. ソドムとゴモラの遺跡: ・・・・ ソドムとゴモラの位置、灰と硫黄の分析、トール・エル・ハマムの遺跡
5. 古代イスラエルに関する石碑・遺物: ・・・イスラエル石碑、ゲゼルカレンダー、テル・ダン石碑、メシャ碑文
6. 景教に関する石碑・遺物: ・・・・ 景教碑、多胡碑、世尊布施論、三種の神器
1. 死海写本:
死海写本(死海文書)の、特に、巻物のほぼ全体が保たれている、「イザヤ書の巻物、The Great Isaiah Scroll」の発見は、考古学における「20世紀最大の発見」といわれています。 それは、ユダヤ人の旧約聖書のマソラ本文(ほんもん)の内容が、2000年経た現在も ほとんど全く変わっていなかったことが 証されたことによります。 AD70年に散らされたユダヤ人たちは、1900年間も放浪の民(ディアスポラ)となって、各地で迫害され、生活が安定していなかったにもかかわらず、まさしく主の選びの民、「みことばを託された民」として、(たとえ不信仰であったとしても、)主に用いられたことになります。 このように、主のみ言葉は、変わることがありません。
そして、炭素14法によって測定された死海文書の成立年代は、BC200−BC100年をセンターに持つという結果であり、御子イエス様が来られた時(初臨)の様子を 前もって預言者によって予告されたことが、ここに 証明されたのです。 これこそが、主が、この世紀の大発見を通して全世界の人々にあかしされる、神のメッセージの中心です。
「人はみな草のようで、その栄華はみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。 しかし、主の言葉は、とこしえに変わることがない。」 (Tペテロ1:24、25、 イザヤ40:6−8)
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は 「不思議な助言者、力ある神、永遠のわが父、平和の君」と呼ばれる。」 (イザヤ9:6、 マソラ本文では 9:5)
「エッサイ(=ダビデの父)の幹から 枝が生え出て、 深く張った根から 実を結ぶ 新芽が出る。」 (イザヤ11:1)
「しかし、彼は、私たちのために 神を冒涜する 罪に定められ、砕かれ 実に苦難を受けられた。 彼への懲らしめが 私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって 私たちはいやされた。」 (イザヤ53:5)
「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。 もし彼が、自分のいのちを 罪過のための いけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは 彼によって成し遂げられる。 彼は、自分のいのちの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人々を義とし、彼らの咎(とが)を彼がになう。」 (イザヤ53:10、11)

(1) 死海写本の発見の経緯と 公開:
1947年に、遊牧民のある羊飼い(ベドウィンのターミレ族の羊飼い)の少年(ムハンマド・エッ・ディーブ)が、逃げ出した小山羊を追いかけているうちに、ヒルベト・クムランと呼ばれる遺跡近くの洞窟(=第1洞窟)に入り、そこで古代の巻物が入った壺を発見しました。 (発見場所は 死海北西部の崖で、1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川西岸地区に属している。)
ベドウィンたちは、最初に見つけた 古代ヘブル語で書かれた4つの巻物(「イザヤ書」(1QIsa、『イザヤ書』のほぼ完全な写本、長さが734cmもある)、「ハバクク書註解」、「共同体の規則」、「外典創世記」)を シリア正教徒の骨董商、そして修道院院長の所に持っていき、院長のマー・サムエルはそれを(現在の価値で)100ドルで買い取りました。 ベドウィンたちが続けて見つけた3つの巻物は、ヘブライ大学の考古学教授スケーニクが買い取りました。
これらの写本群は、クムランの遺跡近くの死海西岸の洞窟群に、約2000年前の「クムラン教団」が、AD70年のローマ軍によるエルサレム陥落の後に、ローマ軍の侵攻を避けて
修業の場は焼き払い、経典類はこれらの崖の洞窟に隠したものと推測されています。 このクムラン教団エッセネ派とは、イエス様の時代のユダヤ教の一派で、最も厳格な戒律を守っていた教団です。
洞窟の中の陶製の壺に納められていた羊皮紙の古文書は、油に浸した亜麻布か、瀝青を塗った亜麻布が巻き付けられ、大気と湿気から守られていました。
1948年には、トレヴァーは、サムエルの持っていた写本(イザヤ書等)を 写真撮影しましたが、この写真のほうが読みやすく、大気にさらされた原本はインクの変質によって見にくくなりました。
1948年5月には 第一次中東戦争が始まり、サムエルは写本の安全のために レバノンのベイルート、さらには アメリカ合衆国に移しました。 しかし、広告を出しても博物館等への打診はうまくいかず、結局、イスラエル政府の要望で
マザール教授とスケーニクの息子イガエル・ヤディンが (現在の価値で)200万ドル以上で匿名購入しました。
その後の発掘も続けられ、特に 第4洞窟からは 膨大な量の断片が発見され、それらをつなぎ合わせて600巻の巻物が復元されました。 洞窟からの写本の発見は、1956年の第11洞窟からのものが最後となりました。 写本は
エステル記以外のすべての旧約聖書を含んでいます。
また、20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベルの洞窟からも文書断片が見つかっています。
それから65年経った 2021年にも、通称「恐怖の洞窟」から新たな断片が発見され、研究が現在も進行中です。
2020年には、羊皮紙(ウシやヒツジの皮)の DNA鑑定が行なわれ、書かれた写本は、発見地の砂漠にいない動物のものだったことが知られました。(広く流通していたということ)
ヘブライ大学のエマニエル・トーヴ教授が 新しい委員長に任命され、この委員会のメンバー60名と、世界中から招へいされた学者たちによって、死海文書の公刊は急速に進展することになりました。 ”公刊されるまで委員会以外に文書の内容を示さない”というルールによって、公刊までには時間がかかりました。
1991年9月4日には、オハイオ州のヒブル・ユニオン大学に保管されていた 部分的な死海文書の写真(アメリカで保管されていたもの)が 予備版として出版されました。 それをきっかけに、9月22日には、カリフォルニア州の博物館にあった死海文書の写真版の公開が決定され、25日には この写真の自由な利用を認める旨を発表しました。 最初の発見から44年を経て、初めて死海文書の全容が
世界に示されました。
1995年から2000年までの間に、第8巻〜第38巻が一挙に刊行され、第39巻(2002年)、第40巻(2009年)の出版によって、全作業が終了しました。
日本においても、2001年に 東京オペラシティーで開催された「東京大聖書展」にて、また「神戸聖書展」でも公開され、2万人以上が訪れました。
イスラエルは、1967年の第三次中東戦争の後で考古学博物館にあった死海文書を回収し、現在は、国立の「イスラエル博物館」(エルサレム)内に新設された「聖書館(Shrine of the Book)」に所蔵、展示されています。

(2) 調査・検証結果:
死海写本の発見のときの当時知られていた最古のヘブライ語聖書の写本、レニングラード写本よりも、1000年近くも前に書かれたものであることが、いろいろな検証によって証明されました。 年代測定には、炭素14法が主に用いられました。 他に、さらに精密な炭素14法である質量分析法、また アラム系ヘブライ文字の書体の分析等。
初期の測定(1950年代)では、The Great Isaiah Scroll、1QIsaに巻かれていた亜麻の布で、およそ紀元後33年±200年と測定され、少なくとも 写本は中世のものでないことが示されました。The Great Isaiah Scrollは発見された7つの聖書の巻物の中で、最大(734cm)かつ、最も保存状態が良く、ほぼ完全な状態で残っている唯一のものです。
1980年代以降は、AMS法(加速器質量分析)の導入によって、必要な試料が少量(mg単位)で済むようになり、貴重な死海文書の断片でも詳細な分析が可能になりました。
1990年代(特に、1991年、1996年のC14年代測定)に行われた大規模な測定の結果、大半のクムラン文書は、BC250年〜AD70年であることが確定されました。 書かれたのは、前2世紀のユダ王国ハスモン朝から 紀元後70年以内のユダヤ戦争までの間ということになります。
・・・・ (年代測定の参考文献) 青土社
また、ごく最近になって、AI と炭素14法を組み合わせた2025年の研究では、いくつかの文書が従来の想定よりもさらに50〜150年古く、紀元前3世紀頃まで遡る可能性が示唆されています。
このように、旧約聖書の中で最も多くの箇所で 初臨の主を予告するイザヤ書の巻(The Great Isaiah Scroll)は、イエス様がお生まれになった(BC5−6)前の BC100年頃に 書き写されたものであり、BC5年以前に書かれた確率は97%であることが証明されました。 写本なので、当然、元となる写本が存在していて、預言したのはそれよりはるかに以前ということになります。 写本の方法は、記憶によるのでなく必ず
元の写本を見て書き写す、と厳密に指定され、元の写本は焼却することになっていました。
筆記者が何人居ようと同じです。
大元の筆者である預言者イザヤは、伝承により、BC8世紀にユダ王国で活躍した預言者です。
結論として、イザヤ書に書かれている「メシア預言」は、時間的に、本物の「予告」であることが証明されました。
また これは年代測定以前の問題ですが、イザヤ書の巻(The Great Isaiah Scroll)の内容が、従来 用いられてきた「70人訳聖書(セプチュアギンタ)」とは随所で異なり、この巻に時々余分に入っている H(=the)、W(=and)、E
などの装飾的文字を除けば、ユダヤ教の聖書である 「マソラ本文」と内容的にほとんど完全に一致していることが知られました。 冒頭に述べたとおりに、まさに、ユダヤ人は みことばをゆだねられた民であることが示されたのです。
このため、マソラ本文のほうが信頼され、戦後出版の多くの「旧約聖書」は、マソラ本文(厳密にはBHS)を底本として翻訳されています。
このイザヤ書以外も含めた、断片をつなぎ合わせた聖書テキスト全体では、マソラ本文と一致は 35%に過ぎず、70人訳の系統 5%、サマリヤ五書の系統
5%、全くの独自の系統 残り、となり、当時のユダヤ教には いろいろな聖書や聖書解釈が、かなり自由に入り混じっていたということになります。
イエス・キリストを認めない、まっすぐな信仰でない、ユダ王国滅亡の、直前の状態にふさわしく。
死海文書の内容は大きく分けて3つに分類することができます。 1つ目は、「ヘブライ語聖書(旧約聖書)正典本文」(全体の4割)、 2つ目は、「旧約聖書外典」と「偽典」とよばれる文書群(エノク書、ヨベル書、トビト記、シラ書などでユダヤ教の聖書正典としては受け入れられなかったもの、全体の3割)、 3つ目は、「宗団文書」と呼ばれるもので、クムラン教団の規則や儀式書、『戦いの書』(1QM、1Q33、4Q285、11QSM)と呼ばれる書など(全体の3割) があります。
しかし、だからこそ、唯一イザヤ書の巻(The Great Isaiah Scroll)だけが、長い年月を経ても 炭化・脆化せず、広げられるほどの可撓性(かとうせい)があり、ほぼ完全な形で残されていることは奇跡であり、この聖書巻のメッセージを特に強調される 神様のご介入なしには考えられないのです。
また、発見の方法についても、政府や軍隊や大学、あるいは 制度的教会などによってではなく、イスラム圏のベドウィンの無名の羊飼いの少年によって、 この完全なイザヤ書の巻を含む第一の発見がなされたことは、ただ主の導きによって成されたことがあかしされるためです。
§ イザヤ書の巻(The Great Isaiah Scroll) ・・・・ デジタル版: 死海写本(イザヤ書1−66章)
§ マソラ本文について ・・・・ 英語−ヘブライ語 対訳聖書(JPS 1917 Edition)
マソラ本文(マソラほんぶん、ほんもん、Masoretic Text): ユダヤ教社会に伝承されてきたヘブライ語聖書で、9世紀にマソラ学者(マソラ=伝統の伝達 の意)によりヘブライ語で筆写された ユダヤ教聖書の原本を指す。 母音記号、朗誦記号も記載されている。 筆写は、記憶によらず、必ずその前の写本を見て行なうことが厳格に定められ、それゆえ
テキストの内容は全く変化せず、死海写本のイザヤ書の巻と ほぼ完全に一致している。
§ イザヤ書の巻 から 抜粋:


● マサダの遺跡:
西岸のさらに南のほうに マサダの遺跡がある。 ここは、1838年にドイツ人考古学者によって位置が確認された、周囲は切り立った崖で、難攻不落と言われた要塞である。
AD67年、ローマ軍によるエルサレム包囲が起こるが、軍は謎の撤退をした。 それをユダヤ人兵士たちが追撃して打ち破り、ユダヤ戦争が勃発した。 これに対するローマの報復として、AD70年4月14日、ティトゥスが率いるローマ軍団によって エルサレムが包囲され、8月初旬に 神殿炎上(ユダヤ暦の5月(アブの月)7−10日、奇しくもBC600頃のソロモン神殿滅亡と同じ日、エレ52:12(5月10日)、U列25:8(5月7日))、そして 8月26日エルサレム全体が陥落した。エルサレム市をローマ軍が完全に制圧したのは9月8日。 この時、110万人死、9万7千人捕虜で、兵糧攻めのため餓死者が多かった。)
このエルサレム陥落のとき、「熱心党」員を中心とするユダヤ人967人が包囲を逃れ、マサダの要塞に立てこもった。
1万5千のローマ軍団が包囲したが、マサダの峻厳な地形のため攻めあぐねていた。 ローマ軍は、ユダヤ人捕虜と奴隷を使って 山の西側を埋め立て始め、二年がかりで山腹は埋められ陥落は目前となった。 このとき、指導者たちは協議し、奴隷になるよりは死をと、集団自決が決定された。
AD75年5月2日、ローマ軍の部隊は完成した侵入路を通って城内に突入したが、突入前夜に集団自決が決行され、防戦する者は一人もいなかった。

● ペラの遺跡:
「ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や 安息日にならないよう祈りなさい。」 (マタイ24:20)
* エウゼビオス著 『教会史』(V-5−3) によるとAD66年、また、ヨセフォスの『ユダヤ戦記、
U540、(xix(=19), 7)』によれば AD67年の秋、シリア属州の総督の ケスティウス・ガルスは包囲していたエルサレムから不可解な撤退を行いました。 ユダヤ人兵士たちは追撃を始め、城内は手薄となり、そのとき熱心党によって市外に出ることを禁じられていた聖徒たちは脱出することができ、ヨルダン川の東の ペレア地方のペラという町に住みついた。(ペレア(or ペラ)は、アレキサンドロスによって建てられたギリシャの植民地のデカポリス(10の町)のうちの一つで、当時
シリア総督の支配下。デカポリスは、他に、ガラダ、ダマスコ、ゲラサ、フィラデルフィア(現アンマン)、・・・)
残念なことに、脱出したときは「冬」の季節だった。(イスラエルは夏と冬しかない。) また、最新のカシオの計算サイト(https://keisan.casio.jp/exec/system/1343263576)によるユダヤ暦vs西暦(=グレゴリオ暦)により、AD67年の11月25日は、キスレウの2日・金曜日となる。金曜日の日没から安息日であり、日没にエルサレムの城門は閉ざされるので、人々は金曜日の昼間のうちに脱出したことになる。 (キスレウの最終日29日ととれば、AD67年の12月22日・木曜日となる) いずれにしても、非安息日。
ペラに脱出したユダヤのキリスト者たちは、異邦人クリスチャンたちと混じって細々と生活し、エビオン派(”貧民”の意味、禁欲的、イエスの神性を否定する異端)と呼ばれる宗派を作り(2世紀最盛期)、それも4−5世紀には消滅した。 ・・・・ 脱出後の予後は ロトの子孫のようになった?

● 第2イザヤ、第3イザヤという著者について:
イザヤは紀元前8世紀の預言者でした。しかし、イザヤ書44:28、45:1、45:13で、著者は「クロス(キュロス)」をイザヤの民を救う者として名前を挙げています。すなわち、6世紀にイスラエルを捕囚にしたバビロニアを
征服した、メド・ペルシャのキュロス大王のことです。 このことにより、聖書学者の多くは、バビロン捕囚時代に別の 無名の預言者がいて、40章から55章までを記述し、それ以降もまた3番目の預言者が著した、と考えています。 一方、200年前から クロス王の名前も含めて予知していたことも考えられます。
しかし、預言者がイザヤ一人であろうと 複数であろうと、それは大きな問題ではありません。 イエス様の当時知られていた書の一つの「預言者イザヤの書が手渡された」(ルカ4:17) (ここでの引用は、イザヤ61:1)、 「彼が読んでいた聖書の聖句はこれだった。」(使徒8:32)(この引用はイザヤ53:7、8)など、とあるように、イザヤという預言者が一人か、複数いたか、ということよりも、「イザヤ書」という預言書が最も重要な「神のメッセージ」の一つである、ということです。
cf. 「それゆえ、預言者ダニエルによって語られた、おぞましい憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見た時には(読者よ、悟りなさい)、そのとき、ユダヤにいる人々は山々の地へ逃げなさい。」(マタイ24:15、16) では、ダニエルという個人名を出して語られています。