6. 景教に関する遺跡・遺物:
「初めの雨」リバイバル、すなわち、イエス様の十字架、復活、昇天の後に 聖霊様が下られ、ペテロ、パウロらによって福音が宣べ伝えられた時のリバイバルの、東のはずれの終焉の地、古代日本に伝わったキリスト教と ユダヤ教に関する 重要な遺物について、まとめてみたいと思います。
1. 景教碑:
5世紀後半からネストリウス派(異端ではない)の弟子たちは、「アッシリア東方教会」と呼ばれ、ササン朝ペルシャ(226−651)のメソポタミア(今のイラク)で布教し、498年 首都のクテシフォンに 総主教が立てられました。 ウマイヤ朝(661−750)の時代になると、イスラム教が入ってきて彼らは低い扱いを受けるようになり、中央アジア、モンゴル、インド、唐などへ出て行って、各地で宣教しました。インドでは、旧来からの「トマス派(使徒トマスが宣教)」と合流し、また、モンゴルでは、後のチンギス・ハンの盟友のケレイト部族等が福音を受け入れました。
ネストリウス派が中国に入った後の呼び名を「景教(けいきょう、”光の信仰”の意)」と呼びます。 初期〜中期の唐の歴代皇帝は北方系(モンゴル系(鮮卑系)の李氏)で、外国の宗教にも寛容だったので、三夷教(景教、ゾロアスター教、マニ教)が仏教とともに認められました。 「景教碑」(大秦景教流行中国碑、781年建立、黒色石灰石)に彫られてある記述によると、
”唐の長安の太宗(598−649)が、 635年 アッシリア東方教会から遣わされた 阿羅本(アラボン)に、宰相を使いにやって出迎えるほどの歓待をし、638年 阿羅本が願い出た 唐国内における布教の許可を与え、資金援助までした。
次の 高宗(628−683)の代になると、唐の各地に景寺を建てるよう詔勅が出された。 景教の教会は、
初期には 波斯(はしん、ペルシャ)寺と呼ばれ、後に 大秦(東ローマ)寺と呼ばれた。”
とあります。

景教は さらに、朝鮮半島や、遣唐使を通して日本にも伝わり、仏教や文化にもある程度の影響を与えました。また、遣唐使によらないで非公式に、秦氏、羊氏などの渡来人を通して日本に入り、いわゆる INRI リバイバルという大きな社会現象も起こりました。 (* これは藤原氏によって仏教に塗り替えられ、証拠がほとんど消されています。)
(→ INRI リバイバル)
しかし、唐末期には、外来宗教に理解を示さない皇帝(道教を信仰する武宗)になり、仏教の僧らが税金を納めないことを理由に、”会昌の廃仏”(845)を行ない、このとき大秦寺も破壊され、景教碑は地中に埋められました。
そして長い年月の後に、この景教碑は、明の時代の1623年(or25年)、長安の崇聖寺(すうせいじ)の寺院跡の境内の地中から発見されました。 高さ約270cm、上部に十字架があり、漢字約1900字とシリア文字で彫られ、唐の時代に いかにキリスト教が普及したか、宇宙の創造、メシアの出現、また基本教理である「神の三位一体」についても記述しています。
現在、西安碑林博物館(西安碑林)に所蔵されています。
碑文の文字(原文) 日本景教研究会(解釈)
(↓ 白い傍線): 『我三一分身 景尊彌施訶
隠眞威同人出代』
・・・ 「私たちの三一(三位一体神)の分身(=御子、あるいは 応身)、景教の尊い彌施訶(メシア)は真の姿を隠し、人として世に出られた。」、
『神天宣慶 室女誕聖於大秦 景宿告祥 波斯覩耀以來貢 圓二十四聖有説之舊法 理家國於大猷』
・・・ 「神天(天使)は慶びを宣言し、室女(処女)は聖なるメシアを大秦(ユダヤ)で誕生させた。イエスの宿(星)は幸いを告げ、波斯(ペルシャ)からはその輝きを見て貢(贈り物)を持って来た。24の旧法(旧約聖書)を成就し、家や国を御手に治められた。」
(↓ 黄色い傍線): 景教碑文の冒頭部分
『粤若 常然眞寂 先先而無元
然靈虚 後後而妙有 總玄
而造化 妙衆聖以元尊者 其唯 我三一妙身 無元眞主阿羅訶歟判』
・・・ 「万物の何一つ無き先に存在し、初め無く、終わり無き方、とこしえまでも存在する
元尊(神)、 この方は 真理をもって造化(創造、create)し、多くの預言者たちを遣わされた。 この方こそ、我らの三位一体神の 妙身(=御父)、 初め無き まことの主、阿羅訶(アロハ(シリア語)、saint、聖なる方、神)である。」 注) 三位一体の聖霊は「三一淨風」、あるいは 証身

● 高野山(遣唐使に行った空海が起こした仏教の一派)には、1907年(明治40)年、イギリスの宗教研究家、エリザベス・A・ゴルドン夫人が再び来日した際、自費で建立した 景教碑のレプリカ(同じ大きさ)があります。 その隣には彼女の墓があります。(高野山のレプリカ)
エリザベス・A・ゴルドン夫人は、1851年英国の名門に生まれ、多年ビクトリア女王に女官として仕えた人です。キリスト教と仏教の基本的な同一性を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期には日本を訪れました。第一次世界大戦中の長男戦死の悲報で、夫人は急ぎ帰国するに際して、それまで日本で収集した研究資料、図書約1500冊、仏画・器物約500点を早稲田大学に寄贈し、大学はこれを「ゴルドン文庫」として保管しています。 体調が良くない中、再度来日した際の、1925(大正14)年6月27日、持病の腎臓病が悪化し、京都ホテルの一室で生涯を閉じました。(74才)
● 最近では、2025年、群馬県の永井記念館で、古文書等の整理を行なってる最中に、美麗な、大秦景教中国流行碑の拓本が発見されました。 永井家は、江戸時代は碓氷峠に近い坂本宿の脇本陣を務めてきました。明治からは、商店を開設、さらには林業、養蚕なども行ない、戸長・町長なども務め坂本の発展のために寄与し、基督教講義所を開設し、キリスト教日曜学校なども大正の末期ころまで行なっていたそうです。
2. 多胡碑:
高崎市吉井町にある、711年作成、1832年発掘の石碑で、日本三大古碑の一つです。 多胡碑(たごひ)の内容は、時の藤原政権が、上野国多胡の地の支配者に 渡来人の羊氏を任命したときの記念碑です。 あの悪名高い藤原不比等(それまでのあらゆる文献・言伝えなどを仏教に大改ざん)が任命者の一人に入っています。
『弁官符上野國片?郡緑野郡甘 良郡并三郡内三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品穂積親王左太臣正二 位石上尊右太臣正二位藤原尊』
(現代語訳) 弁官局(諸国を管轄する事務局)からの命令。 上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊(人名・渡来人) に支配を任せる。 郡の名前は多胡郡(胡人(中国北方の民族))とせよ。 これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。 左中弁・正五位下 多治比真人。 知太政官事・二品 穂積親王、 左大臣・正二位 石上麻呂、 右大臣・正二位 藤原不比等。

武蔵国・上野(こうずけ)の多胡郡の『多胡』とは、胡人(=渡来人)が多い という意味であり、すでにこの当時から 中国北部方面からの渡来人が多く住んでいました。(現在 この群馬県と 滋賀県(琵琶湖の京都寄り)に”多胡”姓が多い。) さきたま古墳群(埼玉県・行田市)等にあるように、関東王国(日本国、AD500年代)にすでに北斉や高句麗と交流があったことから、このことが説明できます。 (多胡碑の字体は 北魏(386 - 534、五胡十六国を終わらせ華北を統一、鮮卑系(北の騎馬民族))のものといわれる)
しかし、多胡碑の台座の下から十字架が、羊太夫の墓(多胡碑があった場所とは別)の石室から JNRIの銅板(古銅券、)が出たという江戸時代後期の伝承(甲子夜話 ↓)から、羊氏は景教のキリスト教信者だったと考えられます。 羊太夫を祭る”羊神社”に火を神聖視した伝承があるが、ゾロアスター教はほぼペルシャに限定され
人種が違うので、景教に関する「聖霊」の著しい働きの一つであると考えられます。( ・・・ 「聖霊の火」、「聖光(シャカイナ・グローリー)」、「地の塩、世の光」) そして、このことは 文徳天皇実録(↓)の「奈良神」と同一とみなすことができます。(いわゆる INRI リバイバル)
天武天皇の時代(40代、672−686年)に活躍した、この羊太夫は、多胡郡の指導者に任命され、自然銅(ニギアカガネ)(秩父市・黒谷にある和銅遺跡)を用いて
「和同開珎」(和銅元年8月10日、708年8月29日、5月に銀銭・8月に銅銭)の鋳造を行い、また 人々に養蚕を伝えました。 当時の皇族の皇子が数十戸賜る程度なのに対し、羊氏が臣下程度の身分であるにもかかわらず300戸与えられたのは、かなり大きな郡を任せられたことになります。 しかし後に、朝廷のいる大和に出向かなくなった理由で謀反の嫌疑がかけられ、同じ藤原政権によって滅ぼされました。

(資料)
● 六国史の第5の 日本文徳(もんとく)天皇実録・巻一嘉祥(かしょう)三年(850年)5月19日より、
『以武藏國奈良神列於官社。先是。彼國奏請。検古記。慶雲二年、此神放光如火熾。然其後。陸奧夷虜反亂。國發控弦。赴救陸奧。軍士載此神靈。奉以撃之。所向
無前。老弱在行。免於死傷。和銅四年神社之中。忽有湧泉。自然奔出。漑田六百餘町。民有疫癘。祷而癒。人命所繋不可不崇。從之。』
(読み方) 武蔵国の奈良神(ならのかみ)を以て官社(かんしゃ)に列す。是(こ)の先、彼(か)の国奏(もう)して請(ねが)えり、 「古記を検するに、慶雲(きょううん)二年(文武(むんむ)天皇・705年)此(こ)の神
光を放つこと火熾(かし)の如し。然(しか)して其の後、陸奥の夷虜(えみし)反乱せり。国
控弦(こうげん)を発し、陸奥に赴(おもむ)き救う。軍士此の神の霊(みたま)を載(たい)し、奉じて以(もち)て之を撃つ。向かう所に前無く、老若行に在りて、死傷を免れる。 和銅四年(元明天皇・711年)神社の中に、忽(たちま)ち湧泉有りて、自然に奔出し、田
六百余町を漑(うるお)す。 民に疫癘(えきれい)有れば、祷(いの)りて癒(い)ゆ。人命を繋ぐ所 崇(あが)めざるべからず」 と。 之に従う。
(解釈) 武蔵国奈良神(ならのかみ)の古い記録 @ 慶雲2年(705) この神から火のごとく光を放つ、 A その後 陸奥国の蝦夷の反乱に際し 国は弓軍を遣わし、兵士らがこの神の霊を受け、この神に礼拝して 蝦夷を討ち平定。向かうところ敵無く、死傷者すらいなかった、 B 和銅4年(711) 神社の中に湧水、600町(1町=約110m四方)以上の田を潤す、 C 民に疫病が流行したが、祈祷によって皆 癒された。 人命を繁栄させる所であり、崇められるべき神である。
「私の宣教は、御霊と 御力の現れでした。」 (Tコリント2:4) ・・・・ 聖霊の力こそ、他の宗教に無い特徴
● 『甲子夜話(かっしやわ)5』六十三巻(21)・・・by.長崎の平戸の大名、松浦静山 ・・・ 〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある羊〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。 後其墓中より〔墓中とは碑下(=多胡碑の下)を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕 十字架を出だす。 是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」 是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと 〔この意は、此物は天主教の所用。 吾邦制禁のものなる故なり〕。 ・・・・
・ 続編6の七十三巻(17) ・・・ JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石櫃を堀出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書「コルネーキ」を閲するに、耶蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮文通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。 今天保三年を距ること千百廿二年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずるとことならん。尚識者の考を俟つ。
(解釈) 群馬県の多胡碑の傍に石槨が発掘され、そこにJNRIの4文字が刻まれた古銅券が見つかった。これをオランダの書物(コルネーキは辞書と思われます)で調べた者の話によると、磔刑(たっけい)にされたキリストの頭上に名札の様に付けられた銅の板に書かれている文字で、意味は「ナザレのイエス
ユダヤの王」の頭文字4文字を取ったものであることがわかった。この年、和銅四年(711年)は元明天皇の御代で、中国では睿宗の景雲二年である。今は天保三年(1832年)だから、1122年目にあたる。それは一体どういうもの?
・ INRI あるいは JNRI とは、十字架の上に掲げられた罪状書きの文: Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum 「ユダヤの王、ナザレのイエス」 の意味。 cf. 後のキリシタン時代のローマカトリックは、 IHS(人類の救世主イエス)、IHC(人類の救世主キリスト)などを使用で異なる。
・ 漢字が使われる以前から「イナリ」であったとされ、イナリには、INARIが転化したという説は、千葉大学准教授で景教の研究家であるケン・ジョセフ氏などが提唱。(シニア・ジョセフ・ケン: 京都インターナショナル・ユニバーシティ客員教授。来日以来50年。 ジュニア・ジョセフ・ケン: 助世夫健。1957年、ケン・ジョセフ・シニアの息子として東京に生まれる。米国カリフォルニア州バイオラ大学卒業。日本の古代史研究家、秦氏研究家、景教研究科、キリシタン研究家として活躍。千葉大学准教授。)
● 関東への渡来人入植の歴史:
・ AD500年代 関東王国(日本国・by.旧唐書)、北斉と高句麗と交流、利根川流域の王国。 武蔵国造の乱の時代、安閑天皇(27代、古墳時代後期・534年?・天皇陵からペルシャ製カットグラス碗) ・・・ この時点ではまだキリスト教は来ていない(盗掘されていない墳墓からそれらしきものは出ていない)
・ 7世紀のアジアは唐と新羅の2大勢力になり、統一新羅(676−935)に変わる頃、大和王権が多くの 百済、高句麗からの渡来人を帰化させ、関東の未開の地に入植させた。(663、668)
・ 666年 百済の男女2000人日本に帰化
・ 705年− 武蔵国に『奈良神』リバイバル
・ 711年 羊氏が 片岡(高崎市あたり)、緑野(みどの、高崎、藤岡)、甘良(かんら、今の甘楽(かんら)郡、 韓からの渡来人が多く住んだ)の 多胡郡の地を任された。(多胡碑)
・ 716年 駿河国などにいた渡来人1799人が、高麗(こま)郡(川越、入間、鶴ヶ島あたり)に移動させられた。 ・・・ この時は 武蔵国は、キリスト信仰だったと思われる。
(ここでキリスト教迫害、地域の仏教化に転じる)
・ 元正天皇(44代、美貌の女帝、半分蘇我氏が入った43代元明女帝の娘、680−748)の頃、藤原氏により、謀反の疑いをかけられた 羊氏の討伐のため、中国(広島)と南海道(紀伊、四国)から10万(?)の騎兵が派遣され、東山道を経て 碓氷峠から上野・武蔵国に下ってきた。
・ 758年 (仏教を信奉する地)新羅からの仏教の僧尼らが 新羅(しらぎ)郡(今の和光、志木、新座あたり)に入植させられ、平安時代(794−)から 新座(にいくら)郡となった。 民衆支配のため、武蔵国を強制的に仏教に塗り替えようとする移入政策が行われた。
3. 世尊布施論 第三:
世尊布施論は元々、641年に書かれて敦煌に置かれていた景教の文献、「一神論」であり(これは宋代に敦煌で発見され、1918年に公表された。)、「一天論 第一」132行、「喩(たとえ) 第二」39行、「世尊布施論 第三」197行の小三篇から成ります。 この「世尊布施論 第三」が 遣唐使の時代に写経され、日本国内で代々書き写され、現在は、西本願寺所蔵の写本となっています。
この写本の驚くべきところは、ほとんど新約聖書の山上の垂訓の箇所であることです。(マタイの福音書・6章) (もっと大きな字の写真)

(一部を抜粋)
1.世尊曰、 如有人布施時、勿対人布施、會須 遣世尊知識、 然始布施 ・・・「主はこのように言われる。
施しをするときは、人に施しをする前に まず主に知っていただく必要があり、それから施しをしなさい。」(マタイ6:1−4の変形) (世尊:宇宙の主・イエス、 曰:いわく、 如:ごとく、 勿:(古)〜するな、 會須:必要がある、 須:待つ、必要である、 然:しかり)
2.若 左手布施、勿令右手 ・・・ 「もし左手が施しをするならば、右手に知らせないようにしなさい。」(マタイ6:3) (若:もし、もしくは)
3.覚 若 礼拝時、 勿 聴外人 眼見、外人 知聞、 會須 一神目見、
然始礼拝 ・・・ 「祈る時は、他人に聞かれたり、見られたりしないように気をつけなさい。
ただ神の目に知っていただく必要があり、それから祈りなさい。」(マタイ6:5−6の変形)
4.有財物 不須放置 地上 或時 壊却 或時 有賎盗 将去、 財物 皆須向 天堂上 必竟
不壊 不失 ・・・ 「あなたの宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは
きずものになり 強盗が持ち去ったりするだけである。 あなたの宝は 天にたくわえなさい。そこでは実際、壊れることも失われることもない。」(マタイ6:19−21) (天堂上:天国、 必竟:実際)
5.唯看飛鳥、亦不種不刈、亦無倉坑可守 ・・・ 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。」(マタイ6:26)
6.似如梁柱着自家眼裏、倒向餘人説言汝眼裏有物、 除却因合此語假矯、先向除眼裏梁柱 ・・・ 「自分の目に梁があるのに、人々に向かってあなたの目のちりを取らせよと言うなかれ。
矯正というのを止めて、まずあなたの目から梁を取り除きなさい。」(マタイ7:4、5) (自家:自己、
眼裏=眼里:目、 餘人:複数の人々、 假矯:矯正する)
7.爾們要小心、不可将善事行在人的面前、故意叫他們看見、 若是這様、就不能得 爾們 天父的賞賜了 ・・・ 「あなたは人に見せるために、人前で善行をしないように注意しなさい。
そのようにするなら、あなたは 天の父から報いが受けられない。」(マタイ6:1) (ニンベン+爾們:あなたは、なんじは、 要小心:注意せよ、 這様:このような)
そして、後の時代に、これを親鸞(1173−1263、”末法思想”が盛んになる頃)が読んで、仏教(浄土真宗)の教義に取り入れたと、容易に想像できます。(”悪人正機説”、”他力本願”など)
さらに、この聖書の教えを含む仏教は、後のキリシタン宣教において、阿弥陀如来による他力本願の救済を説く浄土教と、神との契約による救済を説くキリスト教は構図的に近いものがあり、信者としては乗り換えやすく、(* さらに観音信仰とマリア信仰の近さもあって、)西日本を中心に急速にキリスト教が浸透するという、大規模なキリシタン・リバイバルに受け継がれていきました。
● また、ケン・ジョセフ著の、『〔隠された〕十字架の国・日本』には、ジョセフ氏が西本願寺に尋ねた様子が載っています。
『私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのです
けれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と
言う。
「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
「はい、たしかにあります」
と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。』
* 今行くと、こんな返事しかもらえないそうです ・・・ 写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。 (草津めぐみチャペル)
4. 三種の神器:
これは景教・キリスト教の伝来とは関係ありませんが、日本の古代文化の中に
「ユダヤ文化」が入った、ということを解き明かしてみたいと思います。
AD70年に ローマ軍によってエルサレムが陥落して以来、一部のユダヤ人と エドム人(航海技術・銅の精錬技術を持つ)が アカバ湾から出港して、東へ東へと、インド、東南アジア、インドネシアなどを経由して、沖縄(与那国島、久高島)を通って、はるばる日本まで来ました。 (西へ行くルートは、当然、ローマ軍によって封じられていました。)
大部分は、弥生時代終期の志賀島(しかのしま)に来て海人族「阿曇(あづみ)氏」となり、その後は陸に上がって、出雲や安曇(あづみ)、渥美、熱海などの地に住み着きました。これらの地名は皆、「エドム(EDWM)」から来ています。
安曇の近くの諏訪地方には、「御頭祭(おんとうさい)」と「御柱祭(おんばしらさい)」という、それぞれユダヤ、エドムに関連した2つの奇祭が残っています。”ミ・イサク・チ祭(イサクを主にささげようとするが、御使いの停止命令により、犠牲から救う。
代わりに鹿の頭をささげる”御頭祭”・・・ 創世記22章と同じ伝承)”、”御柱祭(エドム人の偶像のアシェラ崇拝(木でできた女神)、アシェラ
→ ハシラ(柱))
また、出雲、諏訪は、伝統的な鉄の産地です。エドム地方では銅鉱石が採れ、青銅の精錬が盛んでした。
そして、一部のユダヤ人は、伊勢の地に上陸し、元々のユダヤ教の宮、伊勢神宮を造りました。 このユダヤ教の宮は、天皇家の神社として 代々受け継がれてていきましたが、時間が経つにつれ、元々あったユダヤ教の経典(トーラーの巻物 → 虎の巻)は失われ、アニミズムの悪霊が取って代わるようになり、”日本の強い者”となって日本の霊性を支配するようになりました。(今は、K師による霊の戦いによって、”日本の強い者”は縛られています。)
● イスラエルの主席ラビ、シュロモ・ゴレン氏(京都の世界宗教者会議でユダヤ教代表として1993年来日)が、国学院大学の聴講で質問したとき、伊勢神宮の儀式のやり方について、彼が判別して、ミシュナーに書いてあるAD70年まで行われていた エルサレム神殿における儀式(=ユダヤ教の儀式: パトロールの仕方、交代の仕方、交代の儀式、人数 など)と完全に一致していたと証言しています。 これは、AD70年に散らされる直前のユダヤ教で、これを携えて日本まで逃れてきたことが証明されました。
● 外宮の石灯籠には、ヘロデのマーク(エルサレム城壁のヘロデ門、丸に16枚の放射状の花弁、エドム人が信奉 = 菊花の紋)と ダビデの星(六芒星、ユダヤ人が支持)の両方が刻まれています。
ヘロデのマークは、天皇家の紋章、また 日本の紋章になっています。ヘロデは、ユダヤの南方のイドマヤ(エドム)人系の王。
ダビデの星はイスラエルの国旗であると同時に、京都のシンボルになっています。 「琵琶(びわ)」湖は、イスラエル北部のガリラヤ湖の旧名 キネレテ湖、訳すと ”ハープ湖”で、一致しています。

● 天狗、虎の巻、 テフィリン(額に着ける聖句箱)、帽子の キッパ (→カッパ?)

● 神社の神輿(みこし)は、元々は 至聖所の「契約の箱」。 上部にある2つのケルビム → 鳳凰(ほうおう)、どちらも2本の棒で担ぎます。
● そして3種の神器: 伊勢神宮において、ユダヤ人たちは、
・ モーセがシナイ山で主から受け取った、律法の書かれている2枚の石の板(何語で書かれたか不明) ・・・・ 八咫鏡(やたのかがみ) としてレプリカとした。
・ アロンの芽を出した杖 ・・・・・・・・ 草薙剣(くさなぎのつるぎ) としてレプリカとした。
・ マナの入った壺、 マナ ・・・・・・・ 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) としてレプリカとした。
三種の神器(さんしゅのじんぎ)は、日本神話で天照大神が授け、歴代天皇に受け継がれてきたとされる、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の3つの宝物で、これらは天皇が即位する際に継承する証として用いられ、現在、宮中(勾玉)、伊勢神宮・内宮(八咫鏡)、熱田神宮(草薙剣)に置かれています。
(聖書によると)
主はモーセに、アロンに対し、一個のつぼをとり、マナをその中に入れて子孫のためにしるしとなるように蓄えさせるように、指示しました。 アロンは言われたとおり、つぼの中にマナを入れて、「あかしの箱の前に置いた。」(出エジプト記16:32−36)とあります。
契約の箱の前に置かれたマナの壺は、大きさや容量は不明ですが、金色でした。また、契約の2枚の石の板と、アロンの芽を出した杖とともに、この箱の中に入れられたとあります。(ヘブル9:4)
アロンの杖は、12部族の杖の中から神ご自身がレビ族の杖を選び、一夜で花を咲かせ、実を結ぶという奇跡が伴いました。 「モーセがあかしの天幕に入ると、モーセの兄アロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。」(民数記17:8)
アロンの杖はエジプトで9つ(10)の災いを起しました。 蛇に姿を変え、触れた水を血に変え魚を死に至らしめ、蛙の大群を出現させ、ブヨやアブを大量発生させ、疫病を流行らせ、雹を降らせ、イナゴの大群を発生させました。 また、出エジプト時にも、モーセが杖を掲げると紅海が割れ道を開き、追ってきたエジプトの軍隊を海に飲み込み、(モーセの間違いで杖で岩を打って)荒野で岩から水を湧かせ民を救うなど、幾多の奇跡を起こした杖です。
最初の2枚の律法の石板は、イスラエルの民が罪を犯したことに怒ったモーセが投げ砕いてしまいました。そして再び、2枚の石板に神が書き記してくださったのです。
神はモーセに木の箱を作ることも命じ、「おまえはそれをその箱におさめなければならない。」(申命記10:2) と語られました。その言葉に従い、モーセはアカシヤ材の箱をひとつ作り、石の板を保存する準備をしました。その後、モーセは神が命じるままに「あかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪蓋を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕の奥の至聖所に、あかしの箱(契約の箱)を隠した。」のです。
(出エジプト40:20−21)。
ダビデ王のあと、ソロモン王が即位した際に、そのあかしの箱、聖櫃がダビデの町シオンからエルサレム神殿まで担ぎ上げられることになりました。その際、主の箱とともに、「すべての聖なる器」も一緒だったことが列王記8章に記されています。
しかし、宮の至聖所に契約の箱は置かれました。その際、「箱の中には、2つの石の板のほか何もなかった」(T列王記8:9)と記されています。主の宮には多くの金銀からなる捧げ物が宝蔵されますが、ソロモンの時代、すでに、契約の箱の中に残されていたものは、モーセが収納した2枚の石板しかなかったのです。
ユダのヨシア王が、建て直していた主の宮の中で律法の書を発見し、イスラエル中の聖めの大改革を行ないました。レビ人たちを立て、契約の箱を主の宮に収めさせました。(U歴代誌35:3) これが、契約の箱を見た最後の記事です。
北イスラエル王国が崩壊したBC722年からしばらくして、南ユダ王国も滅亡し、契約の箱と2枚の石板は、ネブカデネザルによる神殿破壊の時から失われています。 エゼキエル書にも出てきません。 (外典の第2マカベア書には、エレミヤが契約の箱と香壇を地下の洞穴(石切り場)に隠したとあり、それゆえ「エレミヤの洞窟」と呼ばれていますが、これはおそらく間違い。)
長い時が過ぎて、黙示録には、「天にある神の聖所が開かれ、聖所の中に契約の箱が見えた。」(黙示録11:19) 契約の箱は、バビロンによるユダの陥落と同時に、すでに天に引き上げられているように見えます。

● 八咫鏡の裏の文字:
・ 明治時代に文部大臣・森 有礼(ありのり)が伊勢神宮のヤタの鏡の裏面にある文字を発見し、青山学院の左近義弼博士やGHQのある将軍もそれを見、元海軍将校・矢野祐太郎氏がそれを写し取ったという図が
下記です。その後、昭和55年1月8日に、元皇宮警察署署長であり元関東警察学校校長の仲山順一氏の取り計らいで、高坂和導(こうさかわどう)氏(『超図
解・竹内文書U』(徳間書店))は三笠宮殿下(昭和28年(1953年)から調査、昭和29年にはこの文字のことを新聞に投稿)に対し、無事に写しを渡すことができました。
円内の文字列は、森 有礼氏が言うような「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(出エジプト3:14)でも、他の研究者による”ヒフ文字”(存在が疑わしい)でもなく、BC1世紀ごろのアラム語系ヘブライ文字が変形したもので、「光の主(オール・ヤハウェ)」とする 久保有政氏の説が正しいと思われます。(Bに似た文字は古い文献で、=アレフの物が存在するそうです。) これは、すなわち、=”天照大神”
の本来の意味としてマッチングします。(一方、外側の文字列は、ギリシャ語の変形(筆記体)とも言われ、未だ解読されていません。もちろん、
BC15〜10世紀の原カナン文字(象形文字の一種)やウガリット文字(楔形文字)などではありません。それよりは時代が新しいもののようです。)

(まとめ)
終わりに、これらの3種の神器について、神様のメッセージを考察してみましょう。
今の新約時代、救われたクリスチャンにとって、「律法」は、御子イエス様の十字架の贖いによって、もはや信じる私たちを罪に定める効力を失い、日々、罪を悔い改めるための文字通り「鏡」になりました。
アロンの芽を出した杖は、レビ族のように、選ばれた万民祭司の私たちが、主に仕え、奇跡を行なう力、聖霊の力です。
そして、マナは、かつてイスラエルの民が荒野にいたときの日ごとの糧であったように、主の口から出る一つ一つの語りかけです。(申命記8:3、 マタイ4:4 ・・・ レーマ、語りかけ) 主の御声に聞き従う歩みによって、日々、実を結んでいくことができます。
これらの 霊的な3種の神器を備えているクリスチャンたちは、終わりの時の「後の雨リバイバル」(ヨエル2:23、24)の時に、この日本を起点として、リバイバルが起こされ、最後にイスラエルに至るまで、世界中に福音を宣べ伝えていきます。 (イザヤ59:19、20)