The 信仰 ・・・・・・ 「救いの信仰」の上に建て上げられた 「信仰の歩みの信仰」、天に宝を積む 信仰
2020年1月9日
終わりの時の リバイバル、終末、再臨、の一連の流れにあって、私たちがどのように対処し、どのような信仰の形態にいるべきかを、ここで今一度考えてみましょう。
1. 聞く信仰の時代の到来:
● 「しかし、人の子が来た時、はたして地上に 「その信仰」(την πιστιν、テエン ピスティン、the faith; 冠詞ο(ホ)の単女、; the、this、that、these)(*))が見られるでしょうか。」 (ルカ18:8後半)
(* KJVでも冠詞無し、textus receptus 原文、アレ型にもある)
「8 λεγω(I say) υμιν(ヒューミン、to you) οτι(ホティ、that) ποιησει(ポイエーセイ、He will do) την(the) εκδικησιν(エクディケーシン、avenging、復讐) αυτων(アウトーン、of
them) εν(in) ταχει(タクエイ、swift、迅速な) πλην(プレーン、more over) ο(ホ、the) υιος(ヒュイオス、Son) του(of
the) ανθρωπου(アンスローポウ、human) ελθων(エルソーン、coming) αρα(アラ、consequently、したがって) ευρησει(ヘウレーセイ、He
will find) την(テエン、the) πιστιν(ピスティン、faith) επι(on) της(the) γης(ゲース、earth) 」
前節までの、ルカ18:1-18より、 目に見える状況に失望せず、主に聞かれるまで祈る、という「この信仰」は、明らかに「救い」の上に建て上げられた信仰で、聞いて従う信仰 = 「行い」が伴う信仰全般(=ヤコブ1:22) = 天に宝を積む信仰 です。 cf. 「救いの信仰」、 御霊の賜物(Ⅰコリ12章)の「信仰」
● 「子は父がしておられることを 見て行なう以外には、自分からは何事も行うことはできません。 父のなさることは、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)
この聞く(この場合、幻を見る)信仰は、イエス様が地上で過ごされた時、いつもしておられました。 弟子たちも、毎日、聖霊様に導かれて伝道に伴うわざを行なっていました。 イエス様は、第2位格の神であり、御自分で事をすることができたのに、その神としての権利をご自分で無効にされ(ピリピ2:6-8)、仕える者の立場で御父に聞き従う模範を私たちに示されました。
今がどのような時代かは、歴史的な背景を見ればよくわかると思います。 御子イエス様の再臨に先立つ 少し前の出来事として、1948年5月14日に約1900年もの間散らされていたイスラエルの民が、聖書預言(エレミヤ31章、エゼキエル36、37章、他)の通りパレスチナの地に再び集められ、不死鳥のごとく一つの独立国家として再スタートしました。マタイ24:6 の大きな戦争の預言はすでに第一・二次世界大戦という形で起こっています。
また、天地創造からの約2000年周期(これららの千年王国も含め、トータル7000年)の 3週期目の終わりになっていることから、今の時代が 「終末の時」に差し掛かろうとしている時であることが分かります。(全歴史7000年説 = 「(天地創造の)一日は千年のようである」(Ⅱ ペテロ3:8)、それゆえ第7日目が「千年王国」に相当する)
したがって、世の終わりの大リバイバルと 終末の時が間もなく来ることになります。 今までは、大リバイバルや終末のことは どうでも良い時代でしたが、今は そうではありません。 「これを朗読する者、聞いて心に留める者は幸い。時が近づいているからである。」(黙示録1:3)の「幸い」( μακαριος、マカリオス、happy、blessed)とは、マタイの「心の貧しい者は幸い」などの一連の「幸い」と同じ言葉です。 また、ダニエル書等の終末預言は、今の情報が行き交う時代になって初めて正しく理解される、とあります。(ダニエル12:4)
● 「もし、わたしが今日、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞いて(שָׁמַע、シャマア)、あなたがたの神、主(יהוה、ヤハウエ)を 愛し(אָהַב、アーアッヴ、love)、すべての(כֹּל、コール、all)心(לֵבָב、レヴァヴ、לֵב、heart)で、すべてのたましい(נֶפֶשׁ、ネフェシュ、soul、たましい、life、いのち)で仕えるなら、
わたしは 季節に従って、あなたがたの地に 雨(מָטָר、マタル、rain、shower)、 先の雨(יוֹרֶה、ヨウレー; ヨエル2:23では מוֹרֶה モウレー) と 後の雨(מַלְקוֹשׁ、マレコーシュ)を与えよう。 あなたは、あなたの穀物と 新しいぶどう酒と 油を 集めよう。」 (申命記11:13、14)
古代イスラエルの農事暦では、 先の雨(10月の終わり) → (雨期):種まき・2番蒔き → 冬のいちじく、亜麻の収穫 → 後の雨(2月の終わり) → 大麦の刈り入れ(3-4月) → (小麦など)全穀物の刈り入れ(4-5月) → ぶどうの収穫(5-6月) → いちじく(6-7月) → 夏の果物(7-8月) → オリーブの収穫(8-9月) のように続きます。(ゲゼルカレンダー)
「雨」(מָטָר、マタル)は、乾いた地を潤す、農作物を育てる 恵みの雨です。 cf. גֶּשֶׁם、ゲシェム、大雨 (創7:12、Ⅰ 列18:44、イザ55:10 など)
イエス・キリストの昇天から 終末の再臨の時までの 約2000年間という、この第3周期では、主の著しいみわざ(しるしと不思議)については、
使徒行伝の時代の 「初めの雨」(מוֹרֶה モーレー、former rain、秋の雨、 申命記11:14、エレミヤ5:24、ヨエル2:23、等)の時代を経て、「後の雨」( מַלְקוֹשׁ マレコーシュ、latter rain、春の雨)の大リバイバルの時の間は、それでも局所的には起こっていましたが、大きくは 何もわざが起こらない時代が続いてきました。(・・・ それゆえ”反カリスマ”のにせ教理が発生した。) しかし、それはただ、
① 中世から現代までの長い中間の時代が、あまりわざが起こらないように定められた時代であり、その間に成長した教会は”制度的教会”がほとんどで、
② 「聞き従いの信仰」の歩みをするクリスチャンが皆無に等しかった、ということが原因として考えられます。
それでも主のあわれみにより、世界に開拓伝道をするときなどは、主に祈り聞かなければならない状況に陥り、主の御声を聞いて、それなりにわざが伴って起こっていました。
たとえば、インドネシアの村で、イエス・キリストの映画を家の壁をスクリーンにして映していたところ、村人たちが単純に信じて 映画のイエス様の真似をして同じように癒しの祈りをし始め、そして実際に多くの癒しが起こりました。(・・・ 聖霊様が主導する小リバイバル) 宣教師たちは、契約神学(反カリスマ)で聖霊の著しい働きは聖書が完成した今はもうない、と教えられていたので、この状況に大変驚いたそうです。
● 「聖書はすべて、神の霊感((直)いぶき、息吹)によるもので、教えと戒めと 矯正と 義の訓練とのために 有益です。」(Ⅱ テモテ3:16)
近代からの時代では、そもそも聖書信仰が弱く、たとえば 創世記を単なる”神話”として捉える牧師さんも結構います。(・・・ そして、アダムとエバはいつまでも幸せに暮らしました とさ。 メデタシ、メデタシ ・・・ 何がめでたい?) それは不信仰というものです。 聖書は、創世記から黙示録まで、誤り無き 神の言葉です。
そして神様は聖書を通して非常によく語られます。 単なる歴史書ではなく、(良い登場人物にあてはめて、)自分の事として読むと 恵まれます。 (イスカリオテ・ユダはやめよう?)
したがって今からの時代、まず主に聞いて、主を愛し、純粋な心とたましいで仕える民に、主は、聖書に書かれている通りのリバイバルの大いなるわざを起こしてくださいます。
2. 「聞く」ということ:
● 「わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける。」 (ヨハネ10:27)
主に聞くということは、救いの根幹にかかわる重大なことです。 神様は語られる方です。 主は「ことばの神」です。 あいまいな言葉や なんとなく、という方ではありません。(語呂合わせや謎をかける ということはあります。(エレミヤ1:11、12、アモス8:2、cf.民12:8))
もし、今まで一度も主の御声を聞いたことがないという人がいれば、その人は自身の救いを確認すべきです。 なぜなら、最低限、救いの時くらいは、一度は聞いたことがあるはずだからです。 ・・・ ex) 汝(なんじ)の罪は赦されたり(よく聞くあかし)、「わたしは ある という者である」(出3:14、自殺しようとしていたある姉妹・旧約聖書を知らない時に)、(筆者の場合、KGKでもらった聖書を初めて読んでいる時、)信じるか、信じるか、とイエス様に人の声ではっきりと何度も語られました。私はその都度”信じます”と答えました。
● 「神の賜物と召命とは変わることがない。」 (ローマ11:29)
「自分のいのち(ψυχη、プシュケー、life、soul)を見出す者は それが壊され、 わたしのために自分のいのちを破壊する者は、神のいのちを見出す。」(マタイ10:39)
「すべての心(heart)で、すべてのたましい(ψυχη、プシュケー、soul)で、すべての知力(or 理解力、comprehension)で、(あなたの神である主を愛しなさい。)」(マタイ22:37、 申命記6:5)
救いを受けた後、大体初期の段階で、その人の生涯の召しについて、必ず語られます。 また、祈りの中でも、聖書を読んでいる時でも、語られます。 心がイエス様から離れていると、聞くことは難しくなります。 神様は、人の外見や、知性があるか無いか、金持ちか貧乏か、地位・名誉があるか、王様か乞食か、・・・ ではなく、唯一、心だけを見ます。 死ぬ覚悟、殉教の覚悟があるかどうかを見られます。 エッサイの 忘れられていた8番目の息子 ダビデは主のみこころにかなっていた。 羊飼いの彼は聖霊様によってライオンや熊を倒す訓練を受けていました。(Ⅰサムエル16:7)
主を愛する ということは、コミュニケーションであり、主に聞き、主の後について歩み、(指示ならば)従うことです。 人間的な肉の計画を捨て、主のことばを聞き、信仰の歩みをするならば、主の喜びと恵みがやってきます。
● 「聖霊は、力(δυναμεως、デュナメオース)と 愛(αγαπης、アガペース)と 慎み(*)の霊」 (Ⅱ テモテ1:7) ・・・ * σωφρονισμου、ソーフロニスモウ; ジェントルマン、正気(sanity、sound mind)、自制(self-control)
「彼らは恍惚状態で預言した。 しかし、それを重ねることは無かった。」(民数記11:25)
恍惚状態は滅多にない。聖霊様は、強引に語り入れようとしたり、悪霊のように人格を無視して憑依したりしません。 紳士的で、私たちの人格を尊重し、私たちのほうから どうぞと言って初めて入って来られるお方です。 そして、創造主なる聖霊様(創1:2)は、創造的なわざ、実を結ぶわざを行われます。(⇔ サタンは ただ「盗み、殺し、滅ぼす」(ヨハ10:10)だけで、愛について、また創造的なことは、真似することはできない。)
● 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストの(語る)言葉による。」 (ローマ10:7)
「信仰とは、 望んでいることの 実体(フュポスタシス)であり、 今見ていない事柄の 証明です。」 (ヘブル11:1)
信仰の土台は 神のことばです。 (ヘブル書の信仰には冠詞がない、 「信仰」というものは、・・・」の意) 初めに神の言葉があって、それから信仰の歩みを歩んでいくことになります。 神が語られていない言葉は、むなしく終わります。 途中、信仰の試練(ヤコブ1:12、Ⅰペテロ1:7)がありますが(・・・良い示しにはたいてい逆が起こります(ヨセフが売られたように))、感謝をもって正しく対応し、最後まで信仰の立場から降りないならば、主の時にすばらしい成就を見ます。 この信仰の歩みを、主は喜んでくださいます。(ヘブル11:6)
3. どのようにして聞くか:
● 「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも はしためにも、わたしの霊を注ぐ。 すると彼らは預言する。」(使徒2:17、18)
意志の分野は 言語の分野に近いので、多くの場合、聖霊のバプテスマと同時に「異言」を語ることが起こります。( 注) 異言を語らないから聖霊様を受けていない、とは言えない) かつてのアズサ・リバイバルでは、異言と癒しのリバイバルだった。
世の終りの大リバイバルでは、御霊の賜物全般、特に 「預言」が大きく用いられると考えられます。 したがって、預言や啓示(知恵の言葉・知識の言葉、霊の見分け)の賜物によって、集会等で聞くことができます。 また、主の臨在の強い所では、「狭い門」(マタイ7:13)=御子の十字架 を通って救われた人ならば、誰でも聞けます。「(御霊の賜物ではなく、)あなかがたはかわるがわる預言できるのです。」(Ⅰ
コリント14:31)
● 個人的に「聞く」ための みことば: ・・・ 主が語られる言葉からすべての信仰の歩みがスタートします
「心が純粋な者たちは幸せです。 彼らは神を見ることになります。」(マタイ5:8)
・・・・・ 主は心だけをご覧になられます。 純粋(καθαρος、カサロース、pure)とは、混ぜ物がない の意味。 主と一つ心。 神と世、主とマモン(富)、主と偶像、など、二心は祈りが聞かれない。(ヤコブ1:8)
「しかしどうしても必要なことはわずかです。 あるいは一つです。 マリヤはその良いほうを選びました。 彼女からそれを取り上げてはいけません。」
(ルカ10:42)
・・・・・ 私たちは救われて主とのコミュニケーションに入れられました。 あとは、イエス様の近くに座って、聞き耳を立てるだけです。(思い煩ったり、遠くにいると 聞こえない。)
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかが わかります。」 (ヨハネ7:17)
・・・・・ 主のみこころを成し遂げたいという願いが心の奥底からあるなら、主のことばと 人間的な(むなしい、成就しない)言葉とを見分けることができます。 主は、人の欲に対しては動かれませんが、御国の名誉のためなら 何でもしてくださいます。
「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」 (マタイ16:3 後半)
「幻のない民は、ほしいままにふるまう。 しかし律法(=みことば)を守る者は幸い。」(箴言29:18)
・・・・・ 今 どういう時代であるかを知って、主のビジョンをしっかり持つ。(リバイバル、終末・再臨) その中で、個々のなすべき召しの役割が主から語られます。
「あなたは聖でおられ、イスラエルの賛美を住まいとされる。」 (詩篇22:3)
・・・・・ 賛美は主の軍の行列の先頭です。 祈る前に賛美をし、また 礼拝する心のとき、主の臨在がもたらされ 主の御声を聞くことを容易にする。 聞くということが、実は 戦いであることを知るでしょう。
4. 御霊の賜物をどのように行使するか:
● リバイバルの時は、主の臨在が強いので、聖霊様のわざが容易に起こります。 たとえ主に聞き従わなくても、わざは起こります。(たとえば、アズサリバイバルでは、その祈りの家に入っただけで 人々は罪を悔い改め、ガンから癒されました。)
同時に、主の臨在が強いと 罪に対しても厳しくさばかれるので注意が必要です。 「聖霊を欺く罪、アナニヤとサッピラ」(使徒5:1-11)
また、目的を取り違え、御名の権威を悪用して「みだりに用い」(出エジプト20:7)たり、主に栄光を帰さなかったりした場合も、さばかれます。このような悪い働き人たちも大勢出ます。 「「あなたの名によって、預言、悪霊追い出し、奇跡をたくさん行ったではないですか。」「あなたがたを全然知らない。不法を成す者ども、わたしから離れていけ。」」(マタイ7:21-23) ・・・ マタイ7章は にせ預言者への警告、 「狭き門」=御子の十字架を通らず、救われていない人たちの事。
主の臨在が強く、影響力が大きくなった御霊の賜物や 召しの働きは、主に聞き従って用いるべきです。 「聞かないことは、偶像崇拝の罪」(Ⅰ サムエル15:22、23)
癒しや悪霊追い出しなどで、”私にもできるんだ”、と喜ぶ体験は成長のために必要でしょう。 これはこれで良いことで、主は喜んでおられます。幼子に御国が現れます。 ただし、勝利の次は
へりくだるべきです。 「ただ、あなたがたの名が 天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20) ・・・・・ ”勝って兜の緒を締めよ” 日本のことわざ
御霊の実(これが目的!)を結ぶ御霊の賜物の行使のために、愛の書 Ⅰ コリント13章の列挙を確認します。(12章 御霊の賜物、14章 預言 の間に 13章が入っている)
● Ⅰ コリント13:4-7 は、暗唱聖句としてもよく知られている割に難解な箇所です。 これは「信仰の歩み」という点から見ると 氷解します。
「4 η(ヘー、The) αγαπη(アガペー、love、愛) μακροθυμει(マクロシュメイ、3単 < μακροθυμεω、マクロシュメオー、is be patient、忍耐する、bear long、忍耐して待つ、(ガラテヤ5:22 、ヘブル6:15、ルカ18:7、マタイ18:26、Ⅰ テサ5:14 等)) χρηστευεται(クレーステウエタイ、is
kind、親切) η(ヘー、the) αγαπη(love) ου(オウ(or ウー)、not) ζηλοι(ゼーロイ、isjealous、ねたむ) η(the) αγαπη(love) ου(not) περπερευεται(ペルペレウエタイ、is
bragging、(得意になって)自慢する) ου(not) φυσιουται(フシオウタイ、ispuffed-up、思い上がった、うぬぼれた、高慢な(=膨れ上がった、膨張した)、Ⅰコリ4:6、5:2等、)
5 ουκ(not) ασχημονει(アスケーモネイ、is indecent、無作法な、わいせつな; 不当な、不適当な(Ⅰコリ7:36)) ου(not) ζητει(ゼーテイ、seek、求める、捜す、desire) τα(タ、the) εαυτης(ヘアウテース、of-self、自己を) ου(not) παροξυνεται(パロクスネタイ、is incensed、激怒する、立腹する) ου(not) λογιζεται(ロギゼタイ、account、think、数える(ルカ22:37)、記録する、考える、impute、(罪などを)負わせる(Ⅱコリ5:19)、~のせいにする、転嫁する) το(the) κακον(カコン、evil、 悪、邪悪)
6 ου(not) χαιρει(カイレイ、rejoice、喜ぶ) επι(エピ、on) τη(テー、the) αδικια(アディキア、injustice、不正な、不法な) συγχαιρει(スグカイレイ、rejoice-with(together)、共に喜ぶ) δε(デ、yet) τη(the) αληθεια(アレーセイア、truth、真理)
7 παντα(パンタ、all) στεγει(ステーゲイ、forbear、(怒りなどを)こらえる、(感情などを)抑える、
forgo、(権利を)用いない(Ⅰコリ9:12)、(人間的楽しみなどを)無しで済ませる) παντα(all) πιστευει(ピステウエイ、believe、信じる) παντα(all) ελπιζει(エルピゼイ、expect、期待する、予期する、hope、trust) παντα(all) υπομενει(ヒュポメネイ
< υπομενω、ヒュポメノー、留まる(ルカ2:43)、踏みとどまる(使徒17:14、ローマ12:12、マタイ10:22、24:13、マルコ13:13)、endure、bear、(立場を)耐え忍ぶ); μενω(メノウ、留まる、住む、ヨハ15:4)」
「愛(*)は 忍耐して待ち(忍耐=待つこと=ヘブル6:15)(**)、(自ら進んで)親切です。 愛は ねたまず、 愛は (得意になって)自慢せず、 (膨らませて)高慢にならない。
愛は 礼儀に反せず、 自己中心ではなく、 激怒せず、 人の悪を数え上げず(=人のせいにせず)、
不正について喜ばず、 真理を 共に喜ぶ(=愛と真理が一緒になって喜ぶ)。
すべてについて(人間的なことを)抑制し(**)、 すべてを(主が良きにしてくださると)信じ、 すべてを期待し、 すべてにあって(信仰の立場に)とどまる(**))。」 (Ⅰコリント13:4-7)
・・・・・ * ここで「愛」の定義について、もう一度確認しなければなりません。 「愛」とは、聖霊様との親しい交わり のことを言っています。 この「愛」の交わりを継続することによって、これらの戒めを守り、「信仰」の歩みを全うすることができる、と言っています。
Ⅰ コリント13:1-3 の記述より、 全財産をささげることや 火で焼かれるために体を差し出すことさえも、そのこと自体が「愛」とは言えません。 また自分自身のことを求めず、主のみこころを求めるべきです。主に示されていないことを人間的に行っても、実を結ぶことはできません。
聖霊様との交わりとは、具体的には、主の御声に聞いて 主の後ろについていること、(Ⅰサムエル12:14、「שְׁמַעְתֶּם シェマアテーム(2複男)、あなたがたは聞く、בְּקוֹלוֹ ベ コーロー(単男・3単男尾)、(主の)御声に」、「אַחַר アハル、後ろ」)、(指示ならば、)その語りかけに応答して従うこと、 ・・・・・ このコミュニケーションこそが「愛」です。
この「愛」の交わりによって イエスの御名の権威、また Ⅰコリント12章の「御霊の賜物」 という与えられた武器を忠実に行使する時、結果的に、「御霊の実」を結ぶようになります。
「愛」の交わりにあって、主が 次に何を成してくださるかを、信仰の歩みの中で、「信じ」、「期待し」、「待ち望み」、主が語られたことばに「踏みとどまり」ます。
ノア(120年)、アブラハム(25年)、ヨセフ(13年)、モーセ(40年)、ダビデなど、約束のものを得るために 忍耐して 長い間待ちました。
これは、旧約時代の信仰の勇者たち すべてが歩んだ道です。そして、日々の主との親しい交わり=「愛」によって 信仰に踏みとどまることができました。
ex) アブラハムはある時 自制ができず、勇み足でイシュマエルができてしまった。このアラブ人が今 イスラエルを悩ませています。 ダビデ(「礼拝者」)の詩篇は、彼にとっての主との親しい交わりの表現です。 その交わりの中で、多くの重要な預言を語っています。 使徒ヨハネは、イエス様がまだ地上におられる時、イエス様の胸に寄りかかって心臓の鼓動を聞いた
と言われています。 原罪は人を神から遠ざけ、神から独立する方向にもっていくものですが、クリスチャンの成長は 世の行き方と逆で、成長すればするほど
主により頼むようになります。(親からの自立は必要?)
一方、主は 「ことばの神」、語ったことを必ず成し遂げられる 「聖なる神」です。(イザヤ55:11) この「愛」と「聖」とが 神の2大性質。
私たちの最終目標は、キリストに似た者になること(Christ-like-ness)であり(ローマ8:29)、「敬虔」(godliness)、すなわち「神の人」として日々 奇跡を体験する歩みをしていくことです。(Ⅱペテロ1:3、Ⅰテモテ6:6) そして、その過程で、御霊に従う時、私たちはきよめられ(ガラテヤ5:16、:18)、練られた品性が造り上げられ、「御霊の実」を結ぶようになります。(ガラテヤ5:22、23)
** 「耐え忍ぶ」、「忍耐」、「がまんする」などと訳されている まぎらわしい所(3ヶ所)も、詳細を見ると違います。( ・・・ 我慢大会ではない?)
愛は”寛容で”× → 「忍耐して待ち」○ ・・・・ 主の言葉が成就するまで 待つ
すべてを”がまんし”△ → 「人間的なことを自制し」○ ・・・・ 勇み足をしない、人間的に動かない
すべてを”耐え忍ぶ”△ → 「信仰に踏みとどまる」○ ・・・・ (イエス様が十字架から降りなかったように、)信仰の立場から降りない。 敵の惑わしや困難があっても、主の目から見ればハリボテである。 (主に従った上で、)敵に立ち向かえば
敵は逃げ去る(ヤコブ4:7)。 みことば・預言の剣を受け取る(エペソ6:17)。
● ガラテヤ5:22、23
「22 ο(ホ、The) δε(デ、But、yet) καρπος(カルポス、fruit、実) του(トウ、of
the) πνευματος(プニューマトス、Spirit、御霊) εστιν(エスティン、is) αγαπη(アガペー、love、愛) χαρα(カーラー、joy、喜び) ειρηνη(エイレネー、peace、平安、平和) μακροθυμια(マクローシュミア、patience、bear long、忍耐して待つこと、 =ヘブル6:15、 ルカ18:7、マタ18:26、Ⅰテサ5:14等) χρηστοτης(クレーストテース、kindness、親切、善行) αγαθωσυνη(アガソースネー、goodness、善良であること、正直) πιστις (ピスティス、faithfulness、誠実、忠実、;belief、信用、faith、信仰)
23 πραοτης(プラウテース、meekness、柔和) εγκρατεια(エグクラテイア、self-control、自制・節制) κατα(カタ、against、) των(トーン、the) τοιουτων(トイオイトーン、such-things) ουκ(オウク、not) εστιν(there
is) νομος(ノモス、Law、律法) 」
「しかし御霊の実は、 愛、喜び、平安、 (受動的に)忍耐(=待つこと)、(能動的に)親切、 善良(であること)、誠実、
柔和、自己制御です。 そのようなものに反対する律法はありません。」 (ガラテヤ5:22、23)
22節で、口語訳、新改訳ともに、「忍耐」について ”寛容”と誤訳されていますが、むしろ 信仰の歩みの「忍耐して待つこと」です。 この単語は Ⅰコリント13:4 にも同様に用いられています。
これらの 9つの御霊の実は、「愛」という一つの実にまとめられます。
5. 霊の見分けの必要性:
● 「ある人には 力のわざを扱う(奇跡を行う)こと、ある人には 預言、 ある人には 霊の見分け(discerning of spirits)、 ある人には 各種の言語(=異言)、 またある人には 言語を通訳する力 が与えられています。」(Ⅰコリント12:10)
cf. 「堅い食物は大人の食物に属し、それは 訓練された判断力が成熟することを通して、良し悪しの見分けを持つ(have discerning to good and evil、*霊だけとは限らない)人たちのものです。」(ヘブル5:14)
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。 「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が 大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4、5)
世の終わりのリバイバルに差し掛かる時である今は、マタイ24:5 で語られているように、非常に惑わしの多い時代です。 サタンは妨害しようと躍起になっています。(サタンの力は惑わし(=偽り、うそをつくこと)のみ) それゆえ、主ご自身がリバイバルのために導かれる、それぞれの使徒団には、五役者、祈り手、と共に、「見分け者」が、特に必要なメンバーとなっています。 ( → (1)見分けの賜物の必要性: )
霊の見分けには、「訓練による見分け」(ヘブル5:14) と、「御霊の賜物の 霊の見分け」(Ⅰコリント12:10) の2つがありますが、賜物でない見分けには限界があります。 たとえば、本当に邪悪な器を外見から見分けるのはほぼ不可能で、賜物にはかないません。サタンは光の御使いに変装するからです。 しかし、霊の見分けの器は、瞬時にごく当たり前のように、その人の霊性の良し悪しを見分けます。
どうしてわかるのか見分け者本人にも分かりません。なぜならそれは御霊の賜物だからです。
この霊性の良し悪し(○×)とは、関わって有益か 有害か、ノンクリスチャンならば 救いが近いか、まだか、ということが分かります。 ただし見分けは、その人が生きているうちは 変動するものであり、とりなしたり、伝道したりする余地はあります。(死んだあとは固定。 ・・・ 特に、死の直前まで救いを保っていることが重要です。終わり良ければすべて良し。) また、見分けの悪い人であっても、主からそこへ行くように語られた場合はその指示に従います。
「伝道者」は、あまり見分けによらず動くことが多い。見分けが良くても悪くても、福音を宣べ伝えることが召しだからです。 救われて、同時に解放されて○になる人は多くいます。
特に、自称クリスチャンや、主の器といわれる人で、なおかつ×な人たちは、危険であり、関わらないほうが良い ということになります。 用いられている器、有名な器、あるいはメガチャーチの器だからといって、○とは限りません。 この人が?、という牧師で×の人もいます。
ある人が入れ込んでいる器が×のとき それをその人に伝えると、よく怒り出します。 器を追いかける人はよくいます。 しかし、人は皆罪人であり、人ではなく、器を通して
イエス様を見るようにすべきです。 人を見ると失望します。 また、人が主の栄光を取ってしまうと さばかれます。 どんな預言者でも、吟味は必要です。
「兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。」(Ⅰ
コリント1:10-12)
最近、ここ数年で、急に 多くの 世界の、また日本の有名な器たちが、以前○だった人も ×に変わっています。
そして、聖霊様による聖霊様の大リバイバルに備えて、今、主は、へりくだって真に聞き従う器たちだけを用いるために、それぞれの使徒団の流れに秩序を再配列しておられます。 このように準備がなされた所に、聖霊様が激しく臨まれます。
(見分け) 大嘗祭後にもかかわらず 天皇ご夫妻(○)、平成上皇が皇居に残って、主にとりなしていたと考えられます。(ただし(影武者でなく)本物の愛子さん(×))、
平成上皇ご夫妻(○)、 故中村 哲 医師(〇)
6. 心の戦場での勝利:
本当の戦場は、私たちの内側にあります。 心の傷は、主の御声を聞くことを最も妨害しています。 私たちはまず心が癒され、人を赦し、正しい神観を持ち、そして正確に御声が聞けるようにする必要があります。
日本人クリスチャンは、心の傷を隠して、さらけ出すことを恥と思うので、そのまま直らないで心の傷を抱え続けている人が多いと思われます。
● 「(ヤコブ、イスラエル、霊のイスラエルである私たちに対し、)わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」 (イザヤ43:4)
「Since thou art precious in My sight, and honourable, and I have loved thee; therefore will I give men for
thee, and peoples for thy life.」(KJV)
「 מֵאֲשֶׁר יָקַרְתָּ בְעֵינַי נִכְבַּדְתָּ, וַאֲנִי אֲהַבְתִּיךָ; וְאֶתֵּן
אָדָם תַּחְתֶּיךָ, וּלְאֻמִּים תַּחַת נַפְשֶׁךָ」(43:4 יְשַׁעְיָהוּ)
「מֵאֲשֶׁר、メ アシェル、(from that)、 יָקַרְתָּ、ヤカラター<יָקַר、ヤカル、完・2単男、you are precious、貴重な、valueable、価値のある、 בְעֵינַי、べ エイナイ<עַיִן、アイン、1単尾、in my eyes、 נִכְבַּדְתָּ、ニカバッダター<כָּבַד、カーヴァド、honor、glorify、nif"al(受動)・完・2単男、be honoured、尊い、名誉ある・光栄な、heavy、dull、重い、鈍いという意味もある וַאֲנִי、ワ アニー、and I 、 אֲהַבְתִּיךָ、アアヴティーカー<אָהַב、アーハアッヴ、完・1単・2単男尾、love you、 וְאֶתֵּן、ウ エテン<נָתַן、ナサン、未完・1単、and I will give、 אָדָם、アダーム、men、 תַּחְתֶּיךָ、タヘテイカー<תַּחַת、タハス、2単男尾、instead of you、 וּלְאֻמִּים、ウ レウミーム<לְאוֹם、レオム、複男、nations、people、 תַּחַת、タハス、instead、 נַפְשֶׁךָ、ナフェシェカー<נֶפֶשׁ、ネフェシュ、単女・2単男尾、your life、soul」(イザヤ43:4)
* 「尊い」、כָּבַד、カーヴァド、は、他に 重い「重くのしかかり」(詩篇34:2)、 鈍い「(目が)かすんで」(創世記48:10)、という意味もある。 (cf. イザヤ59:19
の「(日の上る東の方からは、主の)栄光(が恐れられる。)」は כָּבוֹד、カーヴォード、groly、honor、栄光、エゼキエル10:18 等、 abundance、riches、豊かさ、富 イザヤ66:12 等、 栄誉 ダニエル11:39)
● 「神よ。 私を探り(調べ)、私の心を知ってください。 私を試験し、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに 痛みのある道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に 導いてください。」 (詩篇139:23、24)
「Search me, O God, and know my heart, try me, and know my thoughts; And see if there be any way in me that is grievous, and lead me in the way everlasting. 」(KJV)
「 חָקְרֵנִי אֵל, וְדַע לְבָבִי; בְּחָנֵנִי, וְדַע שַׂרְעַפָּי、 וּרְאֵה, אִם-דֶּרֶךְ-עֹצֶב בִּי; וּנְחֵנִי, בְּדֶרֶךְ עוֹלָם 」(139:23,24 תְּהִלִּים)
「חָקְרֵנִי、ハケレニー<חָקַר、ハカル、祈・1単尾、search me、探す、調べる、 אֵל、エル、God、 וְדַע、ウェ ダア<יָדַע、ヤーダ、祈・単男、and know、知って、 לְבָבִי、レ ヴァーヴィー<לֵבָב、レヴァヴ、1単尾、my heart、 בְּחָנֵנִי、ベハネニー<בָּחַן、バハン、祈・1単尾、examin me、prove、try、試験する、証明する、 וְדַע、and know、 שַׂרְעַפָּי、サレアパーイ<שַׂרְעַפָּים、複男・1単尾、my disquieting thoughts 思い煩い」 (詩篇139:23)
「וּרְאֵה、ウ レエー、祈・単男、see、 אִם、アド、if、not、 דֶּרֶךְ、デレク、way、road、 עֹצֶב、オーツェヴ、pain、sorrow; idol、痛みのある、傷ついた、 בִּי、ビーְּ、1単尾、in me、 וּנְחֵנִי、ウ ネヘニー<נָחָה、ナハー、祈・1単尾、and lead me、guide、bring、 בְּדֶרֶךְ、ベ デレク、in way、 עוֹלָם、オーラーム、単男、everlasting、永遠の」 (詩篇139:24)
* 「試す」、בָּחַן、バハン とは、「金を試すように試す」(ゼカリヤ13:9)、「(十分の一献金を)ためしてみよ。」(マラキ3:10) と同じで、証明する、試験する
の意味。 ( cf. 「主を試みてはならない。」(申命記6:16) は、 נָסָה、ナサー、tempt、test、の意味)
§ 大脳生理学的には、幼いころの心の痛みは 大脳皮質のうち、最初期にできる”島皮質(とうひしつ)”=ブロードマン脳地図の13、14野 にその記憶が残ります。この部分は、催眠術の感覚制御に用いられる部分でもあります。 人の脳は 肉体的痛みと 精神的な痛み(ストレス)を区別できないので、1~2歳の古い記憶に痛みがあると 脳は防衛反応として、βエンドルフィンを恒常的に分泌します。 また、エンドルフィンの分泌と同時に1:1の割合でできるACTH(副腎皮質刺激ホルモン)の作用で 副腎からコルチゾールを分泌し、アドレナリンと共に血圧上昇、闘争または逃避を備えさせます。 ・・・ 構えて 保身的になる。 また同時に、コルチゾールの過剰分泌は 海馬を委縮させ、PTSDの一つ、短期記憶力(2週間以内)の低下を引き起こします。 (→ 4.備えられた内在鎮痛系:)
自分で問題を抱え込み、握って離さないという保身的な考え方は、「主にゆだねる」 ということを困難にします。 握っている問題を手放し、主にゆだねた時、主は私たちを心配してくださり、解決のわざをして下さいます。 だから、まず、心の底にある痛みを取り除くよう、主に取り扱っていただきましょう。
§ 心理学的には、同じような状況で 逆の「上書き保存」するやり方があります。 ・・・ 逃避させ、閉じ込めるとパニック障害を何回も繰り返すだけで、逆効果です。 これには、いわゆる ”曝露(ばくろ)療法”、たとえば、レイプされて男に対して恐怖症になった女性には、積極的に、安全な複数の男を周りに置き、レイプされない体験、親切にされた体験を上書き保存するのが効果的です。
幼いころの問題は、ほとんどが両親からの精神的レイプが原因です。 確かに肉体的には両親に養ってもらったのは分かりますが、乱雑に扱われたり、厳しすぎるしつけだったり、急に全く相手にされなくなったなど、精神的にはダメージを受けた記憶が残ってしまうというものです。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)
・・・ 自分の誰にも言えない悲しい感情は、明るい曲は逆効果で、悲しい曲を聞くほうが、音楽が自分の感情を代弁してくれるので、癒され、落ち着く。 これは音楽に限らず、映画でもそうです。 自分の恐怖、悲しみなどを代わりに演じてくれるので、浅い傷ならかなり緩和します。 ダビデも、(ひどくならないうちは、)サウルを竪琴でなだめていた。
サウルは心の傷(ねたみやすい、恐れ、自己保身、自分を小さく見る(Ⅰサム15:17))があり、それで主の言葉に聞き従えず、アマレクを一部しか聖絶せず、預言者サムエルにうそをついたので、主は彼を王位から退けられました。 また、ソロモンは甘やかされて(試練がほとんどない、他人の痛みが分からない、国民や他国に厳しく課税した)、晩年に外れていきました。ソロモンの所に来た金の重さは1年で666タラント。(Ⅰ列10:14) ・・・・・ ローマ皇帝のネロは反キリストのひな型(名前の合計が666になる)とされていますが、彼も ソロモン同様、犯罪者特有の”ねじ曲げられた恨みの感情”は全くありませんが、充分成長する前に皇帝になったので、すべてが主観的で自己陶酔であり、”(原罪を持つ、悪い意味での)幼子がそのまま大人になった”者です。 終末の反キリストもこのような者として出現すると予想されます。
サウルの娘ミカルが、契約の箱の前でのダビデの裸踊りを見て さげすんだので、彼女は一生子供が無かった。 主の前で体面を取り繕うというのはだめで、主の御前にはすべてが裸であり、全身全霊で主を礼拝するのが主に喜ばれることです。
● 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)
一方、ダビデは、(罪も犯しましたが、)どんな場合でもまっすぐに主に向き合っていきました。 ダビデは心の傷は少なく、羊飼いの頃やゴリアテに立ち向かう時はのびのびと大胆にふるまいました。(御霊の賜物のうちの、「信仰」の賜物」) このように主の力を順に体験していきました。しかし彼の前に常に
ねたみに燃えたサウルが立ちはだかり、サウルが死ぬまでひどい試練を受け続けました。また身内の者からも迫害を受けました。
しかし、ダビデは様々な試練や困難を通して、主に より頼むことを学んでいきました。「主は 我がとりで。」(詩18:1-3、詩46:1) 主は、ご自身に より頼む者を 決して見捨てません。 弱さのゆえに罪を犯しても、悔い改めて主に立ち返れば、豊かに赦してくださいます。
その結果、彼の書いたといわれる詩篇の大部分には、預言者並みに、主の預言がちりばめられています。 ダビデ(礼拝者)が、主によく聞いていることが分かります。
今の、十字架によって開かれた新約時代、恵みの時代では尚の事、 御子イエス様は、 פֶּלֶא יוֹעֵץ、ペレー・イオエツ、wonderful counselor、「すばらしいカウンセラー」 です。(イザヤ9:6)
そして、すでに 約2000年前、御子イエス様は 十字架上で、信じる私たちの 罪、咎(とが)、弱さ、のろい を、すべて取り除いてくださいました。
● 「彼(キリスト)への懲らしめが 私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
● 「主の霊がわたしの上にある。 それは、貧しい者に福音を宣べ伝え、壊れた心をつなぎ合わせ、(*アレ型では抜け) 捕らわれ人には赦免を伝え、盲人が見えるようになり、虐げられている人々を自由にし、主の受け入れの年を告げ知らせるために、主はわたしに油を注がれたからである。」 (ルカ4:18、19)
・・・・ イザヤ61:1、2 の 「心の傷ついた者たちをいやす」とは、通常の癒しのレベルではなく、 心(レブ)が 壊れた・砕かれた者たち(壊す(シャバル)の(受動)態・複・男(レニシェベレイ)、be
broken, be crushed )を つなぎ合わせる、tie, bind という意味。 多くの福音書ではこの肝心な一句が抜けています。
● 「愛する者よ。 あなたが たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また 健康であるように 祈ります。」(Ⅲヨハネ:2) ・・・ 祝福の順番は内側から
§ (リバイバルに際しての注意事項)
リバイバルの時は、終末の時、荒野で過ごす3年半+αの間、花婿(再臨のイエス様)を迎えるための、「ともしびの 予備の油」(=予備の聖霊様の油注ぎ)を受け取っておくべき時でもあります。(マタイ25:1-13) 「買う」(25:9)とは、働いて苦労して求めること。
終末の時には、新たな油注ぎは止まる。
リバイバルになって、多くのわざが現れ、多くの人々が救われますが、この時、すべての人が喜んでくれるとは限りません。 ねたみに燃えたサウルや パリサイ人のような人たちもいます。 使徒たちの宣教を一番妨害したのは 当時のユダヤ人でした。
● 「あなたがたには、世にあっては 艱難があります。 しかし、勇敢でありなさい。 わたしはすでに世に勝ったのです。」 (ヨハネ16:33)