2) 世の終わりについて;
世の終わりの時が来ると、不法の人、すなわち反キリストが現れ、全世界のクリスチャンを迫害し、多くのクリスチャンが殉教する。反キリストが現れないと、キリストの再臨が来ないからである。
それは、神の私たちに対する信仰の試練であり、また、神が迫害の中にいる私たちをあわれみ、また、最高潮に達した不法をさばく為、そのただ中でキリストが栄光をもって再臨するためである。
(歴史的に見るならば、ヒトラーはユダヤ人を迫害したが、それは雛型で、歴史に現れた神の警告であり、今度は反キリストがクリスチャンを迫害するのである。 → 終末論参照 )
イエス・キリストを信じて一度与えられた救いは、そう簡単には失われる事はない。私たちは、信じる瞬間、聖霊が私たちの霊と共に住み、神のものとして聖別され、私たちの生涯が聖霊の力によって全面的に助けられるからである。そして、奇跡やしるしを伴って、私たちの主に対する信仰を強めてくれるのである。
聖霊は”助け主”、また、この地上に”共におられる主”であり、真の牧師、真の教師、真のカウンセラー、奇跡を行う力の主、賜物・預言の霊、また、愛と秩序の霊、喜びの油、なぐさめ主、賛美と感謝の霊、祈りの霊であり、私たちの生涯に渡って、イエス様が共におられるのと同じように、語りかけ、導き、助けてくれるのである。この聖霊の力無しでは、私たちは神のみこころの何をもする事ができないのである。
しかし、霊が救われても、たましいにおける罪の性質はまだ残っている。それは、クリスチャンの生涯の中で、聖められて行くが、完全ではない(聖化)。 完全に罪の性質が無くなるのはキリストの再臨の時、栄光の体に変えられる時である。(栄化) そして、人はどんな罪でも悔い改めれば赦されるのである。神のみもとにいるイエス・キリストは信じる者の為に、父なる神にとりなしをしてくれるからである。
唯一、救いを失う(赦されない)罪というものがある。それは、聖霊を汚す罪(はっきりとした聖霊のわざが行われているのに、悪霊のそれと混同する事である。この霊的愚鈍さは、霊的に自分は神のものではないとあかしする事に他ならない。
世の終わりには、にせ預言者、にせキリストらが多ぜい現れ、しるしをもって人々を惑わすので、福音書が言うように、わたしたちは十分警戒しなければならない。それらに対抗する為に、あらかじめ聖霊に十分満たされ(予備の油、油=聖霊)、また、わざわいの回避や(示されている者は)殉教のための祈りをする必要がある。