4. 潜在意識 〜 神が見ているもの


 (1) 潜在意識の重要性;

 「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が 「光よあれ」と仰せられた。すると光ができた。」 ・・・ 創1−1〜3

 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。 ・・・・ また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」 ・・・ マコ4−3〜9

 主の働きは、大水に投げかけられた神のことば、土地に蒔かれた植物の種である。
 一方、人の潜在意識(心、たましい、あるいは、知・情・意)は、海に浮かぶ氷山の水面下の部分のようなものである。
 神のことば(レーマ)が語られても、大水、あるいは、土壌である人の潜在意識が、それに対応できなければ何の役にも立たない
 ところが、人は罪の性質を遺伝によって受け継いでいるから、その潜在意識には神のみこころと合わないものが大なり小なり存在するはずである。

 心、すなわち、潜在意識は神とのかかわり、特に、聞き従いの歩みにおいて重要なものである。
 もし、潜在意識の中に、劣等意識、貧困意識、病気意識、失敗意識、高慢(自己意識過剰)など、神のものではないものがあるならば、神はご自身のみわざをその人を通して成し遂げる事はできない。

 神は、すべての人が聞き従いの歩みをして、神の働きに用いられ、また、恵みで満たされる事を願っておられる。
 人は救われたならば、この新約時代にはだれにでも聖霊が与えられるから、もちろん、日常レベルの語りかけくらいはある。
 しかし、もし、その人の人生における神の召しのような大きな信仰について、まだ主の語りかけが無いと言う場合、その人が聞いても従えないという主の予知によって、神は、あえて、ことばを与えていないのである。

 したがって、クリスチャンの人生にあって、主の器として用いられる為に、私たちの潜在意識に主の取り扱いがあるのは当然である。それは、用いられる前でも、信仰の歩みにおいて現れる試練を通してもそうである。人は、信仰の歩みをする為には、神の意識”を自分の意識としなければならない
そうすれば、召しにかかわる重要な神のことばを受け、本格的な聞き従いの道に入るのである。

        


 人間的、あるいは、肉的に忍耐と言っても、それは忍耐する動機が無く、また、長続きするものではない。しかし、信仰の歩みにおける忍耐は、その人の想像を越える恵みをもたらすので、非常に価値ある尊いものである。
 信仰の試練にいる場合、十字架につけられたように、身動きできず、休めない状態で、神にたましいが探られるのである。
 これは、イエス様が十字架につけられた状態に似ているが、それとは本質的に異なり、決して神に見捨てられる事は無いのである。全能者なる神は、われわれ信じる者を愛する自分の子供と認めたのだから、目に見えない幾重もの救いの道を備えているのである。われわれが絶望する事があっても、信仰の立場を自分から降りさえしなければ、そうなのである。
 何のために、わざわざ神の子であるイエス様が、十字架の上でこの上も無い苦しみを受けられたのだろうか?。それは、私たちが、ある程度試練により苦しんだ後、神に身をゆだね、もう苦しまなくなる為である。
 そして、最後まで耐え忍んで信仰の道を全うし、神の時が来たならば、神のことばは私たちの思いをはるかに越えて成就し、喜びのゆえ以前の苦しみは忘れてしまい、私たちの心はさらに神の性質に近づき、また、天に宝を積むのである。


 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」 ・・・ Tサム16−7

 「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」 ・・・ 箴21−2

 「人の口は心に満ちているものを話すからである。」 ・・・ ルカ6−45

 悔い改めたばかりの魔術師シモン(長い間の罪) ・・・ 使8−23

 「霊の乏しい(へりくだった)者は幸いです。神の国はその人のものだからです。」 ・・・ マタ5−3


 【注1】 潜在意識はいくつかの形で説明が試みられているが、いわゆる積極思考やニューエイジ的な意識解釈 − すなわち、人の意識が神を通さずに、直接環境に影響を与えるという考え方 − はまちがいであり、実験的にも否定的結果となっている。 →  参考;意識論解釈
 むしろ、これには悪霊がその媒介者としてかかわっているのできわめて危険な考え方である。

 「寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」 伝10−20、
 (他に、マタ7−22、23、黙16−14など、キリストでないそのような霊はすべて悪霊)

 【注2】  もちろん、神の意識だけで、神のことばが無ければ、神のわざは起こらない。
 よく、信仰の歩みをする際に失敗してしまう人がいるが、その多くは、明確な神のことばが無い状態で突っ走ってしまう場合である。意識だけで、神のことばが無い状態で走るのは危険極まりない事である。神に従うという意欲が昂進し、神を愛する心はすばらしいが、ほんとうに語られたかを確認する為に、逆に、一度冷静になってしっかりと吟味をする必要がある。
 人の気分や状態や願望に関係無く、神の一方的な主権によって、神の時に語られるからである。

 ex) 韓国で行なわれたある聖会に出席する為に、その所がある川の反対側から行くための橋が、前日の大雨により流されていた。すると、何人かの熱心な女性信者たちが、”私たちはペテロのように水の上を歩いて行きます。”と言って、叫びながら川に入っていった。翌朝、彼女らの溺死体が河口付近で発見された。

 ペテロはイエス様が、『来なさい。』と語った言葉を聞いて水上歩行したのであって(マタ14−28〜33)、神様はご自身が語っていないならば、指一本動かされようとはなされないのである。


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