(2) ユダヤ人クリスチャンへの手紙
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 ・・・
『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』 ・・
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている。」 (マタ22−37〜40)
律法の要求を一言で表すならばこのようになる。
ところが、たとえ救われていても罪の性質や傷のため、律法を完全には守る事ができない。
積極的に神に従う信仰の歩みをすることを求めないのならば、神からの恵みも滞り、いつのまにか人間的になり、儀式主義や律法主義やなまぬるいものへと、信仰が逆戻りしてしまうのである。(ロマ1−21〜)
ヘブル人への手紙とヤコブの手紙は、確かに、すべての人が読むべき聖書66巻に書かれてあるので、信仰歴が長く、かつ、なまぬるくなってしまったクリスチャンに語られているものである。
ただし、これらは本来、国外にいたユダヤ人クリスチャンに回覧されたものである。
そして、そのテーマは、共通して”信仰”、すなわち、”救いの信仰”あるいは”聞き従いの信仰”について述べられており、彼らの弱点をフォローアップし主に立ち帰らせようとする意図が見られる。
1) ヘブル人への手紙;
ヘブル人への手紙は、律法というひな型に長い間親しんできたユダヤ人クリスチャンに対し、それらをキリストの恵みと比較して述べられている。
・ 律法は聖なる神と人との契約を明文化したもので、非常に厳しいもの、重荷となるものである。(もっとも、律法には、神の人に対する配慮と、理性を超えた預言的啓示を含む。)
律法の規定が細かく定められた原因は、聖なる主が”彼らはご自分の民である”と語り、なおかつ、当時の彼らがあまりにもかたくな(罪を犯しやすい不信仰な者)だったためである。
そして、彼らが安息に入れなかったのは不信仰の為であった。(ヘブ3−19)
・ また、律法の定めによるいけにえの効力は不完全で、むしろ、年ごとに人々に罪を思い起こさせるものであった。(ヘブ10−1〜3)
・ しかし、律法は良いものであり、決して廃棄されるものではなく必ず成就するものである。それは、聖なる神が語ったものだからである。モーセの律法を無視する者は、あわれみを受けることなく死刑に処せられる。(ヘブ10−28)
(異邦人にも、明文化されていなくても”心の律法”がある。(ロマ1−12〜15))
・ 律法は信仰に至らせる、来るべきものの影にすぎない。実体は、イエス・キリストにある。
イエス・キリストは、大祭司であると同時に、神の小羊である。そして、ただ一度の十字架で、(信じる)すべての人々の罪の贖い、神との和解を完全に成し遂げたのである。(ヘブ7−27)
(また、イエス・キリストは、永遠に続く”神殿”である。天国には、もはや建物のような神殿は存在せず、都の城壁のみである。(黙21−22))
・ 人は、自分の方で何か行なうことで、(罪滅ぼし的に)神に良しと認められようとする傾向がある。 しかし、これは神に対する不信仰の冒涜である。イエス様がすべてを完了してくださったからである。 (”邪悪な良心”の意味。(ヘブ10−22))
* 「神のわざを行なうために、何をなすべきでしょうか。」 (ヨハ6−28)
これは、聞き従いの歩みにおいても、神に従いたいと思うクリスチャンがつい考えてしまう事である。
その答えとして、
「神が遣わした者(イエス様、また、神のことば)を信じること、それが神のわざです(神のわざをもたらす)。」 (ヨハ6−29)
2) ヤコブの手紙;
ヤコブはいわゆる十二使徒のヤコブではない、イエスの兄弟ヤコブであり、使徒である。(使12−2、ガラ1−19) そして彼は、当時の、国外に散っているイスラエルの十二の部族へ宛てて書いている。
すなわち、
1. クリスチャン全般(十二=完全数)
2. 特に、終末のイスラエルのリバイバルにかかわってのユダヤ人クリスチャン
の、両方に対して語っている。
内容は、やはり”聞き従いの信仰”について語っている。
すなわち、霊の救いの次のステップとしての信仰の歩みについてである。信仰の”行ない”とは、神に”従う歩み”のことを言っている。(行なう人=doer ⇔ 救いは全く行ないによらない:work)
→ 聞き従いの信仰については、信仰の項参照