4. 新約聖書(各論・福音書




  1) マタイ4:10

   「10  Then saith Jesus unto him, Get thee hence(Πηγαινε = go、 堅い言葉で”この場所から立ち去れ” ○), Satan: for it is written, Thou shalt worship the Lord thy God, and him only shalt thou serve.」(KJV、マタイ4:10)
   Πηγαινε= go は、”下がれ” というよりも、「出て行け」 という強い意味。
   cf. 「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン(△)。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」」(新改訳)
      「10  するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け(△)。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」」(口語訳)
      「Then Jesus said to him, "Get behind me(”下がれ”程度の意味 ×), Satan! For it is written, 'You shall worship the Lord your God, and you shall serve him only.」(World English Bible、web・電網訳

  イエス様は試みを受けられた時、サタンは 詩篇のみことば(91:11)を悪用しましたが、イエス様は いずれも申命記の「十戒」のみことばを用いて撃退しました。
   ① 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」 (申命記8:3)
   ② 「あなたの神であるを試みてはならない。」 (申命記6:16)
   ③ 「あなたの神であるを恐れ、主にだけ仕えよ。」 (申命記6:13)

  申命記(デヴァリーム(言葉)、Deuteronomy)は、 5~11章「十戒」(神であるとの契約の土台)の再記述、12~26章 他の律法、 27~30章で 「祝福とのろい」、33章 各部族への預言・祝福))の構成で、神の言葉のうち最も重い部分を代表して現している箇所です。
  * カトリックの聖書(ウルガタ<70人訳×)や 異端の書では この最も重要な「十戒」が曲げられています。
  ・ 出エジプト20:2 ユダヤ:第1戒、アウグスチヌス:第1戒、 20:3、4-6 ユダヤ:第2戒、アウグスチヌス:第1戒、 逐次1つずつず れて、 20:17 ユダヤ:第10戒、アウグスチヌス:(妻)第9戒・(家)第10戒  ・・・ ラテン語聖書では、第1戒「主の他に神々があってはな らない(目に見えないもの含む)」 と 第2戒「偶像を作ってはならない、拝んではならない、仕えてはならない」(目に見えるもの)が、”第1戒”として一つになっている。(×) さらに、ロー マ法王制に都合の良いようになっている。(本来の第1戒によれば、(目に見えない)カトリックの”制度”やローマ法王制など = 偶像)
  このことは終末に 発見されるはずの「十戒の石の板」によって、もう一度全世界にあかしされます。ただし、「契約の箱」には、ソロモンの時代からすでに、「二枚の石の板のみ」。(Ⅱ歴代誌5:10))

  ダビデは、ウリヤの妻 バテ・シェバによってソロモンをもうけ、油注いで王の後継ぎにしました。 しかし、「不倫の子は 十代目の子孫さえ主の集会に加わることはできない」(申命記23:2) とあるように、ダビデ本人の罪は赦されましたが、申命記によって語られた のろいは、ソロモン(晩年の罪のため天国にはいない)、南北朝分裂、レハブアム、アビヤム、・・・ 、北イスラエルのアッシリア補囚、南ユダのバビロン補囚、 のように成就していきました。(「ダビデからバビロン移住までが十四代」(マタイ1:17)、 良王ヨシヤは13代目)
  また、申命記28章15節からの のろい(祝福の倍くらい書いてある)については、エルサレム陥落後ディアスポラの民として、1900年もの長期間 ユダヤ民族に成就してしまいました。それは、救い主 御子イエス様を メシヤとして受け入れなかったからです。 

  しかし、この強力な律法であっても、御子イエス様は身代わりに 十字架上で、「自らのろわれた者となられ、律法の のろいを取り除いてくださった」(ガラテヤ3:13)ので、「信じる」私たちにとっては、律法は 今や 罪を悔い改める基準、いわば”鏡”となりました。
  一方、律法は廃棄されたのではなく、信じない人々に対しては、相変わらず さばきの基準になっています。


  ∴ 「そしてイエスは言われた。 「ここから出て行け。サタン。 『あなたの神であるを礼拝し、主にのみ仕えよ。』 と書いてある。」」 (マタイ4:10)




  2) マタイ5:12、 5:3、 5:5、 5:8、 5:11


   「大いに喜びなさい χαιρετε、カイーレテ = マタイ28:9、ヨハネ14:28、使徒15:23、使徒23:26)。 踊り上がって歓喜しなさい(αγαλλιασθε、アラギアスセ = ヘブル1:9 「大歓喜の油」(=イザヤ61:3))。 天においてあなたがたの報いは大きいからです。 あなたがたより前に来た預言者たちをも、彼らは迫害しました。」(マタイ5:12)


  * 山上の垂訓(マタイ5章~7章) のうちの、『幸福の説教』: 8つの幸福(5:3-10) + 至上の幸い(5:11、12)

  「3  μακαριοι(複・男<マカーリオス、blessed、happy) οι(ホイ、the) πτωχοι(プトコイ、主・複・男<プトコス、poor ones) τω(トー、to the) πνευματι(プニューマティ、受・単・中<プニューマ、霊)、 οτι(ホチ、that、because) αυτων(オウトン、所有・複・男<αυτος、アウトス、themselves) εστιν現在・主・3・単<ειμι、to be、to exist、いる、存在する) η(ヘ、単・女、this) βασιλεια(バシレイア、単・女、kingdom、王権、王国) των(トン、複・男、these、which) ουρανων(<オウラノース、heaven、天) 、
  4  μακαριοι οι πενθουντες、 οτι αυτοι παρακληθησονται(未来・被・3・複<パラカレオー、will be consoled)、
  5  μακαριοι οι πραεις(主・複・男<πραυς、プラウス、gentleness of spirit、meek) οτι(that) αυτοι(アウトイ、they) κληρονομησουσιν(<クレロノメーオ、未来・3・複、receive a lot、receive an allotted portion、たくさん受け取る、割り当てられた部分を受けとる) την(テン、受・単・女、which) γην(ゲーン、受・単・女< γη、earth、ground、地)
  6  μακαριοι οι πεινωντες(hunger) και διψωντες(thirst) την(the) δικαιοσυνην(受・単・女、righteousness、義、* ローマ書に29個出てくる)、 οτι αυτοι χορτασθησονται(未来・受・3・複、will be filled)
  7  μακαριοι οι ελεημονες、 οτι αυτοι ελεηθησονται 、
  8  μακαριοι οι καθαροι(主・複・男<καθαρος、カサロース、pure、純粋) τη καρδια(カルディーア、単・女、heart、心、心臓)、 οτι αυτοι τον θεον οψονται(オプソナタイ、未来・3・複< οραω、ホラーオ、see with the eyes(with the mind)、(目で(or 心で))見る)
  9  μακαριοι οι ειρηνοποιοι(peacemakers、平和を作る者たち、* 聖書でここだけ ειρηνη(エイレーネ)、peace は 92箇所ex) ヨハネ20:21 ειρηνη υμιν、平安があなたがたにあるように)、 οτι αυτοι υιοι(フイオイ、sons) θεου(セオウ、of God) κληθησονται(shall be called) 、
  10  μακαριοι οι δεδιωγμενοι ενεκεν(on account of) δικαιοσυνης(righteousness)、 οτι αυτων εστιν現在・3・単、<ειμι) η βασιλεια των(kingdom) ουρανων(heaven) 、
  11  μακαριοι εστε(you are < ειμι) οταν(ホタン、whenever、when) ονειδισωσιν(過去・主・3・複<オネイディーゾー、reproach、侮辱する) υμας(受・2・複、you) και διωξωσιν(過去・主・3・複、persecute、迫害する) και ειπωσιν(過去・主・3・複、said、言う) παν(受・単・中、every、all things) πονηρον(受・単・中、evil、wicked、悪く) ρημα(レーマ、word、declaration、言葉、宣言) καθ(against) υμων(you) ψευδομενοι(現在・主・複・男、lie、falsify、偽る)、 ενεκεν(on account of) εμου(Me) 、
  12  χαιρετε(現在・命令・2・複、rejoice、be grad、喜ぶ、祝う) και αγαλλιασθε(現在・命令・2・複、exult、歓喜、狂喜、大喜び) οτι ο μισθος(ミスソース、単・男、reward、報償) υμων(フモーン、of you) πολυς(ポルース、many、much、large) εν τοις ουρανοις(heaven)、 ουτως(ホウトス、thus) γαρ(for) εδιωξαν(過去・主・3・複<ディオーコ、suffer persecution、迫害する、逃げるようにさせる) τους προφητας(受・複・男、プロフェテス、profets、預言者たち) τους προ(before) υμων(所有・複・2、you) 」

  「3  Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
  4  Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.
  5  Blessed are the meek: for they shall inherit the earth.
  6  Blessed are they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.
  7  Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.
  8  Blessed are the pure in heart: for they shall see God.
  9  Blessed are the peacemakers: for they shall be called the children of God.
  10  Blessed are they which are persecuted for righteousness' sake: for theirs is the kingdom of heaven.
  11  Blessed are ye, when men shall revile you, and persecute you, and shall say all manner of evil words(追加) against you falsely, for my sake.
  12  Rejoice, and be exceeding glad: for great is your reward in heaven: for so persecuted they the prophets which were before you. 」(KJV)


  3: οι πτωχοι τω πνευματι = the poor in spirit = 霊の貧しい者たち = へりくだった人々、の意。
   「霊の貧しい(=へりくだった)者たちは幸せです。 彼ら自身に 天の王国が(今すでにあるからです。」(マタイ5:3)
  現代ヘブライ語聖書でも、 「אשרי עניי רוח כי להם מלכות השמים」(מַתָּי マタイ5:3) で、 עניי (アニイ)、貧しい、 רוח (ルーハ)、

  5: πραυς は、柔和(meek)、または 霊がへりくだっている(gentleness of spirit)、と訳される。 = マタイ11:29 「わたしは柔和で(meek、心優しく)、へりくだっているから(lowly in heart)、」、Ⅰペテロ3:4 「朽ちることのない、柔和で(meek) 静かな(quiet) 霊」 ・・・ 主の前に静まって聞く霊性
   マタイ21:5 「へりくだってろばに乗られる」
   =(引用) ゼカリヤ9:9、 עָנִי (アニイ)は、 1. poor 貧しい(出22:25、申15:11、等)、 2. lowly、humble へりくだった(詩編22:24、イザヤ49:13、イザヤ66:2、等)、の2つの意味があります。 その類似語 עָנָו (アナウ)(イザヤ61:1、「貧しい者に良い知らせを」)も 貧しい と へりくだった の両方の意味があります。

   「柔和な者たちは幸せです。 彼らは地の 割り当て分を受け取ることになるからです。」(マタイ5:5)

  8: 「(心が) きよい(△、clean)、純粋な(〇、pure)」 = 混ざり物がない、水で薄められていない、 の意。 心が純粋に主のものであること。
   「心が純粋な者たちは幸せです。 彼らは神を見ることになります。」(マタイ5:8)

  11: 「わたしのために、 人々があなたがたを侮辱したり、追い出したり、あなたがたに対抗して 偽りの言葉(*)(*アレ型で抜け)で あらゆることを悪く言うとき、あなたがたは幸せです。」(マタイ5:11)




  3) マタイ5:44


   「44 But I say unto you, Love(*) your enemies, bless them that curse you, do good to them that hate you, and pray for them which despitefully use you, and persecute you; 」(Matthew5:44、 KJVNKJV

   「しかし わたしはあなたがたに言います。 あなたの敵を愛しなさい。(* Love大文字:聖霊様によるアガペーの愛) あなたを のろう者を祝福しなさい。 あなたを憎む者に 良くしてやりなさい。 あなたを意地悪く利用したり、迫害する者たちのために 祈りなさい。」 (マタイ5:44)


  ・・・・・ 太字部: 本来のビザンチン型ギリシャ語写本による訳。  cf.アレキサンドリア型の 口語訳、新改訳等では意図的に削除されています! マルコ16:9~20、 マルコ9:44、46、48などと同様に、敵が最も読んでほしくない箇所が改ざんされています。 逆に、このような削除箇所は、現在の私たちにとって 重要度が高い、ということを明らかに示してくれます。

  現在は新約信仰の時代です。 旧約時代は 「汝の敵を憎め」などとなっているのは、当時のイスラエル人たちが あまりにもかたくなだったためであり、モーセと御使いの手によって「律法」が定められたのでした。「目には目を」などは、復讐を限定することにより争いがエスカレートするのを防ぐ意味もありました。(同様の、イスラム教の復讐法によって いつまでも紛争が終結しないので、このことがよく分かります。)
  ここでイエス様が言われている「山上の垂訓」の箇所は、律法の焼き直しではありますが、改めて 完全な御父のみこころを追加して語っておられます。 もちろんこの実質は、人間の力では誰も守ることができず、その後の十字架、復活、そして聖霊降臨によって、信じる者すべてに与えられた「聖霊様」によって初めて守ることができるものです。 敵は、あらゆる神のものを盗んで真似しようとしますが、「愛」については真似ることができません。 正しいさばきは 主がなさることです。

  私たちは「主の祈り」に従って、「試みに遭わせず、悪しき者から救い出してください。」と日頃、祈りますが、それでも時には ヨブのような不条理な災いに遭うことも許されます。 この時こそ、この「敵を愛する祈り」が効果を発揮します。 (名前が分かる場合は)一人一人名前を挙げて、丁寧に祝福を祈って とりなしていきましょう。 あとは主にゆだねましょう。必ず 解決を見ます。

                  → 十字架信仰の力2016 の下のほう

  同じ箇所の ルカの福音書では、
   「27 But I say unto you which hear, Love your enemies, do good to them which hate you,  28 Bless them that curse you, and pray for them which despitefully use you. 」(Luke6:27、28)
   「しかし聞いているあなたがたに言います。 あなたの敵を愛しなさい。 あなたを憎むものに良くしてやりなさい。 あなたを のろう者を祝福しなさい。 あなたを悪意をもって利用する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27、28)

    ∴  「しかし わたしはあなたがたに言います。 あなたの敵を愛しなさい(*アガペーの愛で)あなたを のろう者を祝福しなさい。 あなたを憎む者に 良くしてやりなさい。 あなたを意地悪く利用し、また あなたを迫害する者たちのために 祈りなさい。」 (マタイ5:44)




  4) マタイ6:4、 6:6


   「4 οπως(ホポース、so that) η(エ、may be) σου(ソウ、of you) η(ヘ、the) ελεημοσυνη(エレエーモスネン、alms、施し) εν(in) τω(the) κρυπτω(クルプトー、hidden) και(and) ο(ホ、the) πατηρ(Father) σου(ソウ、of you) ο(the) βλεπων(ブレポーン、looking) εν(in) τω(the) κρυπτω(hiding) αυτος(アウトス、He) αποδωσει(アポドーセイ、shall give、pay、give back) σοι(ソイ、to you) εν(in) τω(the) φανερω(ファネロー、apparent)」
   「4 That thine alms may be in secret: and thy Father which seeth in secret himself shall reward thee openly. 」(KJV)

   「あなたの施しが隠れているためです。 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、明らかな所で あなたに与えてくださいます。」(マタイ6:4)

   「6 συ(ス、you) δε(デ、yet) οταν(ホタン、whenever) προσευχη(プロセウケー、praying) εισελθε(エイセルセ、enter) εις(エイス、into) το(the) ταμιειον(タミエイオン、① storeroom(物置 *ルカ12:4「倉」)、② secret room(*ルカ12:3、マタイ24:26と同じ)) σου(of you)、 και(and) κλεισας(クレイサス、lock) την(the) θυραν(スーラン、door) σου(of you) προσευξαι(プロセウクサイ、pray) τω(to the) πατρι(Father) σου(of you) τω(to the one) εν(in) τω(the) κρυπτω(クルプトー、hiding)、 και ο πατηρ(Father) σου(of you) ο βλεπων(ブレポーン、looking、observing) εν(in) τω(the) κρυπτω(hiding) αποδωσει(pay、give) σοι(to you) εν(in) τω(the) φανερω(apparent) 」
   「6 But thou, when thou prayest, enter into thy closet, and when thou hast shut thy door, pray to thy Father which is in secret; and thy Father which seeth in secret shall reward thee openly.」(KJV)

   「あなたは 祈るときはいつでも 自分の隠れた部屋に入り、戸に鍵をかけて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、明らかな所で 与えてくださいます。」(マタイ6:6)





  5) マタイ10:39、 16:25


   「39 He that findeth his life(△)soulψυχη プシュケー、たましい、〇) shall losedestroy it:  and he that losethdestroy) his lifesoul for my sake shall find it.」(KJV、△)

   「たましいを見出す者は それが壊れ、わたしのためにたましいを壊す者は、それを見出す。」

 = 「人間的な思い(生身の人の知・情・意)を見出す者は それが壊され、 わたしのために肉の思いを破壊する者は、神の思いを見出す。」(マタイ10:39)


  ψυχη プシュケーは、広い意味を持ち、「たましい(soul)」とも「いのち(life)」とも訳せる言葉ですが、大事なのは その解釈です。 前節の38節 「十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」は、必ずしも「殉教」だけを言っているのではありません。 主に従っていく道は、自分の人間的な たましい(知性・情操・意志)を破壊して捨て去り(=自分の計画を捨て去り)肉の思いを十字架につけて、主の語られる言葉を「聞いて」、主について行く道であることを、正しいギリシャ語原文(Textus Receptus(1894) の訳文 )では言っています。 これは、「聖霊様に従って歩む道」で、いわゆる 「主の御声に聞く歩み」について言っています。(→ 金山師メッセージ

   ローマ8:14、15 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」


  * βιος(ビオス): 終わりのある生命、人生、生活(life)、財産 ・・・ マルコ12:44、 Ⅰヨハネ2:16
    ζωη(ゾエ): 終わりのない生命、いのち(life)、永遠のいのち ・・・ (ヨハネ文書で多用。 ヨハネ1:4、ヨハネ14:6 など)   ヘブライ語では חַי (ハイ) 生ける(神)(エル ハイ)
    ψυχη(プシュケー): (語源) → (転じて) 肉体的ないのち(life)、 心、 (人の)たましいsoul)、 人間的な思い・考え。

  ヘブライ語では נֶפֶשׁ (ネフェシュ): イザヤ53:11 「たましい(の激しい苦しみ)」 ・・・ イエス様が十字架で 御父と分離された時に受けた たましいの苦しみ。(→ 十字架上の7つのことば 4.) 、 申命記6:5 「すべての心で、すべてのたましいで、すべての力で、(あなたの神であるを愛しなさい。)」 = マタイ22:37
  cf. 霊: רוּחַ (ルーハ) 旧約聖書でも たましいと区別している。
     Ⅰテサロニケ5:23 より、 「(主の再臨の時、) 霊(πνευμα、プニューマ)」、 たましい(ψυχη、プシュケー)、 体(σωμα、ソーマ) が完全に守られますように。」 ・・・ 人の3層構造。 霊は実体、 たましいは 知・情・意という精神活動を担う場所。




  6) マタイ13:52


   「52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者(×)は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである。」(マタイ13:52、口語訳、新改訳 等)

  (WordPlanet ギリシャ語)「ο δε ειπεν αυτοις  δια τουτο πας γραμματευς(scribe = 語られた7つのたとえ(○)、 teacher of the law(NIV)×)、 μαθητευθεις εις την βασιλειαν των ουρανων ομοιος εστιν ανθρωπω οικοδεσποτη οστις εκβαλλει εκ του θησαυρου αυτου καινα και παλαια 」

   「52 Then said he unto them, Therefore every scribe which is instructed unto the kingdom of heaven  is like unto a man that is an householder, which bringeth forth out of his treasure things new and old.(KJV)

  「γραμματευς」は、(直前に語られた 「7つのたとえ」を学んだ) 「scribe(筆記者、書記)」 。 律法学者 teacher of the law(NIV)× ではない

  (* 注意) マタイ12:31、32で、「聖霊に逆らう冒涜だけは赦されない」と語られたのは、この時代の、この時の宗教家たちについてだけです。 イエス様のところに来るならば、すべての罪は赦されます。そしてイエス様は、これ以降は、「たとえ」で語られました。 「多く与えられた者は 多く求められる」の原則によります。


  ∴ 「そこでイエスは彼らに言われた。 「それゆえ、天の王国について(この7つのたとえを)教えられた筆記者のすべては、新しい あるいは 古い 宝を持ち出す 一家の主人のようです。」」(マタイ13:52)




  7) マタイ17:21、マルコ9:29、使徒行伝10:30、Ⅰコリント7:5


  「断食、fasting あるいは 「祈りと断食、prayer and fasting の欠落(太字部 ↓)。 改ざん写本(アレキサンドリア型)の シナイ写本、バチカン写本等では、「断食」の部分が故意に欠落され、日本語訳(口語訳、新改訳など)でも欠落しています。

   「21  Howbeit this kind goeth not out but by prayer and fasting. 」(KJV、マタイ17:21) ・・・・ アレキサンドリア型では、この1節が丸ごと括弧入り

   「29  And he said unto them, This kind can come forth by nothing, but by prayer and fasting. 」(マルコ9:29) ・・・・ アレキサンドリア型では、「断食」が抜けている

   「30  And Cornelius said, Four days ago I was fasting until this hour; and at the ninth hour I prayed in my house, and, behold, a man stood before me in bright clothing, 」(使徒10:30)

   「5  Defraud ye not one the other, except it be with consent for a time, that ye may give yourselves to fasting and prayer; and come together again, that Satan tempt you not for your incontinency(=失禁). 」(Ⅰコリント7:5)


  断食する、fast (= 急速、堅く締まった、精進、断食 → breakfast :断食を中止する=朝食) 
  モーセは40日40夜断食してから律法を授与されました。(出3:28)、 ニネベの人たちの悔い改め(ヨナ3:5)、 数日間 民の不信仰の罪の悔い改め(ネヘミヤ1:4)、 終末70週の預言の授与(ダニエル9:20-)、 聖霊様による働きへの召し(遣わされる方も、送り出す方も断食)(使徒13:2、3)、 イエス様ご自身が聖霊を受けられてから 本格的な御働きの前の、40日断食(マタイ4:2) ・・・・・ このように、断食とは、主のことばを受け取る、罪の悔い改め、本格的な働きの臨んで、まず 主の前に自分のたましいを正して、悔い改めること。

  「6  わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。」(イザヤ58:6)
  のように、「解放」 と 「救い」、「霊的刷新」 を目的とする断食を主は喜ばれます。

  特に「この類のもの」(マタイ17:21、マルコ9:29)とは、「幼い時から」 ・・・ (それほど強い者でなくても、)時間が経っているもの悪霊との関係が強固なもの、 からの解放には断食祈祷が必要です。
  「信仰が薄い」(マタイ17:20)とは、「無いに等しい」という意味。断食の祈りを通して与えられる神の言葉が「」となって 成就していきます。ただし、断食は霊的に敏感にして、偽りの言葉も来るので、断食後に必ず吟味する必要があります。


  敵は、聖書改ざんを通して、この「断食」を葬り去ろうとしましたが、このことによって逆に、「断食祈祷」がどんなに強い祈りであるか、解放に必要なものであるか(祈られる方も)が 強く示されました。
  40日の断食は聖霊様によって特に導かれなければ危険ですが、1-3日程度の断食(水断食=少量の水(+ごく少量の塩)だけ摂る))ならば、安全・手軽に、誰でもできます。(悪習慣からの解放。 また、肯定的な信仰を得て、勝利する。 意志の強化。 癒し、体質改善。) また誰でもするように、(本来の)聖書が推奨しています



   「31  しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 」(イザヤ40:31)

   ・・・・ 鷲などの猛禽類は、年を取ると羽が抜け飛べなくなるが、崖っぷちにしばらく何も食べないでぶら下がり、再び羽が生えてくる。これをその生涯のうちに数回繰り返す。


  ∴ 「しかしながら、この種類のものは、祈りと 断食によらなければ出て行きません。」(マタイ17:21)

     「そして彼らに言われた。 「この種のものは、 祈りと 断食以外の方法では、何によっても出て行きません。」(マルコ9:29)

     「そしてコルネリオは言った。 「4日前に、この時刻まで私は断食し、家で第9時(午後3時)の祈りをしていました。 すると、なんと、一人の男が 光り輝く衣を着て私の前に立って、」(使徒10:30)

     「(夫婦間で)互いの権利を奪ってはいけません。((直訳)互いに詐欺を働いてはいけません ・・・ 夫婦であるのに性的交渉を拒絶するなど) ただし、同意の上で あなた方自身を断食と祈りに捧げ、その後で再び一緒になること、は除いてですが。 それは、あなたがたが自制力を欠くとき((直訳)失禁するとき) サタンの誘惑にかからないためです。」(Ⅰコリント7:5)




  8) マタイ24:15、 24:16-20


   「15 οταν ουν ιδητε το βδελυγμα(ブデールグマ、単中、abomination、忌むべきもの、憎むべきもの) της ερημωσεως(△<エレモシス、所有・単女、desolation(△)、荒廃(△)) το ρηθεν δια δανιηλ(Daniel) του προφητου εστως εν τοπω αγιω ο αναγινωσκων νοειτω
   「15 When ye therefore shall see the abomination of desolation(△), spoken of by Daniel the prophet, stand in the holy place, (whoso readeth, let him understand:) 」(KJV)

   「荒らす(△)忌むべきもの」 は、 ダニエル9:27 の原文では、

   「וְעַל כְּנַף שִׁקּוּצִים מְשֹׁמֵם」 = 「ウェ アル and on、 ケナフ wing(単女) (* 神殿の至聖所に置かれた契約の箱の蓋の「ケルビム」のこと)、シクーチイム detestable things(男)、מְשֹׁמֵם メショーメム(< שָׁמֵם シャーメム、desolate、荒廃させる の polel態(強調・使役)で、) appallingぞっとするような、凄まじい、驚かせるようなひどい」
  反キリストの偶像は、にせ預言者が霊を与えて ものを言うことさえもできるようにするもので、かなり気持ちの悪い霊的なものです。(黙示録13:15)

  ∴ 「ぞっとするような忌むべきもの(複数)が、翼に現れる。」(ダニエル9:27)

  cf. שָׂמֵמ 荒らす: Qal態(原形): שֹׁמֵמוֹת ショーメモース、分詞・複女、「(主が)荒らした(ゆずりの地を継がせよう)」(イザヤ49:8)、
          Niphal(受動)態: נָשַׁמּוּ ナーシャムー、「(道は)荒れる」(イザヤ33:8)、
          Hiphil(使役)態: אֲשִׁמֵּם エシャメム、未完・1単・3複男尾、「(わたしが彼らを)荒廃させる(ゆえに、)」(エゼキエル20:26)、
          Hithpolel(再帰・相互)態: וַיִּשְׁתּוֹמֵם ワ イゥシェトーメム、「(とりなす者がいないのに)驚かれた」(イザヤ59:16)、 Hithpolel態: וְאֶשְׁתּוֹמֵם ウェ エシェトーメム、未完・1単、「(見たが、誰も助ける者はなく、)私はいぶかったが、」(イザヤ63:5)、 Hithpolel態: יִשְׁתּוֹמֵם イシェトーメム、未完・3単男、「(私の心はわたしのうちで)こわばりました」(詩篇143:4)

  また、 ダニエル9:27 の שִׁקּוּצִים シクーチイム は複数であり、これは 第2神殿(ソロモンの神殿)で、シリアのアンテオコス・エピファネスが 複数のブタの血(律法で汚れたものとされる)をささげたことにより 成就(BC171-165)し、一方、イエス様が預言された新約聖書のほうでは 単数であり、世の終わりにエルサレムに建てられるはずの「第3神殿」に、一つの 「反キリストの偶像」が据えられることを語っています。 現代新約ヘブライ語でも、
   「לכן כאשר תראו שקוץ משמם」 = 「ラーケン so、 カエシェル when、 セレオー see、 シクーチ abomination(単数)、 メショーメム (同じ polel態appalling


  ∴ 「それゆえ、預言者ダニエルによって語られた、『ぞっとするような 忌み嫌うべきもの』が 聖なる所に立つのを見たならば、 (読者は理解するように) 」(マタイ24:15)



  24:16 「そのときは、ユダヤにいる人々は 山(複数・山地)へ逃げなさい。」(AD67年の時は、デカポリスの ペラ だった。(→ 十字架信仰2015)」(マタイ24:16)
    :17 「屋上にいる者は家の中のものを持ち出そうと下に降りてはいけません。」 屋上の間は、祈ったり、瞑想したり、話をしたり、伝道したりするところで(「耳元でささやくことを、屋上で言い広めよ」)、外階段を伝って降りることができるが、家の中に入ってはいけない、という意味。
    :18 「にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」 これも同様に、伝道にかかわる言葉(畑で収穫)。 着物=外套、上着
       「いなかにいる人たちは、都に入ってはいけません。」(ルカ21:21) ・・・ ソドムへの裁きの時の、アブラハムとロトとの行き方の差を思い起こさせる。(創世記19)

    :19 「だが、その日 悲惨なのは、身重の女と乳飲み子を持つ女です。」  ルカの福音書で成就したのは、ローマ軍による兵糧攻めのため、逃げることができなかった人々の、親が子を食べるという凄惨な状況になり、妊婦は八つ裂きにされた、など。 マタイ、マルコのこれからの預言では、救われて間もない人、あるいは 求道者、毒麦 が このとき教会の中にいてはならない ことを意味します。 人々が霊的に成長していない、リバイバルしていない教会 は悲惨。 「ουαι オウアイ、woe、aras、ああ、災いだ、悲惨」((感嘆詞として) =マタイ11:21「ああ、コラジン、ああ ベツサイダ、・・・」 ・・・ 道徳的には善人の町なのに、天から来られた御子イエス様を拒絶したので、ソドムやゴモラよりも厳しい裁きになります。) ・・・ 現代の教会で、生けるまことの神の子 イエス様を拒絶していないだろうか?

    :20 「ただ、あなたがたの逃げるのが、安息日ならないよう祈りなさい。(*)」
  ヘブライ語聖書では、「לא תהיה בחרף ולא בשבת」 = 「ロー not、スハヤー become、ベ ホレフ in winter、ウェ ロー and not 、ヴェ シャバス in Sabbath day」 חוֹרֶף ホーレフ 冬(イスラエルの冬季  ⇔ קַיִץ カイツ 夏(夏季)、夏のくだもの。 季節は、夏か冬しかない。聖書ヘブライ語には 春、秋という言葉は無く、先の雨、初めの雨 מוֹרֶה モーレー、former rain、first rainfall (=秋の雨)、終わりの雨 מַלְקוֹשׁ マレコーシュ、latter rain (=春の雨)(ヨエル2:23) という言葉が使われた。 現代ヘブライ語での”春”は אָבִיב アビブ(3-4月)を流用。
  ギリシャ語では、 χειμωνος (< χειμων ケイモーン、 「」(ヨハネ10:23、Ⅱテモテ4:21など) とともに、「暴風雨」、「荒天」の意味があり(マタイ16:3)、 使徒27:20 では、:9 「断食の季節も過ぎ、」=10月の「贖いの日(ヨム・キプール)」であり、大体 この日を境にユダヤの「冬」となります。 実際的な夏・冬だけではなく、社会的に荒れた期間:「冬」と リバイバル状態の実り多い時期:「夏」の差も関係あると思われます。
  また、安息日は、 שַׁבָּת シャッバース、σαββατον サッバトン、Sabbath、で、大体 土曜日(*イスラエルとは6時間の時差、イスラエルの夕方=日本の夜0時頃 から1日間。 
  ルカの時代では、冬は雨が多く逃げるのが困難、 安息日は歩く距離の制限(700~1100m(使徒1:12))という、聖書には書いていない当時のおきて(言い伝え)がありました。
  ( * パリサイ人たちの間では、口伝律法が聖書(モーセの律法)以上の権威を持っていました。イエス様が批判された「言い伝え」とは口伝律法のことで、これは後に ミシュナーとして成文化された。)


  * ヨセフォスの『ユダヤ戦記、 Ⅱ540、(xix(=19), 7)』によれば、 AD67年の秋、シリア属州の総督の ケスティウス・ガルスは包囲していたエルサレムから不可解な撤退を行いました。 (この時代の地域支配者:フィリポ、ルサニア、ヘロデ・アンテパスなど、 ローマ総督:ポンテオ・ピラト、ペリクス、フェスト、 王:アグリッパ1世(ヘロデ大王の孫)と2世(その息子) エルサレムの反乱軍が追撃に出かけ、エルサレムから北西19キロのベテ・ホロンでローマ軍を大敗させた。(これがのちに大規模な報復となり、AD70年にティトゥスによってエルサレムが陥落することになる。壮麗なヘロデ神殿がBC20年から改築を開始して64年に完成した、そのわずか6年後に炎上。) 熱心党らによって城外に出ることを禁じられていたキリスト教徒たち(+親ローマ派の人々(サドカイ派、パリサイ派など))は、この時、ヨルダン川を渡って 「山々の地」 = デカポリスの ペラなどに脱出することができました。(脱出地ペラはあらかじめ示されていたという。)

  ここで残念なのは、この逃げる時が、AD67年の11月25日(水)(ユダヤ暦ではキスレウ(9月)の終わりの日(30日))であり、イスラエルの「」の季節に入っていたことです。ユリウス暦の”四季”ではぎりぎり秋。(曜日は水曜日参照で、「安息日」(土曜日)ではなかった)
  ∴ ペラに脱出したユダヤのキリスト者たちは、異邦人クリスチャンたちと混じって細々と生活し、エビオン派(”貧民(אֶביוֹן エヴィオーン、pauper、(cf.עָנִי アニー、poor、貧しい、へりくだった))”の意味、禁欲的、イエスの神性を否定する異端)と呼ばれる宗派を作り(2世紀最盛期)、それも4-5世紀には消滅した。   ・・・・ 脱出後の予後は ロトの子孫のようになった?





  9) マタイ24:29、 マルコ13:25、 ルカ21:26


   「29 Immediately after the tribulation of those days shall the sun be darkened, and the moon shall not give her light, and the stars shall fall from heaven, and the powers of the heavens shall be shaken:」(KJV)

   「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星々は天(単数)から落ち、天(複数)の力(複数)(万象×)は揺り動かされます。」(マタイ24:29)

  ・・・・ 創世記1:1では、
     הַשָּׁמַיִם  ハ シャマイム(男・複)、the heavens
     הָאָרֶץ   ハ アレツ(女・単)、the earth

  ユダヤには伝統的に7つの天(エノク書など)という説もありますが、聖書的には、「第3の天」(Ⅱコリント12:2)から、トータル3つで良いのではないかと思われます。
  ヘブライ語新約聖書のⅡコリ12:2では 
רָקִיעַ (ラーキーア) =「大空」(創世記1:6) を使用。

  このマタイ24:29の天(複数)は、 第1の天: 宇宙、  第2の天: 御使いと堕落天使が混在する霊界  の両方です。(ヘブライ語訳では、「天(ハシャマイム)」で 単数、複数の 両方扱い)
  第1の天は、宇宙であり、そこから 星々が地上に落下する(黙示録6:13、heaven・単数
  第2の天については、 「heaven・単数・男性)で戦いが起こり、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。 ・・・ 彼(竜)は地上に投げ落とされ、彼の使いとともに投げ落とされた。」(黙示録12:7-9)  とあるように、 ミカエルを長とする御使いたちが堕落天使どもを追い出す戦いが行われ、サタンが地上に追い出された後は 地上に「大艱難期」が来ます。(地=イスラエル、海=異邦)
   = 空中(air)の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2:2)

  ビザ型でもアレ型でも、 揺り動かされるのは (δυναμεις、 power) ・・・ 宇宙を構成する力 + 霊的な力  であり、 日本語訳のみが 宇宙のみに限定した”万象”(×)で 誤訳です。

  霊の戦いの一つの形として、第1、第2の天と 地上との関係を断ち切り、地上の悪霊を同士討ちさせる方法があります。(→ ジョン・ラミレス師メッセージ





  10) マタイ24:36


   「その日、その時は、(人々は)だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない(×)、ただ父だけが知っておられる。」(マタイ24:36、 口語訳 ← アレ型写本)
   「 περι δε της ημερας εκεινης και της ωρας ουδεις οιδεν(オイデン<οιδα、know) ουδε οι αγγελοι των ουρανων(nor the angels of heavens) ουδε ο υιος(nor the Son、 ×)  ει μη ο πατηρ(Father) μου μονος.」(×、アレ型ギリシャ語訳)

   「But of that day and hour knoweth no man, no, not the angels of heaven, but my Father only. 」(○、 KJV ← ビザ型写本)
   「 περι δε της ημερας(日にち、the day) εκεινης και της ωρας(時刻、the hour) ουδεις(no man) οιδεν(オイデン・2完・3単<οιδα、know) ουδε οι αγγελοι των ουρανων(nor the angels of heavens(複数))  ει μη ο πατηρ μου μονος(that not the Father only).」 (○、 ビザンチン型ギリシャ語訳ワードプラネット

  アレキサンドリア型(シナイ写本、バチカン写本など)では、「子も知らない」という余計な挿入により改ざんされています。(*) このことは、御子の神性を貶(おとし)めることにほかなりません。 御子は完全に神であり、御父と一体です。アレ型聖書による、御子が「知りたくもない」という解釈も一般にありますが、終末の再臨の時には、イエス様はまさに当事者の中の当事者であり、当然知っていることになります。 その時知っておられるという事が、まさに 「」であることのあかしです。 一方、被造物である 人や御使いは知らなくても良いことです。
  いつまでが 人が救われる時であるかの分岐点は、神の権限にあります。御子の再臨と同時に、「信仰」による救いのチャンスが永遠に閉ざされてしまうからです。(「落穂拾い」の時間はその後も若干あると考えられます(黙16:15、サルデス(残りの者、黙3:3、4))。) ・・・ 「イエスのあかしは預言の霊です。」(黙示19:10)

  * 「(しもべ)として」のイエス様を記述している マルコの福音書13:32 では、ビザ型、KJVにも、「子も知らない」は入っています。これは、文字通り”知らない”のではなく、「知りたくもない」と解釈されます。 cf.使徒行伝1:7 ・・・ 「あなた方は知らなくてもよい」ということが強調されている。
   ⇔ マタイの福音書ではイエス様を ほぼ「教師」として見ているので、「三位一体」、「御子の神性」という点で、一切 妥協はしていない


  ● 終末の箇所の用語:
  ・ マタイ24:28 「死体(単数)のあるところには(全地の)どこででも 鷲(複数)も集まる。」 死体:「πτωμα、 プトーマ」=「wheresoever the carcase is」(KJV)(単数) = 反キリストの偶像(全世界の教会に置かれ、にせ預言者がこれを拝ませる。 ハバクク1:8 の鷲も 反キリストの軍隊を表す。良い意味では言っていない。)
  = ルカ17:37  (人の)体: 「σωμα、 ソーマ」=「Wheresoever the body is」(KJV)(単数) = 反キリストの偶像、いのちの無い体
    ・・・・ ただし直前の 「主よ、どこですか?」(「που κυριε」、「Where, Lord?」)は、文学的な一貫性が無くギャップがあって、37節の一文は、それ以前の36節までと比べ浮いていると考えられる。
  cf. 黙示録11:8の「彼ら(イスラエルの2人の預言者)の死体」 の 「死体」:「πτωματα、プトーマタ」(複数)。 (アレ型では「プトーマ」(単数) ×)

  ・ ルカ17:36 「二人の男が畑にいると、一人は取られ、他の一人は残される。」 ← この一文は丸ごと、アレ型聖書では抜けている

   「取られ」(παραληφθησεται、未来・受動・3単、take、take up、receive)とは、ヨハネ14:3の「迎える」(παραληψομαι、未来・1単)と 同じ言葉。(原型: παραλαμβανω、パラ ラムバノー)
    ・・・・ 主の再臨の時に、御使いたちによって天に携え上げられる時は、ある一瞬であり、昼・夜問わず、全地球レベルで同時に行われることを表しています。 (もちろん、艱難期 前 携挙 ではない。)

  ・ マタイ20:16 「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。(× 抜け)」(口語訳) → 「So the last shall be first, and the first last: for many be called, but few chosen.(それは、呼ばれる者は多いが、ほとんど選ばれないからである。)」(KJV)  ・・・ すべては 神の恵みとあわれみの ご一方的な裁量によります。 気前の良い報酬にも、召しの選びにも、主の主権を認めること。
  ・ マタイ24:7 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、(× 抜け)、また地震があるであろう。」(口語訳)  → 「For nation shall rise against nation, and kingdom against kingdom: and there shall be famines(飢饉、食料不足), and pestilences,(疫病) and earthquakes(地震), in divers places.」(KJV)

  ・ マタイ24:8 「しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(△~○、口語訳) = 「All these are the beginning of sorrows.(悲しみの初め)」(KJV)
   = 「παντα(all) δε ταυτα(these) αρχη(アルケー、beginning, 初め、根源、 単・女) ωδινων(オーディノン、所有格・複・女) 」 ・・・ ωδιν(オーディン、 sorrow,悲しみ、(古)心配、 pain,苦痛、 labour,労働、 travail,陣痛)より、「生みの苦しみ」と意訳したもの。 終末の前兆であり、キリストの降臨、また、再臨に先立つもの。

    ・・・・ 人間の罪によって虚無に服してきた被造物の世界も、切実な思いで、御子イエス様の再臨による義の支配を待ち望んでいる(ロマ8:19、20)。



  ∴ 「その日、その時刻は、人々はだれも知らない。天の御使たちも知らない。(*) ただ父だけが知っておられる。」(マタイ24:36) ・・・ *「子も知らない」 とは書いていない

     「死体単数、反キリストの像)のあるところには、ハゲタカ(複数)も集まります。」(マタイ24:28、 cf.ルカ17:37)

     「二人の男が畑にいると、一人は迎えられ、他の一人は残されます。」(ルカ17:36) ・・・ 天に携え上げられるときの様子

     「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになります。 それは、呼ばれる者は多いが、ほとんど選ばれないからです。」(マタイ20:16)

     「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるでしょう。またあちこちに、ききんが起り、疫病が流行し、また地震があるでしょう。」(マタイ24:7)




  11) マタイ28:9、 使徒15:23、23:26


   「και ιδου(behold、見よ) ο ιησους(イエス)  απηντησεν(meet)  αυταις(them)  λεγων(said)  χαιρετε(<χαιρω、カイーロー、rejoicebe glad)」

   「おはよう(×)」 →  「すると、イエスが彼女たちに出会って、「大いなる喜びあれ。」と言われた。」(マタイ28:9)

  この「χαιρω」は、丁寧なあいさつ の形として変化し、

   「使徒 および 長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに、大いなる喜びのあいさつをいたします。」(使徒15:23)

   「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下に、 喜びのごあいさつを申し上げます。」(使徒23:26)


   cf. 「 ・・・ イエスが来られ、彼らの中に立って、言われた。「平安があなたがたにあるように。」」(ヨハネ20:19)  ・・・ 「ειρηνη(エイレーネ、peace) υμιν(ヒュミン、to you)」

       「エリシャは彼に言った。 「平安が共にあれ。」」(Ⅱ列王記5:19)  ・・・ 「L ShLWM、 レ シャローム、 with peace」





  12) マルコ4:24


   「24 And he said unto them, Take heed(心に留める) what ye hear: with what measure ye mete(与える、割り当てる), it shall be measured to you: and unto you that hear(抜け) shall more be given. 」(KJV)

   ・・・・・ ”量るとおりに量られる”、というように憶えていますが、 むしろ、まず主の言葉を 「聞く」 ということにポイントがあります。

         →  (参照) エペソ全体  の下


   ∴ 「そして彼らに言われた。 あなたがたが聞くことに心に留めなさい。 あなたがたが 与える量りによって、あなたがたも量られる。 そして 聞くあなたがたに、さらに与えられる。」(マルコ4:24)




  13) マルコ7:21、22、 マタイ6:22、23 NEW 2017 6/20


   「21 For from within, out of the heart of men, proceed evil thoughts, adulteries, fornications, murders,
    22 
Thefts, covetousness, wickedness, deceit, lasciviousness, an evil eye(οφθαλμος(eye、単・男) πονηρος(wicked、単・男)), blasphemy, pride, foolishness:

   「内側から、すなわち人々の心から出るものは、 悪い考え、姦通、姦淫、殺人、
    盗み、強欲、悪意、詐欺(だましごと)、(病的な)好色、 邪悪な目(→ マタイ6:23 物惜しみすること・ケチなこと・物欲)、 神への冒涜、高慢、愚かさ であり、」(マルコ7:21、22)


   「22 The light of the body is the eye: if therefore thine eye be single, thy whole body shall be full of light.
    23 But if thine eye be evil(ο(the) οφθαλμος(eye) σου(of you) πονηρος(wicked)), thy whole body shall be full of darkness.  If therefore the light that is in thee be darkness, how great is that darkness!

   「体の明かりは目です。 それゆえ もし あなたの目が 一つ心である( ο(the) οφθαλμος(eye) σου(of you)απλους(single))なら、体全体は光に満たされます。
    しかし、もし、あなたの目が邪悪であれば、あなたの全身は暗いでしょう。 それゆえ、もしあなたのうちの光が暗ければ、なんと暗闇が深いことでしょう。」(マタイ6:22、23)

  ・・・・・  これは、20、21節の 「自分の宝は天に蓄えよ」 と同じことで、 「目が邪悪」とは、ユダヤの慣用的表現で 「ケチなこと、物惜しみすること、物欲に支配されていること」 を意味します。(→ 申命記15:9(物惜しみして=(直訳)目が邪悪になって)、 箴言23:6、28:22)

   ex) 「目つきの悪い人רַע(ラー、邪悪な(単・男))、עָיִן(アーイン、目(単・女)))のパンを食べるな。 彼のごちそうを欲しがるな。」(箴言23:6)




  14) マルコ11:22 ~ 24


  マルコ11:23、24は ヘブル11:1-と共に、有名な「信仰」の箇所です。

   「22 神を信じなさい」(新改訳 ×、マルコ11:22)は、直訳すると、 神の信仰を持ちなさい(εχετε(命令・2・複、 have、 own、carry <εχω(エコー))  πιστιν(faith)  θεου(of God))、 すなわち、 人の信仰ではなく、神が先導される大胆な信仰(山が動いて海に入るほどの)を持つことができる と言っています。

  そのためには、ほんの少しの 神様からの言葉・ビジョン(「からし種」)が必要です。 ((注) 信仰の土台は「神の言葉」です。初めの神の言葉無しで、無理やり信仰の歩みをしても 成就しないので注意。 いわゆる”成功哲学・繁栄の神学”は、神の言葉なしに(イエス・キリスト無しに)幸福を追求するという、ニューエイジの典型的な惑わしです。)


   「23 まことに、あなたがたに告げます。 だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って(ειπη、アオ過去(瞬時過去)・3・単)、心の中で 疑ったことが無く(διακριθη、分離、区別する、 未完了過去(過去進行形)、3・単)、ただ、自身の(今)言っている(λεγει、現・3・単)通りになる(γινεται、become、現・3・単)と (今)信じている(πιστευση、現・3・単)なら、その通りに在るでしょう(εσται、it will be、未来・3・単 < ειμι)。(マルコ11:23)
    ・・・・・ 宣言したことは、現在そのようになっているとして振舞い続ける (語ること + 信仰の歩み)

   「24 だからあなたがたに言うのです。 祈って求めるものは何でも、すでに受けた(△)と信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24、新改訳)
   「24  Therefore I say unto you, What things soever ye desire, when ye pray, believe that ye receive(△) them, and ye shall have them. 」(KJV)

   「24  δια  τουτο  λεγω  υμιν,  παντα  οσα  αν  προσευχομενοι(prayer)  αιτεισθεdesire、ask),  πιστευετε(現・命令・2・複、you believe)  οτι  λαμβανετε未完了過去(過去進行形)・2・複、 were receiving(○)),  και  εσται(it will be、未来・3・単 < ειμι(I am)) υμιν(unto you)」(ワードプラネット・ギリシャ語: ビザンチン型(○)・・・Ⅰヨハ5:7がある、Ⅰテモ3:16「神 Θεος」
  ( ⇔ cf. 「δια  τουτο  λεγω  υμιν, παντα  οσα  προσευχεσθε(pray) και αιτεισθε,  πιστευετε  οτι  ελαβετε(アオリスト(瞬時過去)・2・複、 received(△)), και  εσται  υμιν 」(CBOL新約・台湾語訳: アレキサンドリア型(×)・・・Ⅰヨハ5:7が無いⅠテモ3:16「それΟC」、 ただし このサイトは語句・文法を調べるのに有益旧約はマソラ訳で良い))

    ・・・・・ λαμβανω(ランバノウ、 receive、take、have、 受け取る)が、 ビザ型ギリシャ語訳では、 λαμβανετε未完了過去(=過去進行形)・2・複were receiving)です。  cf. 改ざんの アレ型(シナイ写本など)では ελαβετε(アオリスト・2・複、 received) で正しくない。

  ∴  24 祈って熱烈に求めるものは何でも全て、(祈ったり見たり語ったりしているうちに)受け取り続けていた と信じなさい。そうすれば、それは在るようになる(マルコ11:24)

というニュアンスになります。 これは、一回きりの受け取った体験ではなく、(祈りや語る言葉やあらゆる生活の中で)継続的に受け取り続けている体験しばらくは必要であることを言っています。
  ・ 創世記1:2の、聖霊様による「孵化」の段階。 「神の霊は、大いなる水の上を舞いかけていた」 ・・・・・ いわゆる”継続は力なり”


  * 動詞の4つの時制の関係:  ① 現在形、 ② アオリスト(=瞬時過去形、一回的な、決定的な出来事)、 ③ 未完了過去(=過去進行形)、 ④ 現在完了形(② → ③ → ①: まず過去に一回的な出来事があって、それが過去進行形で続き、現在もその状態にある、これがギリシャ語の完了形の意味)
  たとえば、
  ・ ルカ7:47 では、「この女の罪は (すでに、今も)赦されています。(現在完了形、受・3・複、 αφεωνται < αφιημι) というのは、彼女はよけいに愛したからです。(アオリスト=単純過去形、 ηγαπησεν < αγαπαω(アガパオー))」 すなわち、この女性が 過去に一度 イエス様を誰よりも愛したので、そのときから現在に至るまで、継続的に、多くの罪が赦されているということです。
  ・ ヨハネ19:30 「完了した」、 τετελεσται(テテレスタイ、完・受・3・単)は、現在完了形で、 「(罪の代価を全部まとめて(3・単数))完済された(受)」という意味。 テテレスタイは完済を表す当時の印(商業用語)。 < τελεω(テレーオ、 pay、finish、pass、close)



  ・・・ 神様は ただ熱烈なお方であり、なまぬるいのが大嫌いです。 たとえば、チョーヨンギ師の教会成長、教会堂建設では、 願い(desire)・・・燃えたぎるような願い を持って、この願いと共に生き、ともに眠り、ともに歩んでいました。彼は、韓国一の教会を建てたいという願いを20年間も持ち続けていたのでした。(was ~ing) また、建設時には、建設用地を何百回と歩き回り、その都度 聖霊様のあふれる臨在があったそうです。

  ・・・・・ 「見ること」、「語ること」、「足で歩き回ること」は、すなわち「所有すること」になる。
  「みなすこと」: シモン(葦、風になびきやすい) → ペテロ(岩、不動のもの)、イエス様は3年の間 シモンにペテロと名付け こう呼ばれたので、ペテロはその名の実質へ変えられていった。 父なる神への神観によって、主からの恵みの受け取り方が違ってくる。 預言者を預言者として受け入れるならば、預言者の受ける報いを受ける。人を見る量りによって 量り返される。 神様の目から物事を見る。ギデオンは勇士だ。
  「霊の目で見る」: チョーヨンギ師も、信仰の試練に遭った期間は、目を開けているよりも 目をつぶっている時間の方が長かった。(現状を見ず、信仰で見るために)
  「お着物にでもさわることができれば、きっと直る。」(マタイ9:21) 強い願いをもって、継続的にそう考え、言い続けてきた。→ 「あなたの信仰が救ったのです。」(:22)

  ・ 「信仰は 望んでいる事がらの実体(保証)であり、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
  ・・・ この「実体(保証)、 υποστασις(ヒュポスタシス)」とは、 「実体、不動産権利証書、有価証券」という意味です。 この「実体」を神様から受け取る時、 大きな山が 手のひらに乗る”小石”のようになります。 (チョーヨンギ師の場合は、毎年1000人、1970年からは毎月1000人以上集められ、1982年には 22万人の教会になり、また 大きな教会堂建設の12億円(当時)もの証券が 合法的に自分のものになりました。((参考) 『第四次元』、パウロ・チョーヨンギ著、p43、p204他))

  ・ ヤコブ4:3 にも全く同じ λαμβανετε(未完了過去・2・複)が用いられ、 「求めたのに(継続的に)受け取っていないのは、間違って(悪く)求めているからです。あなたがたの欲(快楽、歓楽)のために使おうとしているからです。」 となります。  ・・・ 主の栄光のために求めるべきです。
  ・ 「あなたがたの信仰のとおりになれ」(マタイ9:29) ・・・ 主は人の信仰を尊重され、何を信じるかの選択が与えられる。 否定的な信仰も同じことになるので注意。

  ・ ケニアで実際に「山が動いて平地になった」あかし(by.ナイジェリアのTV伝道者セグン・オシナガ牧師): 注) 冒頭に述べたとおり、初めに 明々白々な「神様の言葉」があっての話です。 ニューエイジ・成功哲学の惑わしには要注意。
  ケニアのある夫人・Aさんが、主人の昇天を機会に広い土地を相続しました。そのとき彼女は、マルコ11:22-23が示され、宣教師に、「それでは、私の土地にある山に向かって「平になれ」と言えば、そうなるのですね。」と聞きました。 すると宣教師は、「とんでもない。そんなばかなことがあるはずがない。イエス・キリストはここで、本物の山ではなく、比喩として ”問題の山”について語ったのです。」 と説明しましたが、Aさんはもう一度聞きました。 「でもこの聖句は、本当にイエス・キリストが語られたのですね。」 宣教師は「そうです。本当にイエス様が語られたことばです。」と答えました。
  Aさんは、家に帰るとすぐに、その日から、毎日 山に向かって 「主イエスの御名によって命じる。 目の前にある山よ、 平らになれ!」 と叫んで命令しました。
  1週間、10日と、Aさんは聖書のみことばに立って、毎日 命令を続けました。しかし、1ヶ月、2ヶ月たっても、山はびくともしませんでした。 それでもあきらめずに、毎日命じ続けました
  4ヶ月目が過ぎたある日、突然、Aさんの家に、ケニア政府の建設省の役人が尋ねてきました。 彼は言いました。「ケニアの道路建設のために大量のアスファルトが必要です。ナイロビ大学に調査させたところ、お宅の山は コールタールのかたまりのようなもので、原料としてぜひとも山を全部買い上げたいのです。」 Aさんが値段を聞くと、100万米ドルだったので、交渉して値段を上げさせ、ついに400万ドルで売却が決まりました。 それからあっという間に Aさんの土地の山は崩されて 平地になりました。


  ∴ 「(人間的な願いではなく、)神の信仰を 持ちなさい。」(マルコ11:22)  ・・・ 神から聞いた言葉が、信仰の土台・種

     「祈って熱烈に求めるものは何でも全て、すでに受け取り続けていた と信じなさい。そうすれば、それは在るようになる。」(マルコ11:24)






  15) マルコ14:33

  ・・・・・ ゲッセマネの祈り = 最大の霊の戦いの箇所、 エペソ書(教会論・霊の戦い)はこれに次いで 敵の撹乱がある所です。 (→ 6) エペソ(全体) 参照) 

  ゲッセマネの祈りの勝利により、十字架の勝利は ここで決まりました。


   「33 And he taketh with him Peter and James and John, and began to be sore amazed, and to be very heavy; 」(KJV(○)、文語(○) NKJV、他のすべては違う(×)

   「37 And he took with him Peter and the two sons of Zebedee, and began to be sorrowful and very heavy. 」(マタイ26:37)

   「33 και παραλαμβανει(<パララムバノウ、take) τον πετρον(ペテロ) και τον ιακωβον(ヤコブ) και ιωαννην(ヨハネ) μεθ εαυτου και ηρξατο( < αρχω アルコー、rule over、reign over) εκθαμβεισθαι(エクサムベイスサイ < エクサムベオ、be affrighted、sore amazed、greatly amazed、非常に驚いて) και αδημονειν(アデモネユ < アデモネオ、be very heavy、great distress、 重くなった)」(マルコ14:33)

   「主は、ペテロと ヤコブと ヨハネを連れて行かれ、 そして 非常に驚き激しく苦悩し始められた。」(マルコ14:33)   * affright 恐れと心配の圧倒する感情、 sore 心を痛める

  ペテロと ヤコブと ヨハネだけを導いたのは、他に、ヤイロの娘の生き返り(マルコ5:37)、 変貌山(マタイ17:1)


  ・・・・・ イエス様が「驚いた」のは、ここで初めて 「御父と 切り離されること」示されたからです。 ( → マルコ15:34、 マタイ27:46、 十字架上の7つのことば の4.)
  イエス様にとって、肉体の死を恐れるということはありませんが(マタイ10:28)、永遠の昔から一緒だった御父と、たとえ一瞬でも切り離されることは 到底耐え難い苦悩でした。
   ・ 「And he said, Abba, Father,」(:36) この時点ではまだ、「アバ、父」と言われています。 「父よ。彼らの罪をお許しください。」(ルカ23:34)


   ・ 「43 And there appeared an angel(単数、 αγγελος (単・男)) unto him from heaven, strengthening him. 」(ルカ22:43) ・・・ 力付けた天使は、単数であり、おそらく 最も強い御使い ミカエルだったと思われる。
      cf. 「11 Then the devil leaveth him, and, behold, angels(複数、αγγελοι (主、男・複))came and ministered unto him. 」(マタイ4:11)

   ・ 「誘惑に陥らないよう祈っていなさい。」 イエス様が、初めて弟子たちに とりなしを頼まれた箇所です。
   ・ 「45 Then cometh he to his disciples, and saith unto them, Sleep on now, and take your rest: behold, the hour is at hand, and the Son of man is betrayed into the hands of sinners. 」(マタイ26:45)
   「今は寝なさい。そして休憩を取りなさい。」  ・・・ 寝ていることを責めているのではなく、過越の祭からずっと起きていて、明日の十字架の時に備えよ、と言われました。 「心は燃えていても、肉体は弱い。」(マタイ26:41)
   ・ 「彼は罪人たちの一人に数えられた、と書かれてあることが成就した。」(KJV、マルコ15:28) ・・・ シナイ写本では、この節をまるごと欠く。 (ルカ22:37、 イザヤ53:12))



   ∴ 「主は、ペテロと ヤコブと ヨハネを連れて行かれ、 そして 非常に驚き激しく苦悩し始められた。」(マルコ14:33)

     「彼は罪人たちの一人に数えられた、と書かれてあることが成就した。」(マルコ15:28)

     「それからイエスは弟子たちのところに来て言われた。 「今は寝なさい。そして休憩を取りなさい。 見よ。時が来ました。 人の子は罪人たちの手に引き渡されます。」」(マタイ26:45)

     「すると、一人の御使いが天からイエスのところに現れ、イエスを力付けた。」(ルカ22:43)  ・・・ ゲッセマネの最も厳しい戦いで、最も強い御使い、ミカエルが力付けたと思われる。 cf. マタイ4:11





  16) ルカ2:49


   「49 And he said unto them, How is it that ye sought me? wist ye not that I must be about my Father's (house、×)business(?、KJV)?
   「49 και ειπεν(said) προς(to)  αυτους(彼ら自身に)、  τι(why、who) οτι εζητειτε(seek) με(me)、 ουκ(not) ηδειτε(know) οτι(that) εν(in) τοιςwhich、things冠詞、受・中・複) ~ (*無い!)  του(the、冠詞、単・男・所有格) πατρος(Father、単・男・所有格) μου(my)、わたしの父の  δει(must) ειναι(<ειμι be、exist) με(me) 」

   「そして言われた。 なぜわたしを あなたがたは探していたのですか?。 わたしの父の それらの ~に、 わたしが在らなければならない ことを、知らなかったのですか?」

  ・・・・・ * 原文では 冠詞(複・中)の後に続く言葉~ が抜けていて、~は、「πραγμα、プラグマbusiness、thing、matter(単・)、 businesses、仕事(複・中)」の可能性があります。 他の言葉(「家」、「宮・神殿(聖所)」、「教会」など)は、性・数が合わない。(↓)
  イエス様は、その直前まで 律法学者たちに問答して、教えるという、御父の「働き、仕事」をしておられました。(2:46、47) 家や神殿という『静』ではなく、創造の働きという『』の中に 主はおられます。
  御子イエス様は、このとき12歳。 当時13歳で一人前(バル・ミツバ(バル・ミツワー)、成人式)だったので、この前から「神」の働きをされていたことになります。(御子イエス様 = 生まれつき「神」 であるあかし)

  cf.
  マタイ12:29  οικιαν < オイキア、a house、 は 単・  ・・・ 家は 女性名詞     神の家族(οικειοι του θεου < オイケイオス、household、複・、エペソ2:19)、  信仰の家族(οικος、オイコス、、ガラテヤ6:10)   εκκλησια(エクレーシア、単・、教会、エペソ1:22)

  宮で教師たちの質問に答えていた前後関係から、「エルサレム神殿 = 神の家」ととる訳が多いですが、「神殿」が複数あるのはおかしい。「神殿(=神の聖所(ナオス))」は男性名詞。聖所には職業祭司しか入れない。イエス様が教えておられたのは、異邦人の庭の柱廊の所。
  Ⅰコリント3:16の、「神殿(=神の(所有する(所有格))聖所)であることを あなたがたは知らないのか。」 οτι(that) ναοςナオス単・男、temple、shrine、聖所) θεου(神の)
  = 黙示録21:22 の、「聖所を、ナオン(<ナオス、受・単・男)」と同じ。 「神であられる全能者(単・男)と 小羊(Lamb、単・中)が聖所」。
  また、これは両親がいたイエス様が12歳の時(2:42)のことで、第1回目の「宮きよめ」のとき(ヨハネ2:13-17)はバプテスマのヨハネの後、30歳で、母・兄弟のみであり、時間が異なる。
  ⇔ ヘブル9:1 「地上の聖所」 τε αγιον(ハギオス、単・中、聖なる、・・・ エルサレム神殿ではなく、幕屋のこと)  κοσμικον(コスミコス、単・中、earthly、地上の、物質的)


  ∴ 「そして言われた。 なぜわたしを あなたがたは探していたのですか。 わたしの父の 働き(*)の中に、 わたしが在らなければならない ことを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)  ・・・・ *原文では欠け、その冠詞が中性・複数より「businesses」と訳すのが妥当





  17) ルカ4:18、19


   「18 The Spirit of the Lord is upon me, because he hath anointed me to preach the gospel to the poor; he hath sent me to heal the brokenhearted,(心の傷ついた者を癒し、) to preach deliverance to the captives, and recovering of sight to the blind, to set at liberty them that are bruised,
19 To preach the acceptable
(デクトス) year of the Lord. (KJV)

  ・・・・ NIV、日本語訳(口語訳、新改訳) 等では、太線部抜け。 イザヤ61:1、2の引用部。 イエス様が、2節のさばきの箇所(「われわれの神の復讐の日を告げ、」)を語るのを止めておられるのは同じ。もし語られたならば、さばきが成就してしまうため。(主が語られる言葉は重い)  「心の傷ついた」 とは、元々”失恋”の意味。皮肉なことに、心の傷を重要視する日本人の日本語訳に抜けています。


  ∴ 「主の霊がわたしの上にある。 それは、貧しい者に福音を宣べ伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には赦免を伝え、盲人が見えるようになり、虐げられている人々を自由にし、主の恵みの年((直訳)受け入れの年)を告げ知らせるために、主はわたしに油を注がれたからである。」(ルカ4:18、19)





  18) ルカ12:30


   「30 For all these things do the nations of the world (τα εθνη(エスノス、民族、国家、非信者) του κοσμου(コスモス、世界、宇宙))seek after: and your Father knoweth that ye have need of these things. 」(KJV)
   「世の非信者たち(異邦人(×))がするのと同じように これらのものすべてを追い求めてはいけません。あなたがたのは、これらのものが必要であることをご存知です。」

  ・・・・ このときイエス様は ユダヤ人をさばいていたので、「異邦人」を悪く言うのは不自然です。同じことを繰り返し唱えて求めることは、天に国籍のない人々がすることだと言っています。
  → 「神の国と その義を まず第一に求めなさい。そうすれば、これらのものは付け加えて与えられます。」(12:31)

  このように、天に国籍のある人々には、信仰のある求め方をするように語っています。 すでに天の父の子供とされている立場から、

     ① (主に)聞きながら祈る(主の言葉を求める)、 一方通行ではなく、コミュニケーションをとる。主の言葉を「聞く」、「聞いて、心に留める」ことに重点を置く。  → エペソ全体 の下のほう、 マルコ4:24 参照  ・・・ 神の言葉は信仰の土台・根拠(ローマ10:17)、 「私の羊は私の声を聞き分ける」(ヨハネ10:27)、 「初めに言葉があった」(ヨハネ1:1) 神の言葉がすべてのことを成し遂げる(イザヤ55:11)、 「みことばの剣」(エペソ6:17)
     ② 敵を祝福する祈り    →    マタイ5:44、 十字架信仰の力2016 の下のほう 参照  ・・・ 新約時代に特徴的な祈り、御父が完全であるように完全でありなさい
     ③ 感謝の祈り        →   (Ⅰテサロニケ5:18、 礼拝と感謝の力)  ・・・ すべてのことに主の主権を認めること、「主はすべてのことを相働かせて益としてくださる」
 となります。

    ルカ12:28 信仰が”薄い”(×)  = little faith 、ほとんど無い、無きに等しい、の意。
      「野の花、空の鳥」   「主はわたしの羊飼い。 わたしは乏しいことがありません。」(詩篇23:1)  ・・・ 主の直接牧会、主の主任牧会、聖霊様との一対一の交わり
      「(敵に対する)むち と 杖は、わたしにとって慰め」(詩篇23:4)
   ・ ルカ12:25 「心配したからといって、自分の (いのち(×))身長を 少しでも(△)(直)1ペーキュス(=30cm)でも伸ばせますか。」 ・・・ 不可能なことのたとえ
   ・ ルカ12:46 彼をきびしく罰して(△) → (直訳)真っ二つに切る(cut ~ in sunder)  ・・・ 終末のさばきの恐ろしさ


  ∴  「あなたがたの誰かが心配したからといって、自分の 身長を 1ペーキュス(≒30cm)でも伸ばせますか。」 (ルカ12:25)

     「きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さる。ましてや、あなたがたに それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。 ああ、信仰の無きに等しい者たちよ。」(ルカ12:28)

     「世の非信者たち(異邦人(×))がするのと同じように これらのものすべてを追い求めてはいけません。あなたがたのは、これらのものが必要であることをご存知だからです。」(ルカ12:30)




  19) ルカ16:8-13


   8  And the lord commended the unjust steward, because he had done wisely: for the children of this world are in their generation wiser than the children of light.
9  And I say unto you, Make to yourselves friends of the mammon of unrighteousness
(△ → injustice); that, when ye fail, they may receive you into everlasting habitations.
10  He that is faithful in that which is least is faithful also in much: and he that is unjust in the least is unjust also in much.
11  If therefore ye have not been faithful in the unrighteous mammon, who will commit to your trust the true riches?
12  And if ye have not been faithful in that which is another man's, who shall give you that which is your own?
13  No servant can serve two masters: for either he will hate the one, and love the other; or else he will hold to the one, and despise the other. Ye cannot serve God and mammon. 」
 (ルカ16:8-13、 KJV)

  「不正の富(△)」 = 「τον μαμωνα τησ αδικιας = the マモン ・・・ アラム語) の 不公平(アディキアス)」 ≒ 「この世の富」  であり、「富」は「不正、不義」ではなく 「不公平の、この世的な」 という意味。 「富」そのものが「不正」と言っているわけではありません。

  不正な管理者は、油100バテ(1バテ=37リットル(33リットルとも))を50バテに、 小麦100コル(1コル=370リットル(330リットルとも))を80コルに、証書を書き直させました。差額は、それぞれ 50バテ、20コルで、どちらも価格上はほぼ同じ値段の 約500デナリ(1デナリ銀貨=イスラエルの1日分の賃金)なので、=今の日本円で約500万円相当。
  これにくらべ、1タラント = 60ミナ = 6000ドラクマ = 6000デナリ(=6000万円)なので、大金持ちの主人から見れば、証書を書き直させた額はそれほど大した額ではありませんでした。それゆえ、主人はこのことで僕をほめた(commend 賞賛する)のでした。もちろん、不正をほめたのではなく、富の運用の仕方「抜け目無い、思慮深い、忠実」だったことをほめたのです。その忠実の度合いは、ここまでやって良い、ということです。

  「最小のもの(最低限のものleastminimum = ελαχιστοに忠実(誠実)な者は、大きなこと(多くのもの、much = πολυ)にも忠実(誠実)」(10節)
  「この世の富」に忠実な者に、「まことの富」(「まこと」 = 「τον αληθινο πλουτο = the true riches」 = 「預言・予型が成就することの真実 の富」)が任せられることになります。(11節)

  そして、その上でイエス様は、「富(マモン)」ではなく、「神」に仕えるよう、もう一度言っておられます。(13節)



   ∴ 「そして主は不正な管理人が 賢く行ったことをほめた。 「それは 光の子らよりも、この世代の世の子らのほうが抜け目ないからです。
  そしてわたしはあなたがたに言います。 この世の(不公平な)富によって、あなた自身に友達を作りなさい。 そうすれば、富が無くなった時に 彼らはあなたを永遠の住まいに迎えるのです。
  最少のものに忠実な者は 多くのものにも忠実であり、最少のものに不忠実な者は 多くのものにも不忠実です。
  それゆえ、あなたがこの世の富に忠実でないならば、だれがあなたに 本当の富を任せるでしょうか。
  また、あなたが 他人のものに忠実でないならば、だれがあなたに あなたの所有のものを与えるでしょうか。
  しもべは 二人の主人に仕えることはできません。 それは、彼が 一方を憎み 他方を愛する、あるいは、一方を重んじ 他方を軽んじるからです。 あなたがたは、神に仕え、同時に 富にも仕えることはできません。」」 (ルカ16:8-13)





  20) ルカ20:23


   「23 But he perceived their craftiness, and said unto them, Why tempt ye Me? 」 (KJV)

  アレキサンドリア型(日本語訳、NIVなど)では太線部 「なぜ、あなたがたは わたしを 試みるのか?」 が欠落しています。 これは、
   「マサで試みたように、あなたがたの神である試みてはならない。」(申命記6:16) によって、 イエス様が「(ヤハウェ)」であることを表し、本来、御子イエス様の「神性」があかしされている箇所です。
  この「試みる」とは、ナーサー(NSH): tempt、 test、 prove = 悪意・不信によって試みる、の意味。 (マタイ4:7 と同じ)
  申命記6:16の マサで試みた = ニシーセム(NSYTM)は ピエル態:強調、完・2複男、 試みてはならない = ロー テナスー(TNSW)は ピエル態:強調、未完・2複男、 であり、どちらも強い意味で言っています。

  cf. バーハン(BXN): try、 prove、 examine = 一つの証明を引き出すため、やってみること ・・・ ゼカリヤ13:9、 マラキ3:10  とは異なります。

  イエス様を試みてわなにかけようとした内容は、野党「パリサイ人」(納税反対)と 体制側の「ヘロデ党」(納税は義務的と主張)の 左右両側のどちらかと言わせるものです。 この試みとは、もし後者であれば、パリサイ人を尊敬していた大衆の人気は失われ、前者の「熱心党」的な態度を示せば 総督に訴え出る口実がつかめる、という岐路に立たせることでした。 しかしイエス様の答えは、国家内外の どのような地上的な主張をも越えたものであり、超越的な主権者として教えられたのでした。

  そして、税を納める義務は 子にはありませんが、彼らにつまずきを与えないため 税を納めさせました。ただし超自然的な方法によって。(マタイ17:26、27)


 

   「9 Neither let us tempt Christ, as some of them also tempted, and were destroyed of serpents. 」 (KJV)
   「私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが キリストを 試みたのにならって 試みることの無いようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。」(Ⅰコリント10:9)

も、日本語聖書では(新共同訳以外で)、太線部が「キリスト」の代わりに「主」となっています。(ここも、キリストの神性の強調箇所)



  ∴ 「イエスは彼らの悪知恵に気付いて、彼らに言われた。 「なぜ あなたがたは わたしを試みるのか。」」(ルカ20:23)  ・・・ 申命記6:16によって、イエスがであることを示す






  21) ヨハネ1:1


   「 εν  αρχη(アルケー、永遠の初め、根源)  ην  ο(ホ)  λογος(ロゴス)、  και  ο  λογος  ην  προς(unto、to、with)  τον  θεον(受格・単・男)、  και  θεος(主・単・男)  ην(be、未完了・3・単)  ο  λογος(主・単・男)」
   「1  In the beginning was the Word,  and the Word was with God,  and the Word was God(△).」(KJV)

   「永遠の初めに、ことばがあった。 ことばは 神とともにあった。 そして、神は、ことばであった。」  ・・・ 神 = 父なる神 が、本来的に「ロゴスことば、理性、理論)」でおられ、また、御子(=「神のことば」)と同等(大きさは違う(ヨハネ14:28)が、質的に equal (ピリピ2:6))であることが示されています。
  また、自然啓示からも、神は「計り知れない知的な創造主」であり、”サムシング・グレート”以上のお方であること、とマッチングします。




  22) ヨハネ1:27、 ヨハネ1:15、1:30


   「27 αυτος(アウトス、he) εστιν(エスティン、is) ο(ホ、the-one) οπισω(オピソウ、after(時間的に後)) μου(モウ、me) ερχομενος(エルコメノス、comig)、
 ος(ホス、who) εμπροσθενエムプロスセンin-front-of(位置的に前)) μου(me) γεγονεν(ゲゴネン(< γινομαι ギノマイ)、 has come to be)、
 ου(ホウ、of whom) εγω(エゴー、I) ουκ(オーク、not) ειμι(エイミ、am) αξιος(アクシオス、worthy) ινα(ヒナ、so that) λυσω(ルソー、I should be loosing) αυτου(オートウ、of him) τον(トン、the) ιμαντα(イマンタ、strap) του(トウ、of the) υποδηματος(ヒュポデーマトス、sandal) 」

       ・・・・・ Nestle-Aland(×)は Textus Receptus(○) に比べ大幅に省略している。 預言者でもあるバプテスマのヨハネは、イエス様が彼の真ん前に来られることを予知して語っている。

   「わたしの後に来られる方は、私の目の前に来られるはずの方であり、わたしには彼のサンダルの紐を解く値打ちもありません。」

  そして翌日、実際にイエス様が来られた時の 1:30も同様に、 「私の目の前に来られる方であり、わたしより(時間的に)先に(πρωτος、プロートス、former)おられた方です。」
  1:15 も同様に、 in-front-of で、位置的に前。 「わたしの後から来られる方は、私の目の前に来られる方であり、わたしより(時間的に)先に(プロートス、former)おられた方です。」




  23) ヨハネ1:43、 マタイ4:20、ヨハネ21:19等


   「43  The day following Jesus would go forth into Galilee, and findeth Philip, and saith unto him, Follow me.」(KJV)  ・・・・  followであって、obeyではない。 律法的な、重く、「従ってきなさい」(×)ではなく、”ついておいで”程度の軽い言い方。
   「λεγει(said) αυτω(to him) ακολουθει(アコロウセイ、命令・2・単、follow、reach) μοι(to-me)」

   「その翌日、イエスはガリラヤへ行くつもりであった。 そしてピリポを見つけ、こう言われた。 私について来なさい。」(ヨハネ1:43)

  この アコロウセイは、 マタイ4:20(「彼らは網を捨ててついて行った」)等だけではなく、 ヨハネ21:19(「(ペテロに)私について来なさい」)、などの殉教の召命にも同様に用いられています。
  旧約の Ⅰサムエル12:14 で”聞き従う(×)”と訳されている所も、 「聞く」 + 「の後ろについている」 程度の語で表現されています。
  召命とは、主が事を成され、私たちは 主の後について行くだけです。 「主のくびきが心地よく」、「その荷が軽い」のは、主に聞いて ついて行く時、主が大部分のことを成してくださるからです。




  24) ヨハネ3:3

   「3 απεκριθη ο ιησους και ειπεν αυτω、 αμην(アーメン) αμην λεγω σοι、 εαν μη τις γεννηθη ανωθεν(アノーセン、from above、上から) ου δυναται ιδειν(イデイン、perceive、気づく、認める) την βασιλειαν(kingdom) του θεου」

   「3 Jesus answered and said unto him, Verily, verily, I say unto thee,  Except a man be born again(×), he cannot see the kingdom of God. 」(KJV)

   ∴ 「(ニコデモに対し、)まことに、まことに、あなたに告げます。 人は、上から生まれなければ、神の王国認める(=知覚で認識する)ことはできません。」(ヨハネ3:3)(〇)


  ”ボーン・アゲイン”という言葉はよく使われ、有名な聖書箇所であるのに残念です。 この「上から」は、 ανωθεν(アノーセン)は from above であり、 ヨハネ19:11 と同じ言葉です。

   「(ピラトに対し、)もしそれが 上から 与えられているのでないなら、あなたはわたしに対し 何の権威もありません。」(ヨハネ19:11、 KJVは ここでは from above




  25) ヨハネ3:13、 3:16


  もっとも有名な聖句: ヨハネ3:16 も、日本語訳では十分真意が伝わっていません。

   「13  And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. 」(KJV)

   「誰も 天に登った者はありません。 しかし、天から下ってきた者はいます。 すなわち、天にいる人の子です。」(ヨハネ3:13)



   「16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得る(×)ためである。」(△、口語訳)
   「神は、実に、その ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ(○)ためである。」(△、新改訳)
   「16実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得る(×)ためです。」(△、リビングバイブル)

   「16 For God so(*) loved the world, that he gave his only begotten Son(**), that whosoever(=whoeverの強調) believeth in him should not perish, but have everlasting life.」(○、KJV)

   「16 ουτως(ホウトース、So、thusγαρ(ガル、for) ηγαπησεν(エガペーセン、loves) ο(ホ、the) θεος(セオス、God) τον(トン、the) κοσμον(コスモン 、world、コスモス(秩序だった宇宙) ⇔ χάος(chaos、カオス))、  ωστε(ホーステ、so-that、 それで、そのため) τον(the) υιον(フイオン、Son) αυτου(オウトウ、of him) τον(the) μονογενη(モノゲネー、only-begotton) εδωκεν(エドーケン、He gives)、  ινα(ヒナ、that) πας(パス、every) ο(the) πιστευων(ピステウオーン、believe) εις(エイス、into、to、unto) αυτον(アウトン、Him) μη(メー、no) αποληται(アポレータイ、should perish) αλλ(アッル、but) εχη(エケー、having) ζωην(ゾーエン、life) αιωνιον(アイオーニオン、eonian、eternal)」 (Textus Receptus)


   →  もっと正確なニュアンスの訳:

   「これほどまで 神は 世を愛してくださったので(それゆえに)ただ一人の御子を 与えてくださったのである。 そして、彼を信じる者は だれであっても、決して滅びることなく、永遠の命を持つ。」 (ヨハネ3:16)


     * 「11 αγαπητοι(Beloved)、 ει(エイ、if) ουτως(ホウトース、thus、so) ο(the) θεος(God) ηγαπησεν(loves) ημας(us)、  και(also) ημεις(we) οφειλομεν(are owing) αλληλους(one-another) αγαπαν(to-be-loving) 」(Ⅰヨハネ4:11)   ・・・ 「愛する者たちよ。 もし、これほどまでに(=この程度まで)神が私たちを愛しておられるなら、・・・」 と同じ訳。

    ** His onlybegotten Son: 神の最も根本的な存在形態が、 「父子神(+聖霊)」 = 「三位一体」 であることは、最も驚くべきことです。




  26) ヨハネ3:36


   「36  He that believeth on the Son hath everlasting life: and he that believeth(○) not the Son shall not see life; but the wrath of God abideth on him.」 (KJV)

   「36  御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は(×)、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」(口語訳)
   「36  Whoever believes in the Son has eternal life, but whoever rejects(△) the Son will not see life, for God's wrath remains on him.」(NIV)

  ・・・・・  日本語の訳は、非常に誤解を与える、とんでもない訳です。 アレキサンドリア型の訳では、「行い」によって「義」とされるかのように書いてあります。 しかし、「救い」は、(十字架の片側にいた罪人が救われたように(ルカ23:40-43)、)全く行いによらず、ただ「信じること」のみによります。
  まず、「救い」の土台が 聖霊様によってはっきりした上で、次に、「従っていく」こと、主の召しが発生します。

   「36 ο πιστευωνbelieve) εις τον υιον εχει ζωην αιωνιον ο δε απειθωνun-persuading、説得されない、stubborn、頑固な ・・・ 「信じない」と訳すべきで、”従わない”とは訳せない) τω υιω ουκ οψεται ζωην αλλ(all) η οργη του θεου μενει επ αυτον 」


  ∴ 「御子を信じる者は 永遠のいのちを持つ。 しかし、御子を信じない者はいのちを見ることがなく、神のすべての御怒りがその人の上にそのまま残る。」 (ヨハネ3:36)




  27) ヨハネ7:53-8:11


  ヨハネ7:53-8:11までが、改ざん写本のアレキサンドリア型写本(シナイ、バチカン、アレキサンドリア)では すべて抜けています。(マルコ16:9-20と同様) さらに、この部分全体に括弧が付けられている日本語訳では 太字部が抜けています。

   「53 And every man went unto his own house.
    1 Jesus went unto the mount of Olives.
   2 And early in the morning he came again into the temple, and all the people came unto him; and he sat down, and taught them.
   3 And the scribes and Pharisees brought unto him a woman taken in adultery; and when they had set her in the midst,
   4 They say unto him, Master, this woman was taken in adultery, in the very act.
   5 Now Moses in the law commanded us, that such should be stoned: but what sayest thou?
   6 This they said, tempting him, that they might have to accuse him. But Jesus stooped down, and with his finger wrote on the ground, as though he heard them not.
   7 So when they continued asking him, he lifted up himself, and said unto them, He that is without sin among you, let him first cast a stone at her.
   8 And again he stooped down, and wrote on the ground.
   9 And they which heard it, being convicted by their own conscience, went out one by one, beginning at the eldest, even unto the last: and Jesus was left alone, and the woman standing in the midst.
   10 When Jesus had lifted up himself, and saw none but the woman, he said unto her, Woman, where are those thine accusers? hath no man condemned thee?
   11 She said, No man, Lord. And Jesus said unto her, Neither do I condemn thee: go, and sin no more. 」(KJV)

   「6 彼らはイエスを試してこう言った。 それは主を告発する理由を得るためだった。 しかしイエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。それは主があたかも彼らの言うことが聞こえないかのようであった。
   「9 そして彼らがこれを聞くと、彼ら自身の良心により有罪判決を受け、一人また一人と、年長者から順に出て行き、最後の一人まで出て行った。 そしてイエスはひとり残された。 女は真中に立ったままだった。」
   「10 イエスは身を起こして、その女性しかいないのをご覧になり、彼女に言われた。 「婦人よ。 あなたを告発する人たちはどこにいますか? あなたを罪に定める者はいなかったのですか?」」(ヨハネ8:6、9、10)

   ・・・・ 1) イエス様が知恵・知識の言葉を用いられた(そこにいる人々の赤裸々な罪 ・・・ その人しか分からない罪 ・・・を地面に書いておられた)。  2) イエス様が、(すぐ後の、ご自身の十字架の贖いによって、) 罪を赦す権威を持っておられることを宣言された、という重要な箇所です。 神であり、神の子である イエス様が良し と言われたら、すべて良しです。 また、 3) 当時(今もイスラム圏で)蔑視されていた 女性、しかも 宗教指導者たちの邪悪な策略によって、不当に相手が逃げてしまった不公平な訴えがなされていた女性に対し、イエス様は特に あわれみを示されました。


 

    ・ Textus Receptus       ・ KJV





  28) ヨハネ8:47


   「47 ο(ホ、the) ων(オン、one being) εκ(エク、out) του(トウ、of the) θεου(セオウ、God) τα(タ、the) ρηματα(受・複・中、レーマタ、declarations、宣言・告白、レーマ) του(of the) θεου(God) ακουει(主・3・単、アコウエイ、hear)、 δια(ディア、because of) τουτο(トウト、this) υμεις(ヒュメイス、you) ουκ(オウク、not) ακουετε(2・複、hear) οτι(that) εκ(out) του(of the) θεου(God) ουκ(not) εστε(you are)」

   「47 He that is of God heareth God's words(△): ye therefore hear them not, because ye are not of God.」(KJV)

     ・・・・・  ακουω は、「聞く」、「耳を傾ける」(8:43)の意味で、 ”従う”、”聞き従う”というニュアンスはない。(旧約聖書(申18:15、Ⅰサム15:22 等)も同様に「聞く」のみ。Ⅰサムエル12:14では「聞いて(シェマアテム)、の後ろ(アカル)にいる(アル)」となる。)

   ∴ 「神から出た人は 神の語りかけ聞きます。 しかし あなたがたが 聞かないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。」(ヨハネ8:47)

  もし、今まで一度も神の語りかけを聞いたことがないならば、「救い」を確認すべきです。





  29) ヨハネ12:31、32


   「31 νυν(ヌン、now) κρισις(クリシス、judging) εστιν(エスティン、is) του(of the) κοσμου(<コスモス、world) τουτου(トウトウ、this)、 νυν(now) ο(ホ、the) αρχων(アルコン、chief) του(of the) κοσμου(world) τουτου(this) εκβληθησεται(エクブレセセタイ、be cast out) εξω(エクソー、out)
   32  καγω(カゴー、and I ) εαν(エアン、if ever) υψωθω(ヒュプソーソー、be exalted) εκ(out) της(of the) γης(ゲース、earth)、 παντας(パンタス、 all、すべて、すべてのもの) ελκυσω(ヘルクソー、be drawing) προς(プロス、toward) εμαυτον(エマウトン、myself)」

  32節で、 1) さばきと終末の携挙 の解釈×、 2) 「(復活とともに)すべての人を(×)引き寄せます」(KJV、日本語訳など) ・・・・ すべて誤解しています。
  33節から、 「どのような死に方をされるか、・・・」とあるように、 23節は イエス様の十字架の死について、この世のさばきをすべてご自分に引き受けられたことを語っています。(ここでは「復活」のニュアンスはない)

  ∴ 「31 今や さばきが この世に下され、 この世の支配者は外へ追い出されました。
     32 そして、 もし わたしが 地から上げられるならば(=十字架につけられるならば)すべてのものわたしの身に引き受けます。」 (ヨハネ12:31、32)

         → 参照メッセージ: Cris Goa師 聖会 ①の上の方

   = 「私はキリストとともに 十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)




  30) ヨハネ13:34、 Ⅰヨハネ4:11


   「34 εντολην(エントレーン、direction) καινην(カイネーン、new) διδωμι(ディドーミ、I give) υμιν(ヒューミン、to you)、 ινα(ヒナ、that) αγαπατε(アガパテ、love) αλληλους(アッレーロウス、one another) καθως(カソース、according as) ηγαπησα(エガーペサ、I loved) υμας(ヒュマス、you) ινα(ヒナ、that) και(カイ、and) υμεις(ヒュメイス、you) αγαπατε(アガパテ、love) αλληλους(アッレーロウス、one another) 」

   「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。 あなたがたは 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

    ・・・・・・ 「愛する」という言葉に、 「αγαπαωアガパオー」が用いられています。
  もし「熱心者シモン」(σιμων ο κανανιτης < καναναιος、カナナイオス、(律法に)熱心な者、 マタイ10:4、マルコ3:18)が、本当に「熱心党員(ローマに対抗する暗殺団)」( ζηλωτης(ゼローテス・固有名詞、ゼロテ党)、 ルカ6:15)だったならば、ローマの取税人だったマタイ(レビ)と 仲が非常に悪いと考えられます。 したがって 聖霊様によるアガペーの愛が必要となります。

   「11 αγαπητοι(アガペートイ、呼格・男・複、beloved)、 ει(エイ、if) ουτως(ホウトス、thus) ο(ホ、the) θεος(セオス、God) ηγαπησεν(エガーペセン、loved) ημας(ヘマス、us)、 και(カイ、also) ημεις(ヘメイス、we) οφειλομεν(オフェイーロメン、are-owing) αλληλους(アッレーロウス、one-another) αγαπαν(アガパン、love)」

   「愛する者たちよ。 もし神がわたしたちをこのように愛してくださったのならば、 わたしたちも当然 互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)

    ・・・・・・ これは、Ⅰヨハネ4:11も同様で、 「兄弟愛」は、”友愛”や”博愛主義の愛”ではなく、「アガペーの愛」、「その人のために命を捨てるほどの愛」であり、聖霊様によらなければ愛することができない愛です。 「兄弟愛」とは、Ⅰヨハネ4章の冒頭の「反キリストの霊」を見分け、これに対抗する、きわめて霊的な概念です。
  十字架の時ペテロは3回イエス様を否定したので、復活後の主の問いに 「フィレオー」としか答えられませんでした。(ヨハネ21:15-19) しかし、「神」にとって、愛 とは「アガペーの愛」しかありません。 神は「アガペーの愛」です。(Ⅰヨハネ4:8)

  (cf. 黙示録3:7 「フィラデルフィア」は”兄弟愛”(フィロスの愛)の意味、しかしこれは、BC150年頃ペルガモの王(フィラデルフォス)によって建設されたことにちなむ。)

  また、「夫が妻を愛する 愛」も、 エロス、フィロス ではなく、「アガペーの愛」です。(→ エペソ5:30)





  31) ヨハネ14章:  ・・・ ネストレ訳、日本語訳は、 神の三位一体・御子イエス様の神性、みわざの重要性を 随所で弱くしています。


  ヨハネ14章は、いわゆる「告別説教」(14、15、16、17章)の初めの章で、 最も深遠な教理である 「神の三位一体」について、厳かに解き明かされています。 この直前に裏切り者のイスカリオテ・ユダが出て行き、ここでイエス様は弟子たちに心を開かれ、もはや たとえで語ることをせず、御国の奥義を直接、余すところなく語られました。


   「あなたがたは 心をかき乱されてはなりません。 あなたがたは 神を信じています。 そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネ14:1)

   「わたしの行く所をあなたがたは知っており、その道もあなたがたは知っているはずです。」(ヨハネ14:4)


   「私が父の中に、そして 父がわたしの中に ある、(εγω εν τω πατρι、 και ο πατηρ εν εμοι) と わたしが言うのを信じなさい。 さもなくば、(行われた数々の)まさにその わざによって(for the very works' sake) 信じなさい。 まことに、まことに(αμην(アーメン) αμην)、告げます。 わたしを信じる者は わたしの わざを行い、また それよりも大きな(μειζονα < μεγας(メガス))わざを行います。」(ヨハネ14:11、12)
      ・・・・・ わざ・奇跡の重要性、わざは 創造主・再創造主である神の本質的な存在のあり方にかかわり、また、イエス様が御父と同等の 創造主であることを語っています。 ( → マルコ16:16-20、Ⅰコリント12:7-11、黙示4:8)


   「また わたしは、あなたがたが わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。 父が子によって栄光をお受けになるためです。 あなたがたが、私の名によって 何かを わたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13、14)
      ・・・・・  普通の信仰者の発想では、御父に 御子イエス様の名によって 祈り求める、と教えられてきましたが、実にここで、 御子イエス様に、イエス様ご自身の名によって求める、ということが語られています。 すなわち、御子イエス様は、「神に等しい(be equal)」(ピリピ2:6)お方であり、「三位一体の神」であり、「神の第二位格」であるからです。


   「私は父にお願いします。 そうすれば、父は もう一人の援助者(παρακλητος (パラクレトス)=被告人の弁護人、代弁者、慰安者)を あなたがたにお与えになります。 その方は、真理の霊(the Spirit of truth)です。 世はその方を受け入れることができません。なぜなら世はその方を見もせず、知りもしないからです。 しかし、あなたがたはその方を知っています。 その方は、あなたがたと 共に住み(dwelleth with you)、ただ中におられます(shall be in you)。」(ヨハネ14:16、17)

   「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のみもとに行くことを大いに喜ぶ(εχαρητε < χαιρω、カイーロー)はずです。 わたしの父は、わたしより大きい(μειζων、μεγας(メガス)の比較級)からです。」(ヨハネ14:28)
      ・・・・・ 「偉大(×)」。 メガス=大きい、多い。 御子は 質的には御父と「等しい」(ピリピ2:6)、しかし、大きさは単純に御父が「大きい(○)」と解釈すべきです。




  32) ヨハネ20:31


   「31 ταυτα(タウタ、these) δε(デ、yet) γεγραπται(ゲグラプタイ、has been written) ινα(ヒナ、that) πιστευσητε(ピストューーテ、不定過去接続・主・2複、might believe、(信じていなかったのが)信じるようになる) οτι(ホチ、that) ο(ホ、the) ιησους(イエソウス、Jesus) εστιν(エスティン、is) ο(ホ、the) χριστος(クリストス、Christ) ο(ホ、the) υιος(ヒュイオス、Son) του(トウ、of the) θεου(セオウ、God)、  και(カイ、and) ινα(ヒナ、that) πιστευοντες(ピストューオンテス、現在分詞(ing)・主・複・男、believing、信じている) ζωην(ゾーエン、life、eternal life、(永遠の)いのち) εχητε(エケーテ <εχω、 現在接続・2複・男、 having、持ちつづける) εν(エン、in) τω(トウ、the) ονοματι(オノマティ、name) αυτου(アウトウ、of Him)」

  「これら(=ヨハネの福音書)が書かれたのは、 イエスが神の子、キリストであることを あなたがたが信じるようになるためであり、 また、 主の名にあって (信じた)あなたがたが永遠のいのちを持っていることを信じているためである。」(ヨハネ20:31)


  ・ この εχω(エコー、have) は、 「神の信仰を持ちなさい(εχετε πιστιν θεου)」(マルコ11:22) と同じ言葉で、命令・2・複。
  ・ ヨハネの福音書は20章で事実上終わり、21章は(同一の著者により)付け加えられたものです。 20章の終わりのあかしの記事は、トマスが 「わが主、わが神(ο κυριος μου και ο θεος μου)という最も重要な告白をした箇所です。 すなわち、ヨハネの福音書の目的 ・・・ イエス様が神の子であることイエス様の神性) をあかしすること ・・・ にふさわしい記事で最後を飾っています。





  33) 新約聖書(福音書)の削除箇所のいくつか: 罪の悔い改めの重要性


  下記のみことば(KJV)の 太字の部分が、日本語聖書(文語、口語、新改訳、新共同、ニューバイブル ← 現代訳英語聖書)から削除・改ざんされている部分です。 みことばの中でも 重要なところ(主のご愛と 主権について、 聖霊様に従うこと、 行いと恵みの比較・強調、 罪の悔い改め、 罪・不従順をはっきりさせること、 サタンに対する毅然とした態度、)が、意図的にあいまいにされ、弱くされ、削除されています。
  日本語に正しく訳してみると、ずいぶんイメージが違って見えるほどです。

   ・ 「兄弟に向かって 理由なく 腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければなりません。」 (マタイ5:22)   ・・・ この節後半の 『ばか者』とは、”信仰を捨てた者”の意味。

   ・ 「13  But go ye and learn what that meaneth, I will have mercy, and not sacrifice: for I am not come to call the righteous, but sinners to repentance.」(マタイ9:13)
   ・・・・・ 「13  『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を悔い改めに招くためです。」

   ・ 「17  When Jesus heard it, he saith unto them, They that are whole have no need of the physician, but they that are sick: I came not to call the righteous, but sinners to repentance.」(マルコ2:17)
   ・・・・・ 「17  イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人です。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

   ・ 「55  But he turned, and rebuked them, and said, Ye know not what manner of spirit ye are of.
    56  For the Son of man is not come to destroy men's lives, but to save them. And they went to another village.
」(ルカ9:55、56)
   ・・・・・ 「55  イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。そして言われた。あなたがたは自分がどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。
         56  人の子は、人々の命を滅ぼすためではなく、救うために来たのです。そして一同はほかの村へ行った。」

   ・ マルコ15:28抜け ・・・ シナイ写本、NIV、新改訳に無い、口語括弧入り、 KJV、NKJV、リビングバイブルにはある
   「28 And the scripture was fulfilled, which saith, And he was numbered with the transgressors. 」(KJV)、 「28 και επληρωθη η γραφη η λεγουσα και μετα ανομων ελογισθη 」(ビザ型ギリシャ語)  「彼は罪人の一人に数えられた、と書かれてあることが成就した。」 NEW




  ∴  「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を悔い改めに招くためです。」(マタイ9:13)

     「イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人です。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(マルコ2:17)

     「イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。そして言われた。あなたがたは自分がどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。
  人の子は、人々の命を滅ぼすためではなく、救うために来たのです。そして一同はほかの村へ行った。」 (ルカ9:55、56)

     「彼は罪人の一人に数えられた、と書かれてあることが成就した。」(マルコ15:28)





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