2. 霊の見分けについて



  聖書的な見分けについては2種類、 1) 経験による見分け、 2) 御霊の賜物による見分け、が存在する。

  1)  「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(Tテサ5:21)、 「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブ5:14)、 「わたしの羊ははわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハ10:27)

  見分けるのは霊(Tコリ12:10)、だけではなく、訓練と経験によってすべてのこと(実(マタ7:16)、時のしるし(マタ16:3)、時代(ルカ12:56)、主に喜ばれること(エペ5:10)、真にすぐれたもの(ピリ1:10)、真理の霊と偽りの霊(Tヨハ4:6)など)について見分け、私たちはすべての点において成熟していかなければならない。また、見分けるだけでなく、本当に良いものみことばの知恵、聖霊様の臨在、御霊の実を堅く守っていかなければならない
  見分けが上達するためには、いつも”本物”に接していく必要がある。私たちは、何時間もかけてみことばを学び、充分時間をかけて祈りの時を主のために聖別し、いつも聖霊様と交わっていく必要がある。偽物を調べたり、多く接していっても見分けは上達しない。それは、サタンからのものは様々であるが、主は変わらないからである。本物にいつも接していると、偽物が来た時それが自然とわかるのである。銀行でも新入行員にはまず本物のお札にたくさん触れさせ、そして偽札が来るとすぐわかるように教育する。(偽物にばかり接していくと、”ミイラ取りがミイラになる”危険があるから注意。)

  2) 「ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」(Tコリ12:1)

  この賜物は、霊を見たり、霊の話し声を聞いたり、感じたり、匂いがするなど体の五感で感じてきわめて明確に分かるものであり、経験による見分けよりもはるかに正確である。現代の惑わしの多い時代、御霊の賜物としての「霊を見分ける力」は、特に、クリスチャンの指導的な立場にある人々にとって必要とされるようになってきている。



  さて、今の日本では、スピリチュアル・ブームが続いているが、これは1960後半−70年代にアメリカで流行した”ニューエイジ・ムーブメント”や、1970−80年代の日本におけるUFO・超能力ブーム、80後半−90年代前半の気功ブームなどの延長線上(=同じ悪霊)にある。これは、キリスト教界に霊的な悪影響をもたらしたと同時に、日本においては逆に、福音宣教のチャンスでもある。
  スピリチュアルなものへ興味を抱くことは人間としてごく自然なことであり、霊や魂の存在を信じている日本人は多い。これは、ローマ時代の人々が偶像の神々を信じ、迷信深く、悪霊を恐れていたのと同じである。特に、日本人の半数近くはエミシ、ツチグモの末裔であるせいか、迷信深く、占い、神政政治、予言、奇跡などに興味を持つ傾向がある。実際、星占いが浸透し、棟上式には神道のお払いをし、自家用車には護符を貼り、TVのミステリー物の視聴率は高い(たとえば、06 12月TV東京放映の”みのもんたの日本ミステリー:日本のルーツ・ヘブライ文化”では視聴率15.4%)。
  日本人の神仏や霊魂に対するイメージは、”得体の知れないもの”、”安易に近づいてはいけないもの(さわらぬ神に祟りなし)”、”怖れと畏敬の念をもって向き合うもの”などである。また、”死んだら生き返る”、”生まれ変われる”と安易に信じる子供が増え、簡単に自殺するようになってきている。

  アメリカ発で日本に輸入されたニューエイジ・ムーブメントは、元々アメリカの反戦運動から発し、平和と協調をスローガンとする思想的潮流をもたらし、ドラッグ文化やヒッピー、自然回帰、エコロジー、フェミニズムなどを生み出した。科学の分野では、コペンハーゲン解釈や不確定性原理などを神秘主義と結びつけ、意識の解明に瞑想を用い、生物によって地球環境を保持している特別な天体である地球をその特異性から一つの生命体(ガイア)とみなし、西洋の価値観を否定して東洋神秘主義にはまり込んでいった。現在も、ヨーロッパ、アメリカから見て、日本の文化は東洋の神秘的なものとして受け取られている。
  日本におけるニューエイジのイデオロギーは、一見無害なテーマとして、しかしその背後に東洋のオカルトを変形させたものとして、日本のあらゆる社会の分野に浸透している。(健康食、フィットネス、瞑想、ヨガ、リラクゼーション療法、催眠術、心霊療法、積極思考・可能性思考(願いを実現する方法)、占い、心理学、自己啓発セミナー、水晶ペンダントなどのグッズ、UFO、アニメ、ファミコン、音楽療法、アルファ波、マインドパワー、気功、健康生活プログラム、・・・) これらは、一見 宗教色を無くして大衆が抵抗なくその流れに入っていくようになっている。



  また、ニューエイジはキリスト教界にも侵入している。ニューエイジの狙いは、@ イエス・キリストを抜きにして地上のパラダイスや自己実現を目指すようにさせ、A 聖書やキリストを他の諸宗教と同じレベルに置いて思想統一させる、というもので、それぞれ 終末における反キリスト、にせ預言者の働きを思わせるような惑わしである。
  クリスチャンがニューエイジの霊的影響を受けると、聖書から離れる傾向(神道などの)他宗教との行き過ぎたかかわり、みことばに立たないいやし(心霊療法、念力、瞑想法、十字式健康法)、自己実現を最重要視した自己啓発や可能性思考、オカルトの影響を知らずに受けて悪霊に利用されること、またその反動で、聖霊様の現れに対する行過ぎた警戒、聖書の超自然的な領域への消極性あるいは否定、知的なものを求めて聖書を越えてリベラルの影響を受けてしまう危険性、などが生じる。このようにして、キリスト教界が分裂し、互いに非協力、無理解となり、またニューエイジャーを敵とみなし福音を宣べ伝える対象としない傾向、などの サタンの策略にはまってしまうのである。

  ここに、聖書のみことばに堅く立つことと、霊を見分けることの両方が必要となってくる。



  「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタ24:4)

  これは、終わりの時の最初に、キリスト教の器たちに惑わしの霊が働くことが起こると言っている。

  人々の頭に手を置いて(タッチすることによって)人々を倒すミニストリーは、もし聖霊様によって倒されるならば、必ず癒しや解放が起こっていなければならない。(ハンター師の場合も時々倒れる人がいたが、ハンター師は人々にメッセージが入っていくために本当は倒れてほしくないと言っている。) 聖霊様の油注ぎや満たしの祈りでは、普通は倒れない。(メル・ボンド師による癒しの油注ぎの場合も、数百人祈られた人々がいたが、人々はほとんど倒れなかった。この油注ぎは「信仰」によって受け取るものである。) 聖書には、前にうつぶせに倒れ、その後御使いやイエス様がすぐ起き上がらせている。(ダニ10:9、黙1:17) この倒すミニストリーを通してカリスマ派に入り込もうとする悪霊は”テレパシーの霊”であり、追従者をコントロールするもので、高度な者になると手を触れないで自在にコントロールするようになる。聖霊様と悪霊の差は、ミニストリーが行なわれているその場の雰囲気が、キリストの愛ではなく、支配し抑圧するような悪霊特有の感覚によって分かる。このように、聖書に書かれていない事何らかの”現象”に固執してのミニストリーを推し進めていくならば、悪霊が働くことを許してしまう。
  預言においても、主からの預言とそうでない預言が同じ人から出てくるということもある。それは、主の臨在の無い時に無理に預言しようとすると、オカルトの霊が働きにせ預言となってしまう危険がある。(聖霊様の臨在が弱い時には、ミニストリーをするよりも、みことばからメッセージを語ったほうが良い。) また、主の臨在があるかどうかを見分けると同時に、預言者といわれる人やミニストリーを行なう人たちが、日々どのような生活をしているのか見分ける必要がある。

  ex) ・ 2003年にTD教会でミニストリーを行なったI.S.は、講壇に聖書ではなくノートパソコンを持ち込んでそれを見ながら短く説教をした。彼はこの年2回来日したが、すべての説教で みことばを全く用いないで説教した。彼のミニストリーは、手も触れないで、”聖霊によって”人々を倒すものであり、人々はよく倒れた。2回目の来日の時は、値段の高いホテルへの宿泊と高額な謝礼を要求し、自国から彼の妻でない女性を伴っていた。その後は日本国内で法外な料金を取って何度かセミナーを行い、さらにアメリカに渡ったそうである。(TD教会は、海外から器を招く働きをしていて、良い器も来るが、変な器も時々来るので、器の見分けの訓練には良い。)

  ・ みことばによる信仰が充分成長しないで賜物が与えられることはバランスを崩して危険である。(賜物は求めれば与えられる) 1993年SJ教会から失踪したM.O.牧師は、霊を見分ける賜物があり”霊が当たって痛い”ということで見分けていたが、悪霊ばかり見て恐れるようになり立ち向かう信仰は無かった。霊があまりにもリアルに見えて、恐れて引くからますます悪霊が来て、そのため教会は霊的に悪くなり、当時の(逆の)信仰による後遺症が今も残っている。

  ・ 06年10月の牧師転落死の事件では、松澤秀章(元伝道師)を殺人と覚醒剤取締法違反の疑いで被疑者死亡のまま書類送検された。薬物検査の結果、松澤氏の体内からは覚醒剤の反応が出ている。”殺人”については、警察が状況証拠などから、まず松澤氏が女性を投げ落とし、その後自分もバランスを崩して転落したと、ほぼ断定している。非常識にも、彼らは前日の夜11時にカウンセリングという名目でホテルへ入っている。松澤氏はかつて薬物をやっていた。(ノン・クリスチャン時代のフラッシュバック) しかし、聖書には悪霊から解放されたばかりの人が、すぐに弟子、奉仕者として用いられたという記事は無い。(ただ、神様がどのように大きな愛を示してくださったかを、人々にあかしするよう言われている。) また、教会は、その人しかできない働きということでこれらのことをあまりにも容認し、彼は高慢になっていたと思われる。高ぶる者に悪霊が働く。

  ・ 最近、沖縄のノロやユタが次々とイエス様を信じて救われてきているが、霊的な後遺症が残って信仰がごっちゃになっている人が多いので、受け入れ教会の問題がある。彼らの完全な解放には一生かかると思われる。


  (参考)
  ・ ニューエイジといっても、実際的な現象としては大したことは起こっていない。
  1989年ノーベル賞物理学者ブライアン・ジョセフソンは興味深い実験をまとめた。 電子回路の小さな電流値が人の意識によって変動を受けるかといったような、心理学などの分野に公的に報告された実験群(実験325、論文152)を統計処理したものである。
 しかし、その結果は、否定的で、”人の意識”はほとんど何も”物体”や”他人の意識”に遠隔的に影響を与えることはない、というものだった。
   (→ 意識論解釈
  私たちが、みことば抜きに何かしようとしても、何も起こらないのと同じである。祈りもみことばに沿ったものでなければ神様に聞かれない。
  また、ニューエイジサイエンスといわれる分野でも何も新しい発見は無い。(→ 終末技術

  ・ 1992年TV朝日で生放送された ユリ・ゲラー出演の番組で、日本全国の視聴者に”念”を送って時計を止めてみせると言った。番組放送中にテレビ局に全国からかかってきた”時計が止まった”という電話は12本もあった。この時の視聴率は14%もあった。
  さて、視聴率からこの3時間の生放送を見ていた人は1400万人、時計の電池の寿命は500日とする。すなわち、3時間で電池が切れる時計は日本に1万台あり、また時計はメーカーの話によると3年以内にトラブルが発生するので5000台が故障し、計1万5000台の時計がこの放送時間の内に止まったはずである。したがって、明らかに”念”によって止まったのではない。
  巷に言う奇跡や癒し、予言・占い、UFOなどのほとんどは偽物や詐欺、事実誤認、あるいは、程度の低いマジックであるが、その中でも本当に奇跡や予言のようなものが起こる時、その器が悪霊と関わっている”曲者”である。「占いの霊」(使16:16)、「しるしを行なう悪霊」(黙16:13、14)などは確かに存在し、霊媒・口寄せに出てくる本人そっくりの霊(=ファミリアースピリット、Tサム28:6−)も存在する。日本の政治家たちに”予言”を送っている占い師がいる。ただし、占いによるものは、サタンの実質(盗み、殺し、滅ぼす)を現し、持ち上げておいて最後に裏切り、滅ぼすものである。 また、チョー・ヨンギ師はUFOは悪霊であると言っている。
 マイトレーヤーという「にせキリスト」はサタンの見せ札に過ぎず、本当に警戒すべきはキリスト教界内に働く悪霊である。


  ・ 日本の神社はそうであるが、たとえば稲荷神社は、歴史的には原始キリスト教徒である秦氏によるINRI(イエス・キリスト)教会が発端である。しかし、その後の変遷により霊的に極めて悪くなっているので、うかつに近づくのは危険である。キリスト教が現在の日本神道と妥協するのは、偶像崇拝、霊的姦淫の罪である。(カトリックのマリヤ崇拝と同じ。) 実際に近づいて悪影響を受けているクリスチャンもいる。戦中の日本の教会が国家神道に妥協した罪は重い。これは純粋に聖霊様による韓国のリバイバルとは対照的な、逆の霊的働きである。日本の歴史の要所要所で、妥協の罪の悔い改めが不十分であったことが、日本のリバイバルを妨げてきた要因と考えられる。
  そこに、どれだけ悪霊がいるかというと、2002年、千葉県のある古い稲荷神社での霊の戦いの直前に、ある姉妹が鳥居の中を通ったため高熱を出したほどであり、戦い前の写真には狐のような悪霊が写っていた。(→ 下・悪霊の写真) 悪霊はただ「盗み、殺し、滅ぼす」だけの者で、ゲヘナに落ちるのがふさわしく、「聖絶」されるべきもの、「憎むべき者」であり、私たちが決して妥協するべきものではない
  伝道・あかしに有効とはいえ、あくまでも霊的に悪いのだから、日本神道やニューエイジ、ユダヤ教、考古学的な遺物などとのかかわりは、行過ぎないように注意しなければならない。


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