2. Y染色体DNAの日本への移動とイスラエルの移動ルート



  (1) コーヘンのDNA:


  ユダヤ人の祭司職(コーヘン、レビ族、アロンの子孫)については、その特徴あるDNA配列がY染色体上にあることが、1997年イスラエル工科大のカール・スコレスキー、アリゾナ大のマイケル・F・ハマーらによって発見された。
  それは、9つの部位においてある特定の遺伝子の突然変異がコーヘンでは非常に多く起こっているが、普通のユダヤ人(ユダ族+ベニヤミン族の一部)の間ではそれほど一般的でなく、ユダヤ人でない集団の間では稀であるという調査結果だった。(アシュケナージ系コーヘンで45%、スファラディー系コーヘンで56%、一般のユダヤ人では全体の3〜5%) したがって、アシュケナージ系コーヘンもスファラディー系コーヘンとほとんど同じように、約半分はこの男系遺伝のDNA群を保っていることになる。

  このユダヤ人コーヘンの変異個所は、外見上全く異なるアフリカのグループに発見された。
  アフリカ南部、ジンバブエのレンバ族は、外見上完全な黒人であり、割礼と安息日を守り、豚肉とカバの肉を食べないなどの風習を持ち、イスラエルからセンナという所を経て南アフリカに移住してきたという伝承が代々伝えられている。また、彼らの祭司職のグループは”ブバ族”と呼ばれ、彼らによるとブバ族はイスラエルの12部族の一つであるとされている。
  このレンバ族についてのDNA調査結果では、レンバ族全体の男の 9%、”ブバ族”では 53%が、コーヘンに特徴的なDNA変異を持っていることが分かった。これは、イスラエルやアメリカのユダヤ人と全く変わらない割合である。(by.ニューヨークタイムズより)

  また、エチオピアのユダヤ人(ベト・イスラエル)のグループは、イスラエル王国が分裂した時、自ら捕囚として国を脱出し、エジプトからナイル川沿いに移動したダン族の末裔であり、(口伝トーラーではなく)成文化されたトーラーだけを守って暮らしている。これらの証言や証拠により、イスラエルは彼らを受け入れ、すでに8万人がイスラエルに帰還している。

  しかしながら、北イスラエル10部族のDNAについては、レビ族の大部分が南ユダと北イスラエルの分裂の時、ヤロブアムから職を解かれ、南ユダへ移動したので(U歴11:13−15)、今のところ、このDNA配列によっては、イスラエル10部族の手がかりを知ることはできない。新たに特徴あるDNA変異を見つけなければならない。ユダ族などが混じっていれば、その中にレビ族のDNA変異が発見されるかもしれない。

   

  * 一般的なY染色体DNAの分布によると、モロッコのアラブ人、中央アフリカのファリ、エチオピアのユダヤ人などには、中東、パレスチナと同じ F、G、J(セム系)、K、R(ヤペテ系)の系統が見出される。(エジプトに多いR系統は、アレクサンダー時代にギリシャ人が混じったことによる。)

          エチオピアのユダヤ人: A41%、E40%、J5%、K5% (22人)
          モロッコのアラブ人: E76%、J20%、他G、R (49人)
          カメルーン北部のファリ: B18%、E59%、R23% (39人)

            cf. レバノン(セム言語系) E26%、F*16%、J29%、R16% (31人)、
               シリア(セム言語系) E20%、F*30%、J15%、R25% (20人)、
               トルコ(アルタイ言語系) E16%、J40%、R14%、他G、Iなど (30人)、
               グルジア(カフカス言語系) E0%、G30%、J33%、R28% (63人)   F*(F祖型)はF、G、H、I、Jの分岐前の型


  * 因みに、日本や東アジアには、今のところセム系のDNAは見つかっていないが、さらに詳細な調査をすれば見つかると思われる。



  (2) 日本へのDNAの一般的な移動:


  日本へのDNAの移動は、D2系統の縄文人が先行し、その後 O系統の弥生人、百済からの移民などが大陸から移動してきた。
  では、D2系統の人々はどこから移動してきたのだろうか? チベットには、日本と同様 D系統が約半分存在するが、D系統の亜型の D1と D2が混じったものである。日本が D2系統のみであり、華南やインドシナ半島に D1系統がわずかに存在することから、チベット方面から華北・朝鮮半島を通って日本にやって来たと考えられる。
  D系統の祖型である D* は、ベンガル湾東部のアンダマン諸島に、部落ごとに集中して存在している。(オンゲ集団(23人)、ジャワラ集団(4人)は100% D* (xD1D2)) モンゴルのハルハ集団では D*は0.5%(2人/422人)であり、こちらのほうにも一部分散したようである。
  さらに、D系統 と E系統が分岐する前の、DE*(DE祖型)は、アフリカのナイジェリアで5例見つかったと報告されているので、このあたりが日本人の先住民である縄文人のルーツであると考えられる。

  したがって、現在アイヌ人にも残っている日本古来のアニミズム(精霊信仰)は、アフリカが発祥であると考えられる。そうすると、日本のピラミッド伝説や海底遺跡などの古代文明の説明がつく。(* これは、カナンのアシェラ崇拝、ユダヤ教とは異なる)
  奈良・平安時代にその名で呼ばれていた エミシ、ツチグモ、クマソは、C3、D2系統がその構成員だったと考えられる。

  O系統のうち、日本で見られるのは、大陸で北に偏った分布をしている O2b(朝鮮半島、日本)、O3(華北の漢民族)であり、朝鮮半島から渡ってきたことを物語る。台湾や南方からの O1、O2a は、沖縄も含めて非常に少ない。
  北方アジア系(アルタイ語族、シベリア、モンゴル)の C3系統は数%〜10数%で日本に広く分布している。日本列島における南方系 C1系統の影響はごくわずかである。琉球から南九州にかけての貝文文化は、大規模な火山噴火で滅亡する前は C1系統がその担い手であったと思われる。C*(C祖型)は南インド(一部オセアニア)に局在している。

  



  (3) シルクロードからのユダヤ人の移民:


  大部分の朝鮮半島・東アジアからの渡来人に加え、遠くペルシャやユダヤからの移民もあったと考えられる。
  イスラエルにある、失われたイスラエル十部族の調査機関”アミシャブ”によると、BC721年に新アッシリアによって捕囚とされた北イスラエル十部族の民は、一部はトルコ東部のクルディスタン(ペルシャ北部のメディヤの諸都市)に、一部は現在のアフガニスタン北部のアム・ダリア川沿いのハラトやハボル(ペシャワ−ル)などにいたとされる。(「ゴザン川、ハボル、ヘラ、ハラ」(U列17、18、T歴5)) また、その後は、一部はその地にとどまり、残りはシルクロードを通って東アジアの地に分散していったと考えられる。(「シニムの地」(イザ49:12、43:5)、シニム = シナ、秦)

  パタン族(パシュトゥン人)の人口は約1500万人で、大部分はアフガニスタン(800万人)とパキスタン(1000万人、国境付近の200万人は遊牧民)に住んでいるが、一部はイラン、インドなどにもいる。外見上ユダヤ人に似ていて、アミシャブもこのパタン族について特に重要視している。アフガニスタンにおけるパタン人の居住地域はアフガニスタンの国土の半分にも及ぶ。
  パタン族は、ルベン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフの息子など、失われた支族の部族名を持っている。(ラバニ族=ルベン、シンワリ族=シメオン、レヴァニ族=レビ(レヴィ)、ダフタニ族=ナフタリ、ジャジ族=ガド、アシュリ族=アシェル、ユスフ・ザイ族=ヨセフ、アフィリディ族=エフライム)
  また、彼らの伝承によれば、彼ら自身が「バニ・イスラエル(イスラエルの子ら)」であるという。パタン族は、イスラム教徒(スンニ派)に改宗しているが、旧約聖書を持ち、生後8日目の割礼(cf.イスラムは8日目ではない)、フリンジ(ふさ)のついて衣類、サバト(安息日)、ヘブライ語の名前(イスラエル、サムエル、ガブリエルなど)、食物の清浄・不浄の区別、門柱に血を塗る、贖罪の山羊などの、典型的なユダヤの慣習を持っている。
  またその言語にもヘブライ語起因の単語が数多く含まれている。

  ミャンマーやインドのマニプル州・ミゾラム州にいるメナシュ族(シルシン族)は、外見上はユダヤ人と異なるが、マナセ族の末裔と自認し、ユダヤの風習を持ち、アミシャブから十部族の末裔と認められイスラエルに一部帰還している。

  

  クルディスタンにおけるメディヤの支配の後、ガド族、ルベン族、マナセの半部族がクリミア半島に移住した。(イスラエル人の墓碑銘に移住していった人の名が書かれてある) その後、西はローマまで続いているシルクロード(北ルート)を通って東の中国まで移動したと考えられる。

  天山山脈の北に位置し、カザフスタンにある『弓月国(クンユエ)』は、199−283年には成立し、原始キリスト教を信じるユダヤ人が中心となって作った国といわれる。
  ローマ帝国でネストリウス派が異端とされたのが431年のエフェソス公会議、教会追放が451年のカルケドン公会議においてであり、シリア教会で本拠が成立したのは490年、5世紀にシリアからペルシャへ伝わり、中国に伝来したのは7世紀に入ってから(638年から唐において正式に布教が認められた)であるので、彼らは景教徒ではない。
  『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、秦氏が”ハタ氏”である由来について、仁徳天皇から”波多”の姓を賜り、また、秦氏は弓月君(ゆづきのきみ)であったと書かれている。彼らは、万里の長城建設の苦役を逃れ、朝鮮半島から日本へやって来たと考えられる。

  秦の始皇帝の時代はBC3世紀であり、時代がずれている。(* 秦の始皇帝は、体格が良く、目の色が青く、彫りの深い顔で、西洋人に近かったと言われている。山東半島の付け根にあるでは、2000年前と2500年前の人体のミトコンドリアDNAが分析され、それぞれ 中央アジア人、ヨーロッパ人に近い配列であり、時代が古いほどヨーロッパ人に近くなる。O系統と R系統は共にヤペテ系で近い。) 
  また、五胡十六国時代のチベット系(キョウ=タングート、蔵人)が384年後秦を建国し、わずか33年後に後秦が滅亡(417年)したが、その新羅へ逃亡した民の末裔が秦氏一族であるという説がある。時代からするとぎりぎりいっぱいである。
  中国の漢族以外は”秦人”と呼ばれていたので、このようにシルクロード沿いから来た民の総称だったと考えられ、その中にユダヤ人、イスラエル人たちもいたと思われる。したがって、西のほうからシルクロードを通って来た西域人にユダヤ教や原始キリスト教のユダヤ人たちがいて、日本へは(新羅を通って)、支配階層につく渡来人としてやって来たと考えたほうが良いと思われる。このように、支配階層につく少数のユダヤ人クリスチャンたちが、日本の初期文化に多くの影響をもたらしたと考えられる。


  15代応神天皇
が山口県あたりから大和に侵入した頃、天皇一族について行ってその統治を助けた秦氏が初めて渡来したのは 4世紀終り−5世紀初め頃からである。そのときまで新羅にしばらく定住し、大陸の技術を蓄えていたと思われる。(古事記、日本書紀よりも『梁書』の年代のほうが信頼できる)
  聖徳太子に仕えた 秦河勝(はたのかわかつ)の面が、1300年前から兵庫県赤穂市にある大避(おおさけ)神社(中国語で”大辟”は”ダビデ”の意)に安置されている。その顔立ちは、鼻が高く、堀が深い、西洋人顔(ユダヤ人顔)である。

  尚、天孫降臨の神話大嘗祭(*)は、アフリカ起源のアニミズムであろう。(チベットの初期の神話にも、天孫降臨に似た伝承がある)) ただし、日本神話の系図が旧約聖書と同じ形になっているのは、言葉などの文化を伝えたユダヤ系の秦氏が天皇のために作ったものであろう。

  * 大嘗祭:  平成天皇が1990年(平成2年)にこれをやってから日本はバブル崩壊が起こり、国の財政が破綻するなど、急に悪くなった。1990年11月22夜−23日未明にかけて、天孫降臨の儀式、大地の神気と同化する儀式(このときは秋田と大分で行なわれた)、出産の場という、完全なアニミズムである。(アフリカにも、大地と交わる儀式をもつ宗教はいくらでもある) 政教分離の原則から、宮内庁は、今上天皇の即位のための”私的行為”と言っているが、日本国に対する霊的な影響は大きい。(cf. ”即位の礼”は国として行なった公的なもの)


  シルクロードを通って、1000年以上も前からユダヤ人たちは中国に来ていた。1926年に洛陽で発見された3つのヘブライ語石碑の破片は、後漢時代(AD73年、明帝)のものであった。エルサレム陥落(AD70年)によって世界に散っていったユダヤ人の一部がここに来たとされている。(1989 5/13・エルサレムポスト誌)  また、最近、開封(カイファン)で発掘されている遺物の中に、紀元前後のユダヤ人を描いた人形(俑(ヨウ))が出ている。本格的にシルクロードが開通したのは前漢時代であり、前漢は積極的に西域交易を推奨したので、すでにAD1世紀には多くの西アジアやユダヤ方面からも人々が往来していたと考えられる。したがって、エルサレム教団が、中国に来ていたとしても何ら不思議ではない

  * 戦中、手島郁郎氏が開封に住んでいた時、友人の中国ユダヤ人が彼からお金を借りて、エルサレムまでシルクロードを歩いていって6ヶ月で戻ってこれた。彼らはシルクロードを手軽に行き来する感覚である。だから、日本の青森や戸来村に来ていても不思議ではない。


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