3. 海のシルクロードとエドム人の渡来・他の伝説



  (1) エドム人とユダ族の移動:


  ソロモンの時代、ヒラムの船団と共に、タルシシュの船団を所有していた。(T列10:22) (タルシシュ(タルシン)とはスペインではなくインドあるいはアフリカ東海岸であるといわれている((参)T列22:48) これらの船団はどちらも、エドムの地のアカバ湾(エイラト湾)奥のエジオンゲベル(エツヨン・ゲベル、T列9:26)から出港し、遠くはアフリカやインドまで行って象牙、さる、くじゃくなどを運んだと書かれている。これは、ソロモンの財力と ヒラムの航海技術によってはじめて可能になった。(後に、ユダのヨシャパテが船団を作った時、エジオンゲベルから出たところで座礁した。(T列22:48))
  また、エドムの地は、銅の精錬が盛んで、イスラエルのみならず、船に乗せて世界中に銅製品を輸出していた。銅の精錬のために、ユダよりも緑の木々が豊かだったエドムの地は砂漠になってしまった。(今日でも、エイラトでとれる銅はイスラエルの工業地帯に送られている)

  * エジオンゲベルとは、”巨人の骨”(=船の竜骨)の意味。竜骨の材料となる一本の大きな木はレバノンから運んできたらしい。

    

  この船によってもたらされた銅の精錬技術は、インドからインドシナ半島、マレー半島に伝えられ、この影響は時代が下った(BC2−1c?)日本へも持ち込まれたと考えられる。(1984−85年、出雲の斐川町の荒神谷から358本の銅剣が発掘され、この量は日本全土から出土した銅剣の60%にも及ぶ。この銅剣は、”クリス(クリーズ)型銅剣”と呼ばれ、中細・波状型であり、マレー人やインドネシア人が今も用いており、九州、中国、四国から出土したものと同じである。
  この航海は、イスラエルの財力のみならず、エドム人の高度な航海技術にもよるので、エドム人とユダ族の人々は、BC4−AD2cの間に日本に渡来した可能性が大きい。特に、BC4cには、エドムの地がナバテア人に奪われた時期であり、このとき多くのエドム人が国外に流出したと考えられる。
  (* 預言者イザヤも、船で日本に来ていたという説もある。イザヤ書39章と40章の間にはギャップがあり、40章から急に、「東の島々」、「地の果て」、「日の出る所」などの言葉が出てくる。)


  ・ 沖縄には、仏教の影響が少なかったため、多くのユダヤ教、キリスト教と関連の深い風習が色濃く残されている。(→ 4の2、沖縄のユダヤ性
  沖縄本島の南東部に接する久高島(くだかじま)(* この久高島の件はヨハネ会で調査中です)は、神官女の祈りの島であり、きわめて霊的な行事が行なわれるが、エジオンゲベルからの、特に、ユダ族が関わっているのではないかと考えられる。伊平屋(いへや)島(本島の北西にある)もポイントの島である。
  そして、久高島は、ユダ族が初めて上陸した所といわれ、菊の御紋があり、日本の霊的な要であり、天皇家と深いかかわりがあるといわれている。(* 皇室関係に関することは、現在公表すべきではないと思われるので、公表は差し控えさせていただきます)


  航海技術に長けたエドム人たちは、大陸や大きな島には上陸せず、彼ら『海人(ウミンチュ)』はこの小さな島に拠点を置いた。(後に薩摩藩に併合され、薩摩藩が富んだのはこのユダヤ人の商才による。この富によって、後の薩長同盟・明治維新へとつながる。また、ウミヘビ(イラブー)にはビタミンCがあり、それを削って航海中のビタミンCを摂取していたといわれる。)
  琉球の王は小さな島から出ている。シーサーは、ユダ族(しし)の象徴。沖縄には、ユダの一部が残り、レビ人は本土に移ったと考えられる。


  ・ 古代出雲の高層神殿建築は、ヒラムやエドム人の技術がなければ作ることはできないといわれている。彼らは人種的に渡来人らしい背の高い人たちである。また、エドム → イズモ(出雲)族 のように同じ名前であり、彼らはさらに、→ 伊勢 → 大和 へ移動したと考えられる。

  記紀と風土記に収録された日本神話の多くは出雲を舞台としている。(日本神話は、高天原、日向、大和、出雲に限定されている。)
  荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡からの銅剣、銅矛、銅鐸は、古墳時代よりも古いAD1世紀頃のもので、この時代には出雲を中心に山陰地方が繁栄していたと考えられている。15代応神天皇(4c末−5c初)も山口県あたりの豪族だった。(タイミングから、AD70年に離散したユダの人たちが、エドム人と共に海ルートからこの地に来たと考えられる)
  その後、大和朝廷を作った人々が、先住の縄文人と競合しないように、伊勢方面から移動して、わざわざ不便な奈良盆地に住み着いたのは、そこが大きな淡水泥湿地であり、稲作に適していたからである。(後の、秦氏一族もまた、AD4-5世紀以降、当時 泥湿地だった京都盆地に住みついていた。)


  ・ 伊勢外宮の石灯籠には、いわゆる『ダビデの紋(六芒星)』と共に、『ヘロデの ひまわり紋』(菊の紋もヘロデ紋の変形)が刻まれている。BC40年末にハスモン朝を倒して王朝を立てたヘロデ一族のヘロデ大王(BC73−BC4)の母はナバテア人(父はイドマヤ人)で、BC300年にエドムの地に侵入して奪った民である。だから、ヘロデはエドム人と深いかかわりがあり、エドム人がダビデよりもヘロデを記念したことは自然なことである。

  また、伊勢神宮における警備の仕方(パトロール、交代の仕方、交代の儀式、人数など)が、2000年前までエルサレム神殿(第2神殿)で行なわれていたものと全く同じであることは、ミシュナの『タミド』第1章から3章に書かれていると、見学に来ていた元主席ラビのシュロモン・ゴレンは語っていたそうである。したがって、エルサレム陥落(AD70)のすぐ後に、ユダ族の祭司階級(コハニム)が、エドム人と共に船に乗って、久高島、出雲、伊勢の順に来て、大和朝廷の基礎を築いたという考え方は妥当であろう。


  

  * エドム人の家系は、エサウの妻がハム系のヒッタイト人(ヘテ人)、フルリ人(ヒビ人)であり、彼らの文化(鉄器、カナン系の宗教)がエドム人に引き継がれ、これらが海ルートを通して日本の文化に影響を与えたとも考えられる。(鉄精錬のほうが銅精錬よりも低い温度(800℃)でできる。)



  (2) エフライムとハム系の宗教の伝来:


  創世記10:6 には「ハムの子孫は、クシュ、ミツライム、・・・」とあるように、ハムの直接の子どもではなく、その間に、A、B、C、D系統が分岐したはずである。

  クシュ(エチオピア)の子孫の猟師ニムロデは、シヌアルの地(バビロニア)に広大な帝国を建て全地を支配した。そして、ニムロデとその母は神格化され、”母子神崇拝”が形作られた。この霊的流れは後の時代まで続き、アシェラ崇拝、アシュタロテ-バアル崇拝、モレク崇拝(モレクはバアルの俗称)となって、カナンの地の代表的な偶像崇拝となった。(豊饒の女神とその英雄の子) これはさらに、マリヤ崇拝へと引き継がれ、終末の時の「大淫婦」という形でクライマックスに達する。
  モーセ、ヨシュアの時代にカナンの地にいた、ハム系人種の人々は次のとおりである。ヘテ人(ヒッタイトの末裔)、ギルガシ人、エモリ人(アムル人: 言語はセム系、ほとんどの古バビロニアの王はアムル系、ハムラビ法典)、カナン人、ヒビ人(フルリ人、ホリ人(創36:20−22))、エブス人、そして、ペリジ人(ペリシテ人、ミツライムの子孫)は、カナンの地における「聖絶の7つの民」(申7:1−5)とされている。これは、その時代、彼らの罪が満ちていたためである。(ただし、エリコの遊女ラハブは救われ、ユダのキリストの系譜に入っている)

  * cf. (1)のエドム人については、「エドム人を忌み嫌ってはならない。あなたの親類だからである。」(申23:7)と語られている。彼らの Y染色体DNAはセム人種系である。

  主は、イスラエルの民に、「アシェラ像、石の柱、バアルなどとは何の契約も結んではならない」、と語っている。しかし、後の時代、王朝が分裂した後のイスラエルでは、モレク崇拝で姦淫と 自分たちの子どもを火で焼いて捧げるという邪悪な風習が蔓延していた。アハブの妻イゼベルは、シドン(カナンの子孫)の王の娘であった。この捧げる場所は、エルサレムでは”ベン・ヒノムの谷”であり、これが「ゲヘナ」の語源となった。「聖絶」は、イエス様が十字架で私たちの身代わりに体験されたものであり、また、「第二の死」(黙20:6)が最終的なそれである。

 

  諏訪神社には、2つの奇妙な祭典がある。一つは、”ミサクチ”(ミ・イサク・チ)という、子どもを神に捧げ屠ろうとする時、馬に乗った者がそれを止める、という祭で、ちょうどアブラハムがイサクを屠ろうとした時、神の御使いがそれを止めたことの再現である。
  弓月国の近くに『スワイマン山』(スワイマン=キルギス語で”ソロモン”の意)があって、そのふもとにイサクを祭る場所があるので、この風習はシルクロード・陸ルートからユダヤ系の人々が持ってきたと思われる。セム系の”モリヤ神(イサク神)”は、洩矢(モレヤ)神:サマリヤ(ヨセフ)系、守矢(モリヤ)神:イサク系、の2通りの異なる時期のものだそうである。

  もう一つは、”御柱祭”という、柱(=アシェラ)に子どもをくくりつけて生贄とし、神に捧げるというものである。この御柱祭は、AD804年に桓武天皇の頃から、信濃国の総力を上げて奉仕したそうであり、ネパールの”インドラ・ジャトラ”という”柱立て祭り”が起源であるとされている。これは、@ カナンの地のフルリ人 → A 古代インド(ゲルマン系) → B ネパールのインドラジャトラ(柱立て祭) → C 日本(諏訪)のように伝わった。

  これらの風習は、旧約聖書とカナンの偶像崇拝が習合しており、古い時代に陸のシルクロードを通って、初め出雲にやって来たのが追放され諏訪の地に来た人々、あるいは、伊勢方面から渥美半島を通って信州へ登っていった人々によるものであり、カナンの偶像崇拝の影響を受けたイスラエル系の人々がもたらしたものであると考えられる。
  長野県諏訪の地には、鉄鐸、鉄剣などの製鉄技術が古くから伝わり、ペリシテ人に滅ぼされるまでアナトリア(トルコ)にいた、ヒッタイト人の文化(BC1450−1200)がこの地に及んでいたことを物語っている。ヒッタイト人の末裔がアブラハムの時代のヘテ人である。



  (3) その他の伝承:


  秦の始皇帝の時代(BC3世紀、BC259−210)、万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満を抱き、東方の島、新たな地への脱出を考えていた”徐福”という人は、皇帝のために不老不死の薬を手に入れると言って、日本に脱出した。彼らは、はるか東の海に蓬莱、方丈、瀛洲(エイシュウ)という三神山があって仙人が住んでおり、不老不死の薬があって、この薬を求めて旅立ちたいと申し出て認められた。台風などで2度は失敗したが、3度目に若い男女ら3000人を伴って大船団をくみ旅立った、といわれている。
  1982年江蘇省において徐阜村(徐福村)の遺跡が発見されたので、中国当局は徐福という人物は実在したとしている。

  この”徐福(ジョフク)”が、ヨセフ族(エフライム+マナセ)であり、まず新宮に上陸し、熊野、伊勢、富士吉田(富士山に来たということで)、立山などに来て住み着いたという伝説がある。




  (参考) オフィルからの金:


  ヒラムの船団は、エジオンゲベルからオフィルに行き、非常に多くの金を取って、ソロモン王のもとに持ってきた、と書いてある。(T列26−28) オフィルとは、アフリカ航路の”ソファラ”という所で、ジンバブエに近い港である。
  奇しくも、ジンバブエは、今のユダヤ人とほぼ同じ Y染色体DNAの濃さを持つ『レンバ族』が発見された場所である。彼らはソロモンの時代に、金の採取に関わってここに来ていたと考えられる。それが、時代が変わり、船が来れなくなって、この地に取り残されたと思われる。(南アフリカにもメノラが出土している)

  彼らは、金だけではなく、象牙、さる、孔雀、ビャクダン、宝石などをソファラで積み込み、インド方面に売って莫大な利益を得ていた。
  このルートには、シェバの女王のいたエチオピアも通っている。

  レンバ族がしばらくいたという、伝承の町 センナ(現在のイエメンにある)の近くの港町サイフトから、約9日間でソファラに着くといわれている。逆に、ソファラからインド方面への航路は、モンスーン航路という海流にうまく乗れば1週間程で行くことができるという。







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