2. 離散ユダヤ人の歴史



  (1) ユダヤ教の成立:


  ユダヤ教はエズラに始まる。 BC515年ペルシャがバビロニアを滅ぼしたので、バビロン捕囚の民は、エズラを宗教的指導者、ネヘミヤを有能な政治家として、帰還民を導いた。ただし、エルサレムにおける神の栄光(神の霊 = 主の臨在)は、すでに、バビロンによる陥落の直前に去っていた。(エゼ11:23) 主の臨在がなければ、律法は人を殺す「文字(もんじ)」になってしまう。エズラは、律法(トーラー)を学んで実践し、イスラエルで、ペルシャのように法と定めを教えようと決意した。(エズ7:10) 帰還民たちは、ソロモン神殿に対する”第二神殿”を再建したが、BC37年、ローマからユダヤの王に任命されたヘロデ大王は、この第二神殿の大規模な改築工事を行なった。

  BC5c後半〜BC4c初め(ペルシャ帝国支配中): 律法の書(トーラー、モーセ五書)が聖典とされる
  BC323頃まで(アレクサンダー大王帝国支配): 預言者の書が聖典とされる
  ヘブライ語聖書全体が聖典とされたのは、AD90年頃(ローマによるエルサレム陥落AD70年の後)
     ・・・・・  1947年に死海北西岸の元クムラン教団の洞窟から、BC2c〜AD1c後半にかけて記された旧約聖書巻物の断片が数多く発見された。(「死海文書」(*)、ただし、エステル記(「」という言葉が一つもない)の断片は欠けていた) しかし、AD90年頃のヤブネで開かれたユダヤ教学者たちの会議では、エステル記を含む39の書物が聖典として認められ、現在、キリスト教の”旧約聖書”にもなっている。(新約聖書は27巻なので、3×9=27(さんく にじゅうしち)と憶える)

  * イザヤ書53章にはキリストの姿が描かれている。その記述があまりにも正確なので、死海文書が発見される前には、”キリストの十字架を目撃した弟子らが、あたかもイザヤが書いたように見せかけるためイザヤ書に挿入した”と言われていた。ところが、1947年エリコの南11km、死海の西1.6kmにあるキルベト・クムランで、ベツレヘムへ荷物を運んでいたベドウィンの少年が乾季のワジ(乾いた川)に迷ったやぎを探していた時、一部が崩落したこの洞窟を発見した。彼らは砕けた壷に入っていた巻物を、エルサレムにあるシリア正教・聖マルコ修道院に手渡した。そこからアメリカ東洋研究所へ鑑定のため送られた。これらの巻物は最古の写本よりも1000年も古いもので、そのうちの書かれてあったイザヤ書は今日のイザヤ書と全く同じだった。(年代BC200年、巻物は長さ7m、縦25cm・横38cmの羊皮紙を17枚つなぎ合わせたもの)


  しかし、AD67〜73ユダヤ人の対ローマ戦争は AD70年にエルサレムが崩壊・炎上し、また 132〜135年の第二次対ローマ戦争(バル・コクバの反乱)でもユダヤ人の敗北に終わった。そして、多くのユダヤ人が殺され、奴隷として売られた。このとき、サドカイ派(貴族)、エッセネ派(禁欲)は滅亡し、離散(ディアスポラ)の民に継承されたのはパリサイ派(民衆派)のユダヤ教である。

  ラビたちユダヤ賢者らはまず、AD220年頃までに 「ミシュナー」((ヘ)”復唱”の意)と呼ばれるユダヤ教の口伝集(口伝律法、言い伝え ⇔ 成文律法 = 旧約聖書)を編纂し、その後 6世紀までに、それをさらに発展させた「タルムード」が編纂された。
  タルムード((ヘ)”学ぶ”の意)は、まずミシュナーを引用して、ゲマラーという本論が続く。これらは、おそろしく現実的な宗教生活や日常生活のすべての規定を複雑に述べていて、その量はブリタニカ大百科事典20数冊分になる。”宗教”生活に関する法規や慣習で満ちていて、ユダヤ賢者の逸話やたとえ話を付け加えて記述されている。しかしこれは、全く不信仰な聖書の実践である。内容は6つに大別され、

   ・ 種子篇(ゼライーム) ・・・ 祝祷(ベラホット)、什一税、安息年、初物、・・・・
   ・ 祭日篇(モエッド) ・・・ 安息日(シャバット)、過越祭(ペサハ)、七週の祭(シャブオット(=ペンテコステ))、大贖罪祭(ヨム・キップル)、仮庵(スコット or スカー)、断食、・・・・・
   ・ 婦人篇(ナシーム) ・・・ 誓願、ナジル人、結婚契約書、離婚、姦淫、・・・・・
   ・ 損害篇(ネズィキン) ・・・ 人・家畜・動産・不動産取引、法廷、証言、偶像崇拝、・・・・・
   ・ 聖物篇(コダシーム) ・・・ 動物犠牲、供え物、神殿の寸法、初子の聖別、追放、・・・・・
   ・ 清潔篇(トホロット) ・・・ 器具、天幕、みそぎ、手の汚れ、月経、らい病、・・・・・

  * レビ記にあるこれらの各種の日は、キリスト教において、預言的な意味を持つ ・・・ 過ぎ越し・・・十字架、七週・・・聖霊降臨、大贖罪祭・・・再臨、仮庵・・・千年王国

  これらは、はるか昔に民族から主の臨在が失われているので、また、神の子イエス・キリストの「救い」を信じ受け入れなかったので聖霊様を受けることとは何の関係も無く、自動的に”人間的な教え”とならざるをえない。ただし、哲学的に単なるヒューマニズムと違うのは、「人は神に似せて創造された」という聖句からきていることである。ユダヤ人の間では、子供に律法(トーラー)を教える前に、”礼節”、”品位”、”美徳”である『人の道』(デレフ・エレッツ)を教える。
  ユダヤ教の人間観は、”良き衝動”(寛容、慈愛など)と”悪しき衝動”(虚栄心、強欲など)との対立があるので(ギリシャ思想でいうと”霊”と”肉”に相当するが、完全な分離・対立ではなく)、精神が肉体を従えるまで霊魂を発達させる必要があり、霊が強くなれば肉も喜んで調和がとれた人生を送れる、というものである。また、宗教的に優れた人物ほど悪しき衝動が大きいとされている。

  パウロの時代の初期のキリスト教会には、当時のユダヤ人たち(にせ使徒、にせ教師)による”律法主義”の危険な異端が入りやすかったので、みことばはこれを警戒している。

    「律法はキリストに導くための養育係」(ガラ3:24)、「無力、無価値の幼稚な教え奴隷」(ガラ4:9)
    「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(コロ2:23)
    「ほかの重荷(=律法)を負わせない」(黙2:24)



  (2) 中世ユダヤ教の神観:


  ユダヤ教は「ヤハウエ」(YHWH)神の一神教である。
  国家のない中世におけるユダヤ人は、キリスト教の隆盛の中でアシュケナジーの文化的伝統、イスラムの隆盛の中でスファラディーの文化的伝統が、それぞれ引き継がれた。

  AD8cの初め、イスラム帝国の大征服がほぼ完了し、イベリア半島、北アフリカ、中央アジアまでもがイスラム圏となった。9cのバグダードでは、古代ギリシャの膨大な文献をアラビア語に翻訳する国家事業が行なわれ、17cにデカルトが現れるまでの西洋哲学全体を方向付けた。
  イスラムは、キリスト教と違って、ユダヤ人コミュニティーに対し、人頭税を徴収し、乗馬を禁じ、特別な服装をさせたが、ユダヤ教には比較的寛容であり、会堂や教学院を破壊するような暴力はほとんどなかった。

  イスラムとユダヤは、どちらも”神は何よりも一”、”一なる神”であり、キリスト教の”三位一体”、また、素朴な多神教、古代からの善悪二元論などは邪宗とされた。

  ここで、「啓示」(法、預言、人格神、人に啓示する神、歴史に介入する神)と「理性」(全知全能、目に見えない神、像を持たない神)という対立する神観を、この”一なる神”(比較可能なものの無い神、創造主 = すべての存在の一つの原因)によって調和させたのであった。「啓示」とは、「ただ一人の人格神による創造」(宗教的な世界観)であり、「理性」とは、「自然法則が支配する宇宙」(アリストテレスの哲学的世界観)が、イスラム、ユダヤにあっては統合された。このギリシャ哲学の思想や知識は、後に、スファラディー・ユダヤ人によってラテン語に翻訳されヨーロッパに伝えられることになる。

  アシュケナジー・ユダヤは、730年、トルコ系のハザール(カザール)王国の王がその王国ごとユダヤ教に転宗したユダヤ人である。(* ただし、スファラディー同様、アシュケナジー、近年、父系遺伝する”Y染色体”の調査の結果、混血の程度の違いは有るものの、遺伝子に同じユダヤ人の明らかな特徴を持つ正真正銘のユダヤ人であることが分かった。) ハザールの王は国教を選ぶ時、哲学者、キリスト教の学者、イスラムの博士の3人を呼び寄せたが、2人の宗教家がトーラーを啓示の歴史的確証として挙げたため、急きょ1人のラビを召喚した。王は、シナイ山で十戒が与えられたことが”民族全体への啓示”であり、妄想かもしれない個人への啓示ではないことに感心し、ラビとの問答にのめり込んで受け入れたと言われている。

  カバラー(ユダヤ教神秘主義)は、中世のイベリア半島から15cのスペイン追放後爆発的にユダヤ人の間に広がった。カバラーの特徴は知恵、理性、慈悲などの神の属性を表わす10のスフィロット(数)である。スフィロット相互の関連より、”神はなぜ宇宙を作ったのか”、”神はなぜ悪の存在を許すのか”などの哲学的問題を説明する。カバラーは主に知者の黙想の中にあったが、中世末期のユダヤ大衆のメシヤ運動につながっていった。(本来のユダヤ教カバラーは、占いや魔術のようなキリスト教カバラーの俗流ではない。)



  (3) 中世キリスト教世界の迫害:


  一方、キリスト教世界にあっては、すさまじい迫害の歴史であった。(反ユダヤの霊、獣)

  ・ 十字軍の間違った情熱により、エルサレムでは残虐な殺戮と破壊が行なわれた。主な標的はイスラム教徒だったが、”遠くのムスリムより近くのユダヤ人を”を合言葉に、イングランドからライン河畔、エルサレムまで、改宗を拒んだユダヤ人がコミュニティごとに根絶され、100〜1000人単位の殺戮が繰り返された。

  ・ 中世ヨーロッパでは、ユダヤ人がキリストを殺したという宗教的な理由や、ユダヤ人がキリスト教徒の子供の血をささげるというような迷信、ペストの原因がユダヤ人が井戸に毒を入れた(14c ペスト禍)という根も葉もないうわさから苛烈な迫害を受けた。

  ・ 1492年アラブ支配のスペインがキリスト教に再征服(レコンキスタ)されると、ユダヤ人(バビロニアから移動したスファラディー)は追放か改宗を迫られ、キリストへの忠誠を疑われた改宗ユダヤ人たちは異端審問の拷問にかけられ、ナポレオン時代までに、スペインだけで3万人が火あぶりの刑に処せられた。

  ・ また、15−18cにはゲットーに押し込められ、居住や生活のさまざまな権利や職業・服装などが著しく制限され、時折起こる焼き討ち・略奪、殺戮、追放の憂き目に合わなければならなかった。ユダヤ人は土地所有の農業や製造業が禁止されたので、必然的に都市部に集まらざるを得なくなり、家畜などの商業や”利子金融”業をすることになった。(キリスト教信者どおしでは利子を取ることは禁止されていた) ユダヤ人は小さい時から厳しい教育を受け、読み書きができたので識字率が高く、商才に長けていた。そのため、キリスト教の君主や領主たちはユダヤ人を”王室直轄財産”などとして利用した。
  14cドイツでは、領主は民衆の不満をそらすため、ユダヤ人からの略奪を容認し、しばしば追放した。(スケープ・ゴートにされた) しかし、その後決まってキリスト教徒の悪徳業者が現れ金利が急騰し、農民は耕地を差し押さえられ、国庫はひっ迫したので、多くの領主は数年後にはユダヤ人を呼び戻したといわれる。
  15−16cスペインの大迫害下で、ユダヤ人は、信教の自由を認めるオランダへ信用と財産を持って逃れ、その結果、オランダはスペイン、ポルトガルの経済的覇権を奪っていくようになった。

  このユダヤ人の鍛えられた商才と高い教育水準は、近代ヨーロッパの中で生き抜き、社会のさまざまな分野にのし上がる力となっていったが、同時に、中世とは異なる新たな迫害の原因(「素朴な宗教的迷信」 → 「合理主義下の反ユダヤ主義」)となり、20世紀のホロコーストへとつながっていったのである。



  (4) 近代ヨーロッパの反ユダヤ主義:


  1789年フランス革命勃発(バスティーユ襲撃)の直後、フランス国民議会(第3身分による議会)は”人権宣言”を採択した。それにより、ユダヤ人にのみ課せられていた不平等な”人頭税”やいくつかの都市での居住の制限や小作人を使う大規模農業の禁止から解放され、少なくとも法的には差別が撤廃された。(1791、実際には地域差があった) この「法のもとでの平等」は、さらに半世紀以上かけて、オランダ(1848)、イギリス(1858)、オーストリア(1866)、ドイツ(1871)、スイス(1874)などにも波及した。(ロシアとスペインでは第一次大戦まで解放されなかった) しかし、ユダヤ人にとって困難であったのは、いかなる政治団体や宗教団体も作ってはならず、それらから独立した個人として市民の義務を果たすものでなければならいことであった。
  フランス革命はカトリック教会と真っ向から対立して行なわれた。(教会財産の没収、聖職者を政府の管理下に置く) ナポレオンは、1801年教皇ピウス7世と宗教協約を結び、カトリックとプロテスタントに宗教の自由を与えた。しかし、ユダヤ教に対しては慎重に、1808年にサンヘドリンを解散させ、これまでに例のない(アシュケナジー、スファラディーを統合した)1元的な「長老会(コンシストワール)」という信徒組織を作らせ、市民権のあるフランスを祖国と認め、奉仕し、それを守る(兵役の義務)ことを言明させた。

  さて、ユダヤ人を解放した社会からは、ロスチャイルド家のような政商でも、旧体制時代の”王の金庫番”として雇われていた大資本家でもない、一般からの「ユダヤ人エリート層」が生まれてきた。
  職業制限を解かれたユダヤ人たちは、それぞれの専門に分かれた国立の教育機関に学んだ。(技術将校や実業家のために理工科学校(ポリテクニク)、上級教員のために高等師範学校(エコール・ノルマル)、政治家や外交官のために政治学院(シャンス・ポ)) 一般に、ユダヤ系の家庭では、子弟にできるだけ教育を授ける傾向にある。フランスやドイツでは、自由を得たユダヤ人の社会的エネルギーがそのまま国の近代化につながった。しかし、近代国家の諸制度を巧みに利用して社会に進出してくるユダヤ人を憎む人々が増えていった。反ユダヤ主義の論拠は、宗教から人種差別へ変化し、ユダヤ系エリートは、普通のフランス人以上に愛国心を誇示していかなければならなかった。ドイツでは、改宗やキリスト教徒との結婚など、ドイツ社会へ同化していこうとした。

  ヒトラーが1933年、悪名高い”全権委任法”を国会で成立させ、1934年ヒンデンブルク大統領が死去するとすぐに国防軍はヒトラーに忠誠を誓い、大統領も兼ねる”総統”として唯一の権力者となった。ヒトラーは、政敵の共産主義者たちを抹殺し、もともと反ユダヤ主義の偏見の塊であったのでユダヤ人への圧迫を次第に強めていった。
  1935年のニュルンベルク法は、ユダヤ人を単に国籍を持つだけの2級市民におとしめ、以後のドイツ人との結婚を禁止した。1938年の”水晶の夜事件”ではドイツ全国で1000以上のシナゴーグが焼かれ、7000件以上の商店が壊され、96人のユダヤ人が殺され、3万人以上が逮捕され、事態収拾のためとして10億マルクの罰金が科され、翌年からの店舗や企業経営が禁止された。(経済のアーリア化)

  パレスチナに移住するためのドイツとの協定(ハーヴァラ協定・1931)は、パレスチナに移住するユダヤ人に資産持ち出し(帝国出国税を全資産の1/4取る)を優遇する法だった。しかしそれでも、文化的に近いヨーロッパ諸国や新大陸のほうへ移住するユダヤ人が多かった。(1939年までのドイツからの移住者数は、パレスチナ:5万5000人、他のヨーロッパ諸国:7万4000人、アメリカを含む海外:10万5000人)
  また、アメリカにおいてさえも、いくつかの事件から、黒人並みの人種差別が行われたと言われている。

  ドイツは1939年ポーランドへ進出して第二次世界大戦が始まった。ホロコーストの当初は、ソ連ユダヤ人を銃殺するという形で始まったが、同年、ポーランドで絶滅収容所が建設され、1942年のヴァンゼー会議でユダヤ人の絶滅計画が決まり、600万人と言われるユダヤ人犠牲者のうち、300万人が収容所で殺害された。(アウシュビッツ:100万人、ベウジェツ:60万人、ソビボル:25万人など、 (国別)ポーランド:270万人、ソ連・バルト3国:210万人、ハンガリー:56万人、ルーマニア:21万人、ドイツ:16万5000人など)

                                         →  アウシュビッツの記録

  (ドイツの略歴)

   1918 ドイツ革命、社会民主党による共和国政府
   1929(昭和4) 世界大恐慌
   31〜32 第一次大戦の賠償金およびアメリカ資本が引き上げ輸出が停止したことによる猛烈なインフレ、失業者600万人、ナチス党の台頭・国会の第一党になる
   1933 ヒトラー首相になる、対抗勢力である共産党を大弾圧、全権委任法の成立、処刑場と強制収容所が数多くできる
   1938 ナチス宣伝相ゲッペルスによるユダヤ人大弾圧
   1939 9/1 ナチス・ドイツ軍ポーランドへ侵攻・第2次世界大戦開始
   1940 アウシュビッツ強制収容所建設
   1941 ユダヤ人は居住区(ゲットー)に押し込められる、ユダヤの星をつける義務、食料配給の制限、学校の閉鎖
   1942 ユダヤ人絶滅計画作成、ガス集団虐殺始まる
   1945 撤収移動(死の行進)、4/30ヒトラー自殺、5/2ベルリン陥落、5/7全ドイツ軍降伏

  


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