福音の 再確認について   ・・・・・ 東からの大リバイバルの備え

                                            2019年6月3日

  (まえがき)

  最近、かつて用いられた、あるいは 現在も用いられている 幾つかの教会で、異端カルト、あるいは 異端的教理・間違い教理に陥っているものが見受けられます。 救いの教理に間違いが入っているものを異端と呼び、救い以外で教理に重大な間違いが入っているものを 異端的 と呼びます。
  特に最近、ペンテコステ、カリスマ派などの福音の教理に弱い所が間違いを犯しています。 (* 福音派などの保守的な教会は、「救い」はOKですが、伝統的に、「反カリスマ」、「艱難期 前 携挙」の教えが 2大間違い教理です。 ただし、一度救われたら、その後は何があっても 自動的に天国行き、というわけではありません。死ぬ瞬間まで、信仰を保っている必要があります。 また、「聖霊を汚す罪」は赦されません。反カリスマで、ねたみにやられて、(明かな)聖霊様のわざが起こっているのに悪霊呼ばわりすると、救いを失います。 救いの賜物「1タラント」のみでは失う危険があります。)
   → 反カリスマ、艱難期前 携挙の間違い

  また、現状の 元々の異端も含めて比較し、真の福音とは何かを、「聖書」のみことばから検討していきたいと思います。
  聖書は、伝統ではなく 歴史的事実から、Nestle Aland (×)、70人訳(×) を止め、底本が Textus Receptus(新約・ギリシャ語)(○)、 マソラ本文(旧約・ヘブライ語)(○) である聖書を基本的に用いることとします。(ただし 欠けているものの一部に70人訳含む) (→ 聖書改ざんの背景

  御声に聞く聖霊様の導きにゆだねて礼拝する、などのためには、「わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける。」(ヨハネ10:27)とあるように、主の羊として、まず「救い」を受けていなければなりません。 今まで一度も主の御声を聞いたことがない、という人は、どうぞ「救い」を確認してください。
  そして、イエス様の近くにいつも座っていなければなりません。マリヤのように耳を傾けることを選ぶべきなのです。
  また、(「神のわざを行うために 何をすべきでしょうか」の答えとして、)「神がお遣わしになった者を信じることそれが神のわざです。」(ヨハネ6:29、ヨハネ17:8) 人間的な努力・行いではなく 神のわざとして開かれます。 ex) タナボタ教会など。 主が語られた言葉を受け取ったならば、勝利です。 あとは、主が語る言葉を握って、(主に祈りつつ、すでにかなえられたことを感謝しつつ)時を待てば(忍耐=待つこと)、主の時に、主が事を成してくださいます。
  このような「信仰」の歩みを主は喜んでくださいます。(ヘブル11:6) しかし、今の時代に、「はたして、信仰が見られるだろうか?」(ルカ18:8)


    「あなたがたの中で 本当の((直訳)試験済みの)信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。」 (Ⅰコリント11:19)

  今は、東からのリバイバル(イザヤ59:19、20)に日本が用いられるために、地震などの外乱と共に、多くの惑わしが教会に入ることさえも むしろ逆に用いられ、終末の大リバイバルに備えるための秩序の再配列へと 全体が動いています。




  1. 原罪について:


    「しかし良し悪しを知る木からは あなたは取って食べてはならない。 それを取って食べる日に、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:17)

    「But of the tree of the knowledge of good and evil, thou shalt not eat of it: for in the day that thou eatest thereof thou shalt surely die. 」(KJV)

   


  哲学的な”善悪”のことを言っているのではなく、単純に 「神の立場に立って 事の良し悪しを規定してしまう性質(=自分が神になること)」、これが「原罪」であり、大昔のアダムとエバの、ほんの一時期のただ一つの不従順を通して 人類全体に入り込んでしまった罪の性質です。
   * この「良し悪し」は、他の箇所で、「TWB、トーヴ = good、美しい・好ましいもの」(「ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)、「食べるに良く」(創3:6)、「人の子の娘が美しいのを見て」(創6:2)と同じ言葉)、また 「RAh、ラー = evil、邪悪」 という意味です。また、「(主がラバンに、ヤコブと)事の良し悪しを論じないように」(創31:24)

    「義人はいない。 一人もいない。」 (ローマ3:10)

  とあるように、上から来られた方、イエス・キリスト以外は、大なり小なりすべて罪の性質を持っているのであり、例外はありません。
  それゆえ、たとえばイエス様の母マリアの”無原罪説”は間違いです。(”聖母”や”聖人”という呼び方はできない。)  この原罪が、余罪を生み 「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」のです。
  (救われている、良心的なカトリックの人にさえ、このマリア崇拝は たましいに深く入っている人が多い。 キリシタンの時 迫害がひどかった理由と考えられる。(黙示2:23))


  なぜ、神様は エデンの園に、いのちの木と共に、わざわざ 良し悪しを知る木 を植えられたか、という疑問はたびたび投げかけられます。 それは、主が、アダムとエバが 神様の作品であり、主の誇りであり、信頼関係で結ばれていたい、と考えられていたからです。 人はロボットではなく、自由意思をもつ (そのような意味で 御使い以上の)存在として 造られました。 しかし、サタンの狡猾な誘惑によって、彼らは 見事に裏切ってしまいました。 ”惑わした蛇が悪いのです”と言っても、さばきは両方に行われ、惑わされた側も裁かれる、という結果になりました。 ここで、もし罪を犯した瞬間に、”神様、ごめんなさい”と言えば、あわれみ深い神様は赦してくださっただろうと思われます。 しかし、すでに 「良し悪しを知る知識」が彼らの霊に入ってしまったので、悔い改めができない霊性になってしまっていました。 これがサタンの策略でした。
   しかし、主は、この直後に、キリストによる救いの約束を与えてくださいました。(創世記3:15)

  神の立場をとって良し悪しを規定することは、自分を見て恥ずかしいという感覚を与え、神から離れていく道を歩ませます。 逆に、御子イエス様の十字架の贖いを信じて、罪赦され、救われた者には、「アバ、父」と呼ぶ救いの霊が その人の霊の所に瞬間的に入ってくださり、その時から永遠に無条件に神の子とされます。 この内なる聖霊は、常に救われた私たちの内側から語ってくださり、次第に私たちはきよめられていきます。 キリスト者の成長は、成長するほどに、世のあり方とは逆に、ますます神様に より頼む者になります。 イエス様が、「父のしていることを(幻で)見て、子がそれを行うことしかできない」(ヨハネ5:19) ように、「キリストに似た者」(Christ-like-ness)になること(ローマ8:29)、 「敬虔」な者(神の子として御声に聞き従って日々導かれて歩む者)(Ⅱペテロ1:3、Ⅰテモテ6:6)が、私たちの最終的な目標です。
  十字架を信じた私たちは、赦された 罪人です。


  ・ セカンドチャンス論の間違い:

  「(良し悪しの木の実を取って食べる) その日に、死ぬ」 (日=ヨム・キプールなどのヨム)ということは、霊的に死ぬことを表しています。 もちろん肉体の寿命は有限になりましたが、彼らが直ちに死んだのではありません。 これと同様の表現で、

    「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」(Ⅰペテロ4:6)

  これは、しばしば”セカンドチャンス論”の根拠とされますが、 これは前節(4:4、:5)との関係から、 (今生きている人々の中で)霊的に死んだような人々さえも、罪の肉体は滅びても (恵みによって)霊だけは救われる、ということを言っています。 「(世的な働きや肉体は滅びても、霊は)火の中をくぐるようにして助かる」(Ⅰコリント3:15) と同じです。
  伝道に セカンドチャンス論が入ってしまうと、伝道の働きを非常に弱めてしまいます。





  2. キリストの十字架による贖いが完全なこと:


  (1) イエス様の神性と人性:


  旧約時代にイスラエルの民が行っていた 一連の贖いの儀式は、 来るべきものの影、予型であり、それは ただ、ますます人々の罪を 年毎に思い起こさせるものに過ぎない不完全なものでした。 それは実に、神の子イエスキリスト ・・・ 「大祭司」にして 「犠牲(いけにえ)の小羊」 ・・・ による、 だた一度の「十字架」によって ご自身を御父にささげられ、(異邦人を含む、すべての)「信じる」者の 贖いが完全に全うされました。 ねたみによってイエス・キリストを十字架につけたユダヤ人たちの不従順によって、救いが全世界に及んだのです。 これは 主の 大いなる計画でした。


  聖書では、「霊」、「たましい」、「体」は、旧約・聖書ヘブライ語でも、新約・ギリシャ語でも、明確に区別されています。( 霊: רוּחַ (ルーアπνεύμα(プニューマ)Spirit、 たましい: נֶפֶש (ネフェシュ)ψυχή(プシュケー)Soul、  体: גוּף (グーフ)σώμα(ソーマ)Body )
   Ⅰテサロニケ5:23 より、 「(主の再臨の時、) 霊(πνευμα、プニューマ)」、 たましい(ψυχη、プシュケー)、 体(σωμα、ソーマ) が完全に守られますように。」 ・・・ 人の3層構造。 霊は実体、 たましいは 知・情・意という精神活動を担う場所。

  約2000年前、(=実体)は完全な、 たましい(=知性・情操・意志 の場)と肉体は 完全にとして来られた イエス・キリストによって、救いは完了しました。 イエス様が完全な神であるからこそ、十字架にそれほど大きな力があるのです。 イエス様の神性を否定するものは異端であり、霊が違います。

    ・ 御子イエス様の「神性」、「神の三位一体」を否定するものに、エホバの証人があります。 異端の多くは、神の三位一体を否定しています。(エホバの証人は 地獄の存在をも否定し、すでに千年王国が来ているとしています。(だから集会所を”王国会館”と称する)  cf. モルモン教は、カトリックのように 聖書とは別の”モルモン経”に権威を持たせています。  ユダヤ教は、口伝律法をまとめたミシュナーをもとに、ディアスポラの歴史と共にタルムードが形成され、旧約聖書の精神とは似ても似つかない世界一複雑な宗教となっています。  カトリックの権威は、1.聖書、2.伝承、3.ローマ法王がその座から語るときの言葉 、の3つにあり、本当に救われている人は多くいません。 カトリックのごく初期からの マリア無原罪説などを含め、バチカンのことを”大いなる異端”と呼ぶ人もいます。)


    「人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は みな、神からのものです。」 (Ⅰヨハネ4:2)

  一方、たましいが 人として来られた、とは、イエス様のご生涯で たびたび喜・怒・哀・楽を表されたことから明らかです。 ( ex) 嵐のガリラヤ湖の小舟で弟子たちに起こされた時 不機嫌に言われた。 ラザロが生き返ることが 御父に示された時 そこに居合わせなかったことを喜び、実際にラザロが葬られたところに行かれた時 涙を流され、また 人々がつぶやいたとき憤りを感じられた。 コラジン、ベツサイダなどへのさばきの宣告に際し 「ああ、」と感嘆詞で嘆いておられる。(道徳的には善人の町なのに、聖書に預言されていた、天から来られた御子イエス様を拒絶したので、ソドムやゴモラよりも厳しい裁きになります)  「悲しみの人(=痛みを知る人)で、病を知っていた」(イザヤ53:3))

  御子イエス様は、「聖霊」によってお生まれになり、第二位格の神。 しかし 本格的な「公生涯」を送られる直前に、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられた後、天から鳩のように「聖霊」が下って来られ、このように、たましいが(第三位格の)聖霊様に満たされました。 もちろんイエス様は神であり、ひれ伏して拝まれるべきお方であり(ご降誕の時「東方の博士たち」)、ご自身で命令を下すことがおできになり、十字架からさえも 降りようと思えば降りることができ、御使いに命じて ローマ兵やパリサイ人を瞬時に滅ぼすこともできた方ですが、結局、御父に従って(「苦き杯」の幻)最後まで十字架を全うされました。 これは 私たちに、聖霊様に満たされ、主に聞き従ってわざをするようにとの模範を示されるためでした。(↓ (3))

  また、イエス様の本来の神の御姿を現されたことがありました。 変貌山の所です。(ルカ9:29) (もう一つは 「昇天」(使徒1:9)の所) このときモーセとエリヤも現れ、イエス様のご最後について話をしていました。(モーセとエリヤは それぞれ旧約の「律法」と「預言者」の象徴。 このとき、終末の時にモーセとエリヤに対し、もう一度世に出て来て 主と同じように十字架を通しての あかしをしてくれないか、と話していたと思われます。(黙示11:3-13))


   * ローマに寝返って歴史家になったユダヤ人の ヨセフォスヨセフス、AD37-100頃、創世記時代からユダヤ戦争(AD70年エルサレム陥落)までの歴史を書いた)によっても、ローマのユダヤ代官ポンティオ・ピラトによる”尋ね人布告”に基づいて、地上におられたときの神の子イエス・キリストを次のように記述しています。

    『彼は、魔術的力をもつ一人の人間。彼のことを、一部のギリシャ人は”神の子”と呼び、彼の弟子は”真の預言者”と呼ぶ。彼は、死人をよみがえらせ、すべての疾病を癒すと言われた。 性格と形は人間。背は低く、3キュビト(約153cm)。せむしで、顔長く、鼻長く、両まゆはつながっていた。髪の毛は真中から分け、あごひげは無い。・・・』

  このように、ヨセフォスは、真っ先にイエス様の著しいしるしと不思議を行う力を報告し、次に、人として来られた神の子イエス様は外見上は普通のユダヤ人と同じようだった、としています。


  ** 因みに、「いのち」と 「たましい」は別物です。 ψυχη プシュケーは、広い意味を持ち、「たましい(soul)」とも「いのち(life)」とも訳せる言葉ですが、大事なのは その解釈です。
    「人間的な思い(ψυχη、life、soul)を見出す者は それが壊され、 わたしのために肉の思いを破壊する者は、神のいのちを見出す。」(マタイ10:39)
    「すべての心(heart)で、すべてのたましい(ψυχη、soul)で、すべての知力(or 理解力、comprehension)で、(あなたの神であるを愛しなさい。)」(マタイ22:37、 申命記6:5)

  ・・・・・ 主を愛する ということは、主に聞き、(指示ならば)従うことです。 人間的な肉の計画を捨て、主のことばを聞き、信仰の歩みをするならば、主の喜びと恵みがやってきます。

  *** 他の似た言葉
    βιος(ビオス): 終わりのある生命、人生、生活(life)、財産 ・・・ マルコ12:44、 Ⅰヨハネ2:16
    ζωη(ゾエ): 終わりのない生命、いのち(life)、永遠のいのち ・・・ (ヨハネ文書で多用。 ヨハネ1:4、ヨハネ14:6 など)   ヘブライ語では חַי (ハイ) 生ける(神)(エル ハイ)
    ψυχη(プシュケー): (語源) → (転じて) 肉体的ないのち(life)、 心、 (人の)たましいsoul)、 人間的な思い・考え。




  (2) 十字架上で成し遂げられたこと:


    「この御子にあって、私たちは 御子の血を通して贖いを持っています。 また 罪の赦しさえも得ています。」 (コロサイ1:14)

    「「完了した」」 (ヨハネ19:30)

   ・・・ 「完了した」( τετελεσται 、テテレスタイ) は 十字架上の6番目のことばで、”買い戻しの完了”の印・商業用語(ホセアの妻の買い戻し と同様)であり、信じる私たち自身の贖いと、私たちの罪の赦し が完了したことを宣言されたもの。 主は、ご自身の十字架の血潮という、非常に高い代価を 御父に支払って、私たちを救ってくださいました。

  御子イエス様は、十字架上で私たちの救いを成し遂げられたので、信じる私たちはキリストの義を着て、神様の目から見て今まで一度も罪を犯したことのない者とみなされ、堕罪前のアダムのようになりました。 さらに再臨の時は、圧倒的に優れた新しい体を着せられ、御使い以上の待遇で永遠のいのちを受けます。 一人の人「最初のアダム」から入った罪が、一人の天からの「最後のアダム」=御子イエス様によって 完全にきよめられ、信じる私たちは完全に義とされました。(ローマ5:12-21、 Ⅰコリント15:21)


  私たちが価無しに義とされること、すなわち 神のご一方的な愛の、核心の部分がここです。
  御子イエス様は、十字架上で 御父との分離を通られました。 このことは ゲッセマネの直前に示され、

    「主は、ペテロと ヤコブと ヨハネを連れて行かれ、 そして 非常に驚き激しく苦悩し始められた。」 (マルコ14:33)

    「And he taketh with him Peter and James and John, and began to be sore amazed, and to be very heavy; 」(KJV)

    「και παραλαμβανει(<パララムバノウ、take) τον πετρον(ペテロ) και τον ιακωβον(ヤコブ) και ιωαννην(ヨハネ) μεθ εαυτου και ηρξατο( < αρχω アルコー、rule over、reign over) εκθαμβεισθαι(エクサムベイスサイ < エクサムベオ、be affrighted、sore amazed、greatly amazed、非常に驚いて) και αδημονειν(アデモネユ < アデモネオ、be very heavy、great distress、 重くなった)」

  側近のペテロとヤコブとヨハネは、以前 変貌山で本来の神の御姿を見せられた上で、この 最も低くされたイエス様を見たのでした。
  このゲッセマネの祈りで、史上最大の戦いがなされ、そして主は勝利されました。(このとき力付けたのは ミカエルの他はいなかった(ルカ22:43  cf.マタイ4:11))
  そして十字架にかかられた時、御子イエス様は、正午頃から午後3時前までの 約3時間の間、御父との分離を通られたので、(御父が顔を背けられたことの自然界への現れとして、)日は3時間にわたって暗くなりました。(日食ではない(最長でも8分)) 御子イエス様が御父との分離を通られたので、信じる私たちは、永遠に 御父とつなげられたのです。 ここで叫ばれた、

    「わが、わが、どうして わたしを お見捨てになられたのですか」 (マタイ27:46、 マルコ15:34)  により、イエス様の霊は、見捨てられる罪人として、もはや「父」とは呼べず、「神」と呼んでいます。 その後の、

    「よ。わが霊を御手にゆだねます。」 (ルカ23:46)  では、十字架上で 御父との一体の関係が回復し、再び「父」と呼んでいます。 → 十字架上の7つの言葉の4.、7.




  (3) 十字架の死後 復活までの間、パラダイスに行かれたこと:


  その後、イエス様が死なれ、霊を御父にゆだねられ、広義の「よみ(シェオル)」のうちの「パラダイス(=アブラハムのふところ)に行かれ、そこにいる贖われた人々の霊に対し福音を述べられ、一方、大きな淵の向こうの「ハデス」にいる ノアの洪水の時に信じなかった人たちの霊には さばきを宣言されました。 (* 個人的な考えとして、これに加えて、ノアの洪水以前の原罪が入っていない人々の霊には 福音を宣べ伝えられた と思われます。(ネアンデルタール人)) (Ⅰペテロ3:18-21、 ルカ23:43) → 霊の世界の構造

  水のバプテスマの儀式は、「救い」とは直接関係がありません。水があればする程度で、通常は 教会員になったことの人々への表明です。 もし、水のバプテスマを受けなければ救われない、などと、救いの条件に(十字架以外のものが)入ってしまったなら、それは異端的です。 (エチオピアの宦官(使徒8:36) ・・・ このとき、「イエス・キリストが神の御子であることを信じます」 という重要な告白がされている。アレキサンドリア型(ネストレ)聖書では欠け。)

  それよりも、本当に大切なのは、たましいが聖霊様に満たされ、特に 意志の分野を聖霊様に明け渡す、「聖霊のバプテスマ」(使徒1:5)です。 イエス様も、聖霊様によってお生まれになり、霊は「神」であられるにもかかわらず、バプテスマのヨハネによって水のバプテスマを受けられた直後に、さらに聖霊様が鳩のように下ってとどまられ、このように イエス様のたましいが聖霊様に満たされました。
  意志の分野は 言語の分野に近いので、多くの場合、聖霊のバプテスマと同時に「異言」を語ることが起こります。( 注) 異言を語らないから聖霊様を受けていない、とは言えない) かつてのアズサ・リバイバルでは、異言と癒しのリバイバルだった。
  世の終りの大リバイバルでは、御霊の賜物全般、特に 「預言」が大きく用いられると考えられます。

    「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも はしためにも、わたしの霊を注ぐ。 すると彼らは預言する。」 (使徒2:17、18)


  新約時代にイエス様の次に、初めてパラダイスに行ったのは、弟子たちではなく、十字架の時 片側に共に付けられ、イエス様に完璧な告白をした罪人でした。 ・・・ 「あなたが御国の位に着かれる時は、私を思い出してください」(ルカ23:42)、復活がこの中に含まれている、この 十字架の最悪の状況でイエス様が王位に着かれることを「信じた」。


    ・ 主は、「今も、後も、変わらない方」です。 だから、イエス様は死後、地獄(ハデス)やゲヘナに行かれたのではありません。ましてや、そこでサタンの性質を帯びられた、ということは絶対にありません。(この”ケネス・コープランドの異端教理”に注意。 霊が違います。 ケネス・ヘーゲン(見分け×)・ミニストリーの神学校で学んだ教職者が多くいます。)

    「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」 (Ⅰペテロ1:24-25、 イザヤ40:8)





  3. 神の三位一体とは?:


    「初めに、 ことばがあった。 ことばは 神とともにあった。 神はことばであった。」 (ヨハネ1:1)

    「もしあなたがたが、わたしは”在る”という者である(I am that "I AM")ということを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:24)

    「わたしと 父は 一つです。 ( I and the Father are one.)」 (ヨハネ10:30)

    「わたしが父におり、父が わたしにおられる と わたしが言うのを信じなさい。 さもなければ、わざによって信じなさい。」 (ヨハネ14:11)

    「神のであられる方が、 神に等しい者(be equal with God)であることに固執せず、
  ご自分の 神としての権利を無効にし、 しもべの形をとられ、 人々と似たものとなられました。
  そして、人間の生活様式をもって現れ、 ご自身を卑しくし、 死にまでも従われました。 実に、十字架の死にまでです。」 (ピリピ2:6-8)

    「それとも、私たちの内に住まわれる 聖霊「ねたむほどに愛している」、と聖書が語っていることを 意味の無いものと思うのでしょうか?」(ヤコブ4:5)


  「ことば」とは、キリストの事です。 ここでは イエス・キリストが、永遠の初めからの存在であることを言っています。 それは 創世記の「初め(=創造の初め)、ベレーシス」よりも 時間的にも、根源的にも、永遠の初めであり、父なる神とともに働いて、万物の創造のわざを成された、ということが語られています。

  旧約時代のיהוה 、ヤハウェ、YHWH ≒ ”彼はあり続ける”の意)は、「わたしはあるという者である( אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶהエヘイエ アシェル エヘイエ)」と自己紹介(出エジプト3:14)し、また、御子イエス様はご自身で まさにその方である、と言われています。( ・・・・・ ヨハネ8:24、:28、:58、18:6、:8、 マルコ14:62、 ルカ22:70、等) → 主の御名のまとめ
  イエス様が「神」であるから、十字架に絶対的な効力があります。 もし、イエス様が 単なる人ならば、誰も救われません。

  イエス様は、いつも御父の示される啓示を知って、その通りに行って、わざをなされていました。(ヨハネ5:19) これほどたくさんのわざを行われたのに、この時までピリポは イエス様が父なる神と同一であることを 信じていませんでした。(ピリポは計算高い人だった(ヨハネ6:7)) そして、イエス様を通してなされたさまざまな良い「わざ」(奇跡、しるしと不思議)こそ、御子であることの証明である、と言われました。
  それだけでなく、イエス様が天に昇られた後 ペンテコステの時に下って来られた「聖霊」によって、信じる人々に「それ以上のわざができる」 と言われました。 具体的には、(アレキサンドリア型聖書では消されている)マルコ16:15-18 には、特に伝道に関わって現れることが書かれています。 教会に聖霊が分け与える9つの「御霊の賜物」は コリント12章に書かれてあり、14章には「愛」によって、すなわち、聖霊に聞き従って、用いるべきである ことが言われています。
  この 奇跡の「わざ」こそが、天地創造の時に働いたのと同質の力であり、主の御手による「再創造」の働きです。

  神の三位一体 ・・・・ 「父」(the Father)、 「子」(the Son)、 「聖霊」(単数、the Holy Spirit) の3つの神格が別々の現れ方をし、しかも 一人の神 であることを言っています。
  これは、人間の知性では決して理解できない、”神学的深淵(しんえん)の問題”と言われています。 聖霊のことは聖霊によってわきまえます。 この三位一体を認めない、特に イエス様の神性を認めないものは、大体 霊の異なる異端です。(三神論(3つの神)×、ユニテリアン(父なる神のみ)×、エホバの証人(イエス・キリストを神よりも低く置くもの) ×など)



    「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者がわたしの名によって来て、『私はキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」 (マタイ24:4、5)

  これは、(LSD中毒等で、)自分はイエス・キリストだ と主張する頭のおかしい人の事ではなく、多くは 既存の教団に所属する牧師・宣教師などでキリストを語る人々の中に、妥協や堕落する人たちが大ぜいいる、という意味です。 教会をカルトにしたり、ニューエイジの違う霊による奇跡や予言、カトリックのエキュメニカル運動(世界中の宗教の統合運動)や、米国の教会で同性婚を認めるなど、聖書に逆らうことを教える人たちのことです。 この 数々の「背教」の極致は おそらく バチカンで、終末の「にせ預言者」となってエルサレムの第3神殿に現れると考えられます。(サタン、反キリスト、にせ預言者の悪の三位一体。 世の終わりの憤りの時に、この支配体制が一時期(3年半)だけ許される。)


   ・ 最近、あの 元パウロ・チョーヨンギ師の起こした”純福音教団”が、(特に、ダビデ・チョーヨンギ(今 見分け×)になってから)おかしくなっています。(→ 霊の見分けについて 現在、韓国からの異端がいくつか日本にも入ってきていますが、純福音の流れで いわゆる”4位一体”(4番目の神は 牧師)といわれるものです。 元々 韓国のプロテスタント教会は 伝統的なシャーマニズム(大声で叫ぶ祈り)と 儒教(牧師偏重主義)の不純な 霊的な流れがあり、それが教理の不徹底(聖書の教理、使徒信条よりも、組織の伝統優先)から 今、異端として表れてきています。 純福音はペンテコステ派の旗手的存在だったのに残念です。 最近の韓国は 多くの異端が現れ、日本にも進出しています。 また日本でも最近、使徒信条を告白しない教会が増えています。

  このように、信じられないほどに惑わされてしまう原因の一つに、五役者「教師」の不在が挙げられます。 「教師」は 主に直接教えられているので、既存の保守的な神学校にも、ペンテコステ・カリスマ派の 神学校にも、(内容がつまらなくて)行こうと思わない。  したがって、現実に立てられている牧師や宣教師などの教職者に「教師」が不在となります。 (また、神学校の卒業時の按手礼で 霊の注ぎかけを受けるので、変な霊も一緒に注がれ、間違った確信で固まりやすい。)
  ペテロ(ケパ)が割礼の件で惑わされかけた時(ガラテヤ2:11-)、使徒、伝道者とともに教師(Ⅱテモテ1:11)でもあるパウロは 皆の面前で抗議しました。



    § (参考) 20世紀後半にやっと明らかになってきた自然啓示による、神の三位一体の理解により、信仰を強めることができます。
  神は創造主なので、その芸術作品である被造物には 作者の性質が必ず現れるはずです。 起源の全く異なる、外部からの自然(物理の量子力学)と 内部からの思索(数学の複素関数論) はどちらも 複素数の範囲で記述され、数学3定数(π、 e 、 i )の間にそれぞれ 父、子、聖霊を当てはめることができ、オイラーの恒等式  i π = -1 が成立して、3者は一体になります。 この式は、確かに導かれて正しいことは分かりますが、決して人が直感できるものではなく、このように三位一体が現れています。基本的な数学定数は この3つ以外にありません。 → 3.思索と自然を貫くもの(1)
  また、論理学の不完全性定理からも、 人間理性では決して理解できない神として、「全知・全能の神」 の存在が証明されます。  → 4.不完全性定理の証明 の下、 4.思索と自然を貫くもの(2)





  4. 律法主義の大きな間違い:


  古代イスラエルの王国は、ダビデの治世のたった一代が主のみこころにかない、その次のソロモンから堕落しました。 すでに、イスラエルの分裂前のソロモンの代から の神殿(ソロモン神殿・第1神殿)の他に、モアブのケモシュと アモンのモレクを祭る「高き所」をエルサレムの東に築き、偶像崇拝が始まっていきました。 分裂後の北イスラエルでは、ヤロブアムから偶像崇拝を代々行っていました。 この偶像崇拝と姦淫の罪のため、ついにBC721年、首都サマリヤはアッシリアに滅ぼされ、(高位の人々が)捕囚の民とされてメディアの町々に連れて行かれました。(→ イスラエル10部族の行方
  次に、南のユダの方は、ヨシヤ王の時、神殿から発見された「律法の書(申命記)」に基いての宗教改革が行われたにもかかわらず、以前のマナセ王の偶像崇拝のため 主の御怒りが収まらず、 BC607-586年(神殿破壊)バビロン捕囚の民にされました。
  その後、BC537年ペルシャのクロス王により解放され、この年に総督ゼルバベルと 大祭司ヨシュアの指導によって約20万人がエルサレムに帰還し、神殿(第2神殿)を再建し主への礼拝が復活しました。 しかし、今度は 偶像崇拝の反動で、最悪のパターン、律法主義に陥ってしまいました。

  当時のユダヤでは、人々があらゆる縛りでがんじがらめになっていたので、愛やあわれみの入り込む余地がありません。 日常生活も 食う、寝る、仕事する、歩くなど、あらゆることで縛られているので、皆余裕がないのです。この時代は、ローマへの納税と ヘロデ王(エドム人であり正当なユダヤの王ではない)への納税の 二重取りに人々はあえいでいました。それに加え、金の好きな宗教指導者たちが何かにつけて人々からお金を巻き上げていました。

  なぜ律法主義が最悪かというと、自己義認であり、「原罪」に近い罪であり、最も罪を認めにくい、最も悔い改めにくい罪だからです。 宗教的な行いによって義と認められると勘違いしていたのです。人々は偽善の宗教的指導者の下、アブラハム、モーセの契約の精神とは似ても似つかない、”ユダヤ教”の奴隷となっていきました。 BC300頃から「みだりに御名を唱えてはならない」が曲解され、「アドナーイ(わが主)」と読ませ、「ヤハウェ」の文字も読ませない。
  そして最終的には、宗教指導者たちが権力を握り、彼らが、天から来られた 御子イエス・キリストを十字架にかけて殺す中心的人々となったのです。
  結果的に、ユダヤ人の一部がかたくなになったのは、神の計画であり、御子イエス様の血によって、「律法」から「恵み」の時代に移行し、それゆえ、異邦人に福音が宣べ伝えられていきました。
     ・・・・・ 現在の教会であっても、悔い改めの無い 律法主義は、主の臨在を殺す 最も効果的な働きとなっています。


  当時、旧約聖書を律法的に解釈した教えが流布されていました。   ・ 病気なのは罪を犯したから、  ・ 金持ちしか神の国に入ることはできない、  ・ (金額で)多額の献金をすれば救われる、  それに対し、イエス様は、

    「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。」 (マルコ8:15)   (パリサイ人のパン種: 自己義認、 ヘロデのパン種: 経済力・武力信仰)

と、宗教指導者たちの偽善に対し、徹底して批判されました。 律法主義になると、人は罪の性質により 律法をすべて守ることはできないから、 自動的に 偽善者になります。
  また、カペナウム、ベツサイダ、コラジン等でイエス様は多くのわざをなされましたが、イエス様が神の子メシヤであることを拒絶しました。 そのため、これらの宗教的な善人の町へのさばきは、ソドムや、ツロ、シドンよりも厳しくさばかれる と嘆いて言われました。(マタイ11:20-24) それは、どれだけ多くの罪を犯したかだけではなく、どれだけ多くの恵みがはねつけられてきたかによっても裁かれるからです。 「多く与えられた者は、多く求められる。」

  当時の口伝律法(イエス様が批判された「言い伝え」)は、 AD70年のローマによるエルサレム追放の後、ディアスポラの民になってから ミシュナーが成立し、歴史と共に非常に複雑な書物・タルムード(ラビたちによる解釈、その解釈、そのまた解釈、・・・と議論が延々と続く)となっていき、旧約聖書の精神と似ても似つかないものになってしまいました。 現在のイスラエルの超正統派のユダヤ人たちは、ミシュナー、タルムードの学びばかりして 世界情勢や歴史などの”常識”を知らず、宗教的縛りの別世界にいます。(日本がどこにあるかも知らない人が多い)


  ・ セブンスデーの間違い:

  救いの条件に、キリストの十字架以外のものが入ったならば、それは神を冒涜する事であり、異端です。 セブンスデーは 土曜礼拝・土曜安息日を守り、それが救いの条件に必須と考えているので 異端です。(そのほかに、肉食の禁止・菜食主義の強制、禁酒・禁煙はもちろんのこと、コーヒーもダメ・・・ 、 土曜安息日に1km以上歩いて 土曜礼拝に行く人は 自己矛盾している?
  セブンスデーの創始者のエレン・ホワイト(霊の見分け ××)は にせ預言者であり、失われた「契約の箱」の偽りの幻を主張しています。 またこれは、終末のにせ預言者の流れとなっています。聖書考古学 契約の箱
  日本のセブンスデーは今、分裂し始めています

   cf. 救いの条件ではなく、信仰を強めるために、トーラーの朗読や、安息日、食物規定などを守る、信仰の弱いメシヤニックの人たちとは違います。 メシヤニックの人たちは、幼いころからユダヤ教(宗教)の洗脳を受けているので、徐々に これらの慣習の縛りから解放されるよう主に導かれています。 (→ メシヤニック・ジューへの みことば

  聖餐式や過越し・復活祭などの各種の教会行事も、救われているクリスチャンは信仰を強めるために行います。 クリスマスと イエス様が生まれた日は異なりますが、慣習として普通教会で行われています。もちろんこれを行わないと救われない、などと言っていません。 洗礼を受けないと救われない、礼拝を守らないと救われない、献金しないと・・・、 などと うっかり言う人もいますが、そんなことはありません。



  さて、日本は、明治以来、文明国の仲間入りして久しいですが、イスラエルと共に、文明国でありながら非キリスト教国である国です。(天皇はクリスチャンなのに! 十字架信仰2018の中ほど) イスラエルのリバイバルは、異邦の大リバイバルが終わってからの最後の最後(小艱難期)です。
  古代日本の歴史から、ユダヤ教の影響日本人の精神性に持っていると言われています。 それは、AD100年代に、ローマによって散らされたユダヤ人が、エドム人と共に船で日本に来て その文化を伝えた形跡があるからです。 (血統にも少数ながらイスラエルの子孫らしいものが入っています。)
  たとえば、日本のことわざや、共産主義のスローガンにもある、「働かざる者 食うべからず」 も 律法的曲解です。これはパウロが、教会の奉仕をしないで教会のパンを食べる人々に、むしろ普通の仕事をするように言ったものです。(Ⅱテサロニケ3:10) 「目からうろこ」(使徒9:18)も聖書からの引用

  キリストの十字架による贖いは、「信じる」だけただで与えられる 「恵み」です。 「行い」ではなく、「恵み」です。 日本人は特に、この ただでもらう、という発想が弱いのです。 何か 行いを伴わないと 気が済まない。 ”ただ”という言葉に疑念を持ち、”何か裏があるのでは?”と疑ってしまいます。 只より高い物はない? 一方、「信仰」というと、何か目をつぶって崖から飛び降りる ような気がする。 ・・・・ これはユダヤ教に浸っていた当時の人々の考え方に共通しています。 私たちも思わずこのように言わないでしょうか?

    「神のわざを行うために 何をすべきでしょうか」 (ヨハネ6:28)

  それに対する主の答えは、
    「神がお遣わしになった者(=御子イエス様、神の言葉)を信じることそれが神のわざです。」(ヨハネ6:29、ヨハネ17:8)


  「信じる」だけで私たちは 無条件で御父に永遠に繋げられたのです。 行いによらず、信仰によって。 これが、特にローマ書に多く出てくる、「χαρις (カリス)、恵み」です。 聖霊の賜物・カリスマの語源であり、恵みを表す「カリス」、「Grace」は、日本語の「恵み」では十分に通じなく、「大いなる恵み」「この上もない恵み」、「大御恵(おおみめぐみ)」、程度に訳した方が良いと思われます。
  神様から、恵みを ただでもらうことを 積極的に考えましょう。 この「信仰」という点に関して言うならば、日本人はもっと、(人種差別する気は全くありませんが、)フィリピン人やアフリカンを模範にすべきです。 円借款は返さないけれども、彼らのほうが先に御国に入っています。

  キリスト教は、宗教ではなく、主の臨在です。 縛りではなく 解放です。 罰ではなく 赦しです。 さばきではなく 救いです。 主の臨在がない所が地獄であり、主の臨在がある所が 天の御国です。






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