4. 人は、死後どこへ行くか? 

 1) 永遠への分かれ道;

 人は死んだら転生輪廻してもう一度別の生物に生まれ変わる、というのは仏教的な考え方である。しかし、ブッダは”背中が痛い”と言って死んだそうである。ブッダは単なる人間にすぎなかった。
 仏教の哲学的教義の否定に関して → 科学から信仰へ(ニューエイジ哲学の否定)参照

 人は死んだら無になる、というのは無神論的な考え方である。確かに、霊やたましいなどは、目に見えず、科学の範疇を越えた、実証しきれない概念である。しかし、実証できないからといって、これらを全く否定してしまうというのは行き過ぎである。
 霊と物質を結びつけるものとして、”奇跡の要素”が存在する。

 聖書ではなんと言っているだろうか?。
 生前イエス・キリストを信じなかった人々が死ぬと、一度”ハデス”という霊的待合所のような所へ行く。ここは、熱い地獄のような所であるが(ルカ16−19〜31)、本当の地獄ではない。
 本当の地獄は、前述の通り、苦しみが永遠に続く”ゲヘナ”に投げ入れられることである。
 イエスはこちらの方を恐れなさいと言っているのである。

 しかし、イエス・キリストの十字架を信じて救われた人々が死ぬと、その霊魂は”パラダイス(第三の天)”という所に引き上げられる。(ルカ16−22、Uコリ12−2〜4) ここは、天の天であり、神の御座がある所であり、神と対面する所である。
 旧約時代には、主にある死者は”アブラハムのふところ”(ルカ16−22)と呼ばれる所へ行ったが、 ― これは、アブラハムにあって、神との契約が結ばれていた為であるが、 ― 神の子イエス・キリストの十字架の死以降、天が開かれ直接パラダイスへ行くようになった。イエスの死と同時に、旧約時代の聖徒・預言者はパラダイスに移行したのである。(マタ27−52、53) 共に十字架につけられた悔い改めた方の罪人は、イエスよりも長く生きたから直接パラダイスへ行った。(ルカ23−43)

 召された彼らは、キリストの来臨の時、永遠に朽ちない新しい体が与えられ、第一の復活にあずかる。(黙20−5) そのとき生きているクリスチャンたちは、そのまま体がそのように変えられる(栄化)。(Tコリ15−51〜54、Tテサ4−17)
 そして、地上でキリストと共に、千年間王になって治める。(千年王国)(黙20−6、エゼ39−9、10・・・地上のさばきの後、敵の武器を7年間燃料とする。) すべての国々の民を牧するのは、イスラエルから贖われた14万4千人である。
 その後、現在の天地は滅び去り、神が再び創造した”新天新地”が下ってきて、そこで神をほめたたえながら永遠の時を過ごすのである。(黙21−1〜、イザ65−17)

    

 だから、今生きている間に救い主イエス・キリストを信じるかどうかが、この両極端な永遠の行き方を決定してしまうのである!。(*)


 * イエスを救い主として受け入れるのも、拒絶するのも、その人の自由意志に任せられている。
 神は、全知全能であるが、人の選択権を認め決して強制するようなことをしないからである。(強く勧める事はあっても。) 天使の堕落の時も、天使に、神に従うかどうかの自由意志を認めていた。
                    ( ・・・・・ 自由意志と予定論の調和 )


   福音を知らないで死んだ人々について;

 聖書には、福音を知らないで死んだ人々については、ほとんど記述していない。基本的に、人が生きる事も死ぬ事も神の主権の中にあり、人がそれを詮索する事は越権行為だからである。
 神は真実をもってすべてをさばいてきたのである。われわれの思索を超えることが真実でないとどうして言えるだろうか。

 「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」 詩19−9

 しかし、この事について聖書に書かれていないわけではないので、そのみことばを見てみよう。

 「その霊において、キリストは捕われの霊たち(サタンに束縛された人々)のところに行ってみことばを宣べ伝えられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。・・・」 Tペテ3−19、20

 【参考】 
 天国を見てきた人々の話によると、一方的に殺された人々(堕胎などによって)のたましいは、霊を受ける為、もう一度地上に生まれる事が許されるそうである。
      → 参考文献(「天国への冒険」参照)


 本来、滅びるはずのわれわれ罪人が、神の一方的な豊かなあわれみによって救われるという事のほうが、より一層重要な事なのである。
 天地を創られた神の聖なる性質をかいま見るとき、神がどんなに厳しい正確な方であるかを知るのである。そして、そのことが明らかにされる事により、逆に、神の愛が非常によくわかるのである。
      → 科学から信仰へ(神の聖なる性質の程度)参照  


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