(2) リックジョイナーによる預言カンファランス
(・・・ ”ハーザー”2001年6月号より抜粋)
預言の賜物を用いて奉仕するよう召された人々でさえ、多くはこの務めに関してはまだ充分な理解を得ていないのが現状です。
1980年代、主は私に、終わりの時代のリバイバルにおいては、多くのプロスポーツ選手が福音を広めるために用いられると言われました。それは彼らが、プロスポーツの厳しい世界の中で、練られ、訓練され、整えられてきたからです。ですから、私たちは彼らがスポーツという神学校で学んでいることを学び、教会における弟子訓練にも適用できる部分を取り入れていくように努力してきました。
新約聖書教会の務めは、基本的にチーム・ミニストリーです。
使徒、伝道者、牧師、教師との関係なしでは、預言者が真に賜物を発揮することはできないのです。
預言的な務めについて2つの事柄:
@ 祭司の務めについて;
真の礼拝には、犠牲が含まれる。
十字架による肉の死がなくては、礼拝はありえない。
(牛・・肉、ウザ・・力、肉の力によって神の栄光はもたらされない(Uサム6-6〜8))
毎日、自己中心に死に、利己主義に死に、自我に死ぬための機会が与えられている。
この世と調子を合わせている限り、混乱状態から抜け出せない。
自分を変えることがなければ、神の御心の中を自分が歩んでいるかわからない。
・・・・ ロマ12-1〜2
神は創造的な新しい賛美と芸術の油注ぎを教会に与え始めている。
教会が神の訪れの時を逃すならば、その油注ぎは敵の陣営に移ってしまう。
多くの賜物を持った人たちが世のほうへ流れている。
(サウルが御心を損なったため、ダビデは敵の陣営に住まなければならなかった。)
神は創造の神なので、本来ならば、クリスチャンは世界で最も創造的な人たちであるはず。
神はこれから大いなる栄光を教会を通して世界に顕わそうとしておられる。(預言)
そのために、神は十字架の力を私たちに示される。
悪魔礼拝のいけにえに力があるとすれば、なおのこと、神のひとり子イエス様の十字架にはどれほどの力があるだろうか?。(U列3-26、27)
十字架のもとに、日々自分を捨てて生きることは、非常に実際的な訓練。
もはや自分のために生きることはやめよう。
自分のミニストリーを建て上げることではなく、神の栄光が顕れることを目的としなさい。
聖霊は再び、世の終わりの混乱した世界に創造の力を顕わそうとしている。
・・・・ 創1-2
私たちは奇跡がほしいが、それが必要な状況に自分を置きたいとは願わない。
しかし、そのような状況を感謝し、機会として捉え、神に期待感を持って信頼するならば、信仰が生じてくる。そこから、栄光が顕わされる。
A 見張り人の役割について;
多くの牧師は真の見分ける賜物を持っていない。単なる懐疑心にすぎない。(ポール・ケイン)
愛とあわれみのない見分けは、真の見分ける賜物ではない。(ボブ・ジョーンズ)
識別力に成長するためには、愛に成長しなければならない。 ・・・・ ピリ1-9
見張り人の3つの場所
1) 城壁の上;
預言の賜物を用いる人たちは、祈り手、とりなし手である事。
・・・・ イザ62-6
2) キリストのからだの中;
・・・・・ 雅歌3-3
3) 山の上;
世と敵を見張る ・・・・・ エレ31-6
特に預言者には、訓練の過程と試練が必ず伴う。
自己中心と利己的な野心は必ず焼き尽くされる。
私たちは失敗と弱さを認め、すべての人たちから学び、成長し続けなければならない。
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