2. 仏教・ヒンドゥー教と自然啓示
1. 仏教の神観:
原始仏教は、ブッダが唱えた”哲学”であり、神の存在は特に主張せず、もちろん仏像もなかった。(仏像はアレクサンダーがギリシャから持ち込んだといわれる。) 時代が下り、大乗仏教になると、漠然とした一神教となり、毘盧舎那(ビルシャナ)仏が、宇宙の中心にいる真理そのものの仏とされた。東大寺の大仏はこれを表わしたとされる。しかし、当時の宇宙観は、客観的なデータが何もなく、現在の宇宙観と比べ
漫画チックな、きわめていいかげんなものだった。(中世ヨーロッパの宇宙観もこれに似ている)
一般にはその意味が良く知られていない仏教の”経典”の内容は、格調の高い哲学・教理などではなく、ほとんどが現実とかけ離れた空想話やフィクションで満ちている。(西遊記も果てしない空想話である)
そのため、現代日本の精神土壌は、仏教的な世界観の影響を受け、神観、罪、世界観、死後観などのすべてが、あいまいかつ楽観的になっている。そしてこれは 現実の自然が示す厳密性とは全く相容れないものである。(クリスチャンでさえ、このあいまいさの影響を受けていると思われ、みことばの契約に堅く立つことを困難にしていると考えられる。) さらに最近は、「スピリチュアル・ブーム」の世界観に結び付けられ、子供が逃避的になり、非現実的なオカルトや仮想空間のゲームなどの悪霊的なものに没頭し(サタン=「うそつき」(ヨハ8:44))、また、楽観的な死後観から簡単に自殺するようになってきている。 ・・・ 自殺する人のほとんどは、”自殺の霊”による”偽りの語りかけ”に誘導されて自殺する。
それでも、仏教が多くの人に受け入れられるのはそれなりの理由がある。それは、ブッダよりも後世の仏教には、一部、聖書のみことばが取り込まれているためであり、(永遠の命や奇跡などの要素は無くても、)日常生活におけるそれなりの恵みがあるからである。これは、(外国人に比べ)日本人の伝統的な品性にかなり影響を与えていると考えられる。(→ 世界の宗教と仏教の変遷 )
物理的に検証してみよう。以下の2つの理由により、仏教・ヒンドゥー教は、自然が表わす啓示に適合していないと言える。
(1) 自然の厳密性:
宇宙全体の原子は水素が99%以上でその質量はほとんど陽子が担うので、(宇宙の全重量)/(陽子の質量)
= 3×1053(g)/1.7×10−24(g) = 1.8×1077(個)オーダー程度の個数の粒子が全宇宙に存在する。一方、粒子の種類はせいぜい40種類以下でそのほとんどは光子、電子、陽子、中性子、ニュートリノである。だから宇宙の中の物質は、ほんの数種類の粒子がただひたすら多く存在していることになる。
また、素粒子は非常に高密度である。重力で潰れ中性子が集まった中性子星の密度は約10億トン/cm3にもなる。この高密度で非常に小さい素粒子くらいの大きさの領域で、波動性や確率性、不確定性などの量子力学らしい性質が現れるのである。
一方、特殊相対性理論の質量公式 E = mc2 によると、広島型原爆で放出されたエネルギーは、わずか1g(1円玉1個の質量)程度の質量欠損に相当する。
素粒子学でよく用いられる自然単位系とは、物理学の2大定数 光速: C = 1、プランク定数: h = 1 と置いた単位系である。我々の日常感覚にとって便利な KMSA単位系(K: kg、M: m、S: s(秒)、A: A(アンペア))によって表わすと、光速 C = 2.998×108(m/s)=約30万(km/s、1秒間に地球を7回半周る速さ)、プランク定数
h = 6.63×10−34(J・s)である。したがって、現実の物理現象の尺度は、我々の日常感覚と 1042オーダー もの違いがある!。
だから、物質は、我々が考えやすいように不確定性や波動性を強調して模式化した、もやもやしたイメージとは程遠い、非常に高密度で、堅く、ごく小さい実体である事になる。そして、それらが全て、ニュートンの法則、電磁力の法則、量子力学、相対性原理などの少数の単純な法則に、少しの例外も無く厳密に、かつ、宇宙のどこでも普遍的に従っていることが知られている。
したがって、伝統的な、あるいは、現代風の仏教的な宇宙観(≒ 禅宗やニューエイジの意識論的宇宙観)などは、ただ単に我々の経験する日常的な感覚によるものに過ぎず、物理的な現実とは全く相容れないのである。人間は、”考え、想像する動物”として造られたが、現実は大幅に違う。
物質的な奇跡について、このことが典型的に現れている。神様が奇跡をなすのに要する時間は、天地創造をたったの6日間でされたように、瞬間的である。そして、手や足や目玉などが、あたかもずっと以前からそこにあったように再生し、寸分の狂いも無く正確なエネルギー収支によって
物質的奇跡をなされるのである。
「わたしは『在る』という者である。(I am that I am)」(出エジ3:14、ヨハネ8:24)
・・・・・ 神様が自己紹介するみことばにはいくつかあるが、このみことばには、神様の”存在性”の本質が強く表わされている。今は我々の目に隠されているが、神様は、自然界のどんなものよりも、ブラックホールよりも、”存在度”が濃い方。次元の低いものは、次元の高い方によって造られ、支配される。我々(3次元)が絵(2次元)を描くとき、それを部屋に”飾っておく”のも、”燃やしてしまう”のも、その人次第である事と同じである。
(2) 熱力学の第2法則:
宇宙の法則の一つは、エネルギー保存則(熱力学の第1法則)で、エネルギーと質量の等価性から
質量を含めた保存則が成り立つ。この保存則は、あらゆる物理量(電荷、運動量、角運動量・スピンなど)にも成り立つ。
これに対して、熱力学の第2法則(エントロピー増大則、あるいは、”時間の矢” ともいう)は、時間と共に 閉じた系の”乱雑さ”(エントロピー)が不可逆的(時間と共に一方向的に)増大していくことを表わしている。
仏教やヒンドゥー教、古代エジプト、古代ギリシャなどに広く見られる思想
・・・ ”転生輪廻” ・・・ のさまざまな思想は、物理学的に言って全くナンセンスである。現在流の転生輪廻の思想は、死後”あの世”に一時的にいて、再び生まれ変わり、代々と、誰かの生まれ変わり、動物の生まれ変わり、といった”過去世”をもち、霊や心の神秘に結び付けて考えられている。
ヒンドゥー教も転生輪廻思想の一つである。”破壊の神”シバ神は、世界を破壊し
同時に創造するという(実在する)霊で、新たに生まれ変わらせるために破壊・殺戮することを正当化するものである。たとえば、”オウム真理教”の殺戮において同じ悪霊の実質が現れている。
一方、物質はすべて、ただひたすら数多くの同じような粒々によって成り立っている。複数の粒子がグルーピングされた、それらを含む閉じた系(システム)は、必ず、時間と共に乱雑になっていく。(大宇宙も一つの”閉じた系”である。) この乱雑さを物理学的なパラメータで正確に表わしたのが、エントロピー(S)であり、時間と共にエントロピーが増大することが熱力学の第2法則である。このように、時間と共にエントロピーが増大する理由は、区別される2個以上の複数の粒子によって万物が構成されているからであり、非常に単純な話である。だから、(外部から干渉を受けない閉じた系で、)ある履歴を通った系の状態は、(仮にそれぞれの粒子が永遠に変化しないとしても)二度と同じ状態に戻ることはなく、必ずより乱雑になっていくのである。だから、エントロピーが減少するような現象、すなわち、「再創造」のわざ ・・・ 奇跡やいやし、死人の甦りなど ・・・ は、系の外部からの(= 神様からの)介入無しには起こらないのである。外部からの介入が無ければ、その閉じた系は時間と共にただ”死(熱的な死)”あるのみである。
(→ 物理化学の e )
さらに、逆に時間を遡ると、1) この第2法則よりエントロピーは単調減少(凾r(= 履歴による S の変化)>=0)し、かつ、 2) 有界(S > Smin >=0 、 最小値の存在、絶対零度における純粋物質の完全結晶の場合 S=0
とする) であるから、宇宙は永遠の昔からあるのではなく、ある時間的起点における”初期状態”が存在したことになる。 したがって、輪廻転生は物理的正当性を欠き、神様がある時 天地万物を創造された、という聖書の記述のほうがこれに適合している。
また、宇宙の終りの時が設定されなければならない。もし仮に、終末のときが無く、宇宙はこのままずっと永久に時が経過してゆくとしても、結局のところ重力が打ち勝ち、宇宙はブラックホールの”穴”だらけになってしまうだろう! (ホーキングらが提唱した”ホワイトホール”は間違っている。ブラックホールがいろいろな物質を吸い込んで重くなるほど、そこからトンネル効果によって物質がにじみ出てくる確率はますます低くなり、新しい物質がそこから生成するようなことは起こりえない。)
このように、神様による(外部からの)救いの思想の無い、自力本願的な仏教、あるいは、ニューエイジ的未来観は暗いのである。なぜなら、いずれ、宇宙は熱的に疲弊し、そして”点”に潰れてしまうからである。(最後には、宇宙の全ての物質を吸い込んで非常に重くなったブラックホールとブラックホールが衝突して、大爆発するわけでもなく、外に何も出てこない。プチッ、と一点に潰れるだけ。) 自分の足で歩くこともできない”偶像”が何の役にも立たないことは尚のことである。
「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(Uペテロ3:10)
・・・・・ 救い主イエス様は、ノアの方舟にたとえられる。ノアの時代には方舟によって大洪水から救われた。世の終りの時には、復活されたイエス様が直接来られ、イエス様ご自身の十字架によって贖われた私たちを天に引き上げられるのである。
* 臨死体験をし、天国へ行ってイエス様と出会ったクリスチャンの証しは、天国が地上で想像したどのような場所よりもすばらしく、イエス様が言葉が出ないほど麗しいお方で、二度と地上へ戻りたくないと誰もが思ったそうである。
(参考文献) ・ 「仏教の中のユダヤ文化」、久保有政、学研、2005年6月