4. ユダヤ教・イスラム教と神の存在論



  サムシンググレートの考察により、全天地を創造した神様(創造主としての神)の存在がより確かになってきた。この「神様」とはどのような形態のお方だろうか?
  既存の宗教では、たとえば、素朴なアニミズムや多神教のように、同時に多くの”神々”が存在するものがあり、一方、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教では唯一一神教である。また、古代ギリシャ以来の”善悪二元論”も歴史的に信奉された神秘的世界観である。

  しかし、神様が存在するならば、2.の考察より、それは次元の高い、厳然で正確無比な、力ある恐るべき存在であり、また、3.の考察から、神様は全知全能の方で、全てを配慮して創造される、きわめて知的な存在であろう。(* 芸術作品は、作者の心、実体を反映する。)
  したがって、人間が素朴に考えるようないいかげんな”神様”ではなく、また、哲学的な考察による神のようなものとしての”抽象概念”でもなく、非常に能力があり、明確な意思をもつ、一つのはっきりした「人格神」であり、唯一一神教の神がこれに相当すると考えられる。


  ムハンマドは、メッカ時代にユダヤ人から多大な影響を受け、イスラム教を起こした。
  イスラム教では、本来の旧約聖書を書き換え、「ハガル(ハージャル)」が正妻、「イシュマエル(イスマーイール)」が「預言者アブラハム(イブラーヒーム)」の正統な継承人であるとしている。また、新約聖書からも少し引用し、イエス様を預言者の一人としている。ほとんどのイスラム教徒は旧約聖書を読まず、聖典である「コーラン(クルアーン)」と、「ハディース」という引用のための文書集を読む。(旧約聖書などは知的関心のある人がたまに読む程度。) コーランに書かれてある旧約聖書の聖句はごくわずかで、断片的であり、コーランの内容の大部分は、6つの信じること(イーマーン)、5つの実行すること(イバーダー)という、人間的・宗教的な教えにまとめられている。神様との親しい人格的な交わりや、超自然的な奇跡の要素は無い。(だから、いやし、奇跡などを用いての”力の伝道”はイスラム圏の人々に対し効果的であると考えられる。)

  ユダヤ教でも、旧約聖書を聖典の一つにして、特に、「モーセ五書」を重要視しているが、イエス・キリストを神の子・救い主と認めず全知・全能の唯一神(ヤハウエ神)だけを認め、”律法主義”が支配する、縛りの強い、非常に堅い宗教である。したがって、パウロが言っているように、「律法は救いに至らせる養育係」に過ぎず、問題提起のみで答えは与えられず、罪やのろいはそのまま残っているのである。神の子イエス様は、これらの人間的な教え、人間の言い伝えを、神様からのメッセージとすりかえていることに対し厳しく批判された。
  さらに、ディアスポラ(離散民)となった後は、ユダヤ教(パリサイ派の流れを汲む)はますます宗教的になり、AD220年頃までに 「ミシュナー」((ヘ)”復唱”の意)と呼ばれるユダヤ教の口伝集(口伝律法)(cf. 旧約聖書= 成文律法)が成立し、その後 6世紀までに、それをさらに発展させた「タルムード」((ヘ)”学ぶ”の意)が編纂された。タルムードは、その量が百科事典20数冊分にもなり、とても一般の人が学べるような代物ではない。(世界一難しい、あるいは、世界一堅い書物といわれる)
  タルムードは、一般に、AD5−6頃バビロニアで編纂された”バビロニア・タルムード”を指し、ミシュナー、および、”賢者”たちによるその注解が事細かく記され、すべて ミシュナーを引用してのユダヤ人の宗教生活に関する慣習や法規を論じている。しかし、それらは崇高な教義や名言などではなく、おそろしく現実的、技術的な内容であり、”ユダヤ発想”、”ユダヤ商法”はみな このタルムードに基づいている。このように、解釈は解釈を呼び、もはや「旧約聖書」の思想とは全く関係の無いものとなっている。2000年以上もの間、この”ユダヤ教”の正統派ユダヤ人たちは、これらの戒律・言い伝えに縛られ(宗教の霊)、これらをことごとく踏み行ってきたのである。


  ユダヤ教、および、イスラム教の中世哲学では、神は何よりも「一なる神」として捉えられた。これ以外はすべて邪宗、特に、キリスト教の「三位一体」を邪説として門前払いするものであった。 AD8世紀初め、中央アジアから北アフリカ、イベリア半島までを征服したイスラム帝国は、9世紀のバグダードで、1) 「一人の神による創造」と、移入されたギリシャ哲学からの、2) 「自然法則が支配する宇宙」というアリストテレスの哲学的世界観を、この「一なる神」によって統合したのであった。これは、「理性」と「啓示」の統合でもある。「理性」= 人間に似ていない、全知全能の神 と、「啓示」= 自由な意志と感情をもち、人間に啓示し、歴史に介入する神、これらが、「一なる神」= 全ての存在の一つの原因である創造主、によって統合されるのである。

  中世のキリスト教会でも、(とりあえず三位一体を除外して考えた)単純な”唯一の神”についての存在論がさかんに議論された。これらの”神の存在論的証明”はアリストテレスの古典論理の手法によっているが、仮定の置き方に無理があり、後の時代の哲学者たちによってすべて論駁されている
     ( → 3. 神の存在論的証明(1)




  さて、20世紀に入ってから数学基礎論において明らかにされた、人間の論理的思索の根底にある驚くべき逆説的な真理 : 「不完全性定理」(K.ゲーデル、1931年) から、神の存在論を検討してみよう。 不完全性定理とは、

    第一不完全性定理: システム S が無矛盾であるとき、S は不完全である。(=証明も反証も不可能な命題: ゲーデル命題 が存在する)
    第二不完全性定理: システム S が無矛盾であるとき、S は S 自身の無矛盾性を証明できない。

  このシステム S とは、数学の公理系、コンピューターのアルゴリズムなど、可付番で無限性をもち(=帰納的で)、自己言及・相互言及を含みうる程度に複雑な理論・システムならば何でもよく、”人間理性で捉えられ得る神”の概念もこの延長線上にあるものとする。


  すると、この第1定理から、もし、神が、単純な唯一一神教の神で、その存在が、全ての真理を知る(完全)、かつ、無矛盾ならば、そのような神は存在しない、という結論に達するのである!。(パトリック・グリムの定理、ニューヨーク州立大・哲学者、1991年)
    ( → 3. 神の存在論的証明(3)

  したがって、論理学的に言って、ユダヤ教、イスラム教の”唯一一神教”の神は、その存在が否定される!このような”全知・全能の神”は存在してはいけないのである!



  ただし、このグリムの定理が否定するのは、”人間理性によって理解可能な神”であり、”神の知識は、自然数論的に単純に無限であることを超えなければならなず、それは、数学基礎論のようないかなる形式的な考察からも、本質的に認識不可能な知識でなければならない”。
  定理が真ならばその対偶( A → B の対偶: 〜B → 〜A )も真であるから、

    第一不完全性定理の対偶: システム S が完全ならば、システム S は矛盾している

も真である。
  もし、唯一の神について、(経験的に判断して)「完全=全知・全能」ということをとれば、神様の「無矛盾」ということを否定しなければならない。
  この最も分かりやすい(?)神の存在の形態は、実は、神の「三位一体」であり、現存する宗教の中で、唯一、キリスト教の神のみがこれをクリヤーする!! 神の三位一体は、決して人間理性で理解できない、「神学的深遠の問題」といわれている。システム S が初めから矛盾しているからこそ(少なくとも我々にはそう見える)、神は、全てを知っていて(全知)、すべてにおいて完全な結果をもたらす(全能)のである。

  すなわち、もし、神様が全知・全能であるならば、「父なる神」の他に、「イエス様」と「聖霊様」が神でなければならず、なおかつ、神様はお一人である! さらに、私たちがキリストの十字架の贖いによって罪が赦され、キリストにつながって、「神の子供」とされたのならば、私たちの中にキリストがいて、同時に、キリストの中に私たちがいる、という、この不思議な形態の中に私たちも組み込まれているのである。


    ( * 不完全性定理について: → 3.自己言及と不完全性定理、 4.不完全性定理(第1)の証明

      (参考文献) ・ 「ゲーデルの哲学」 高橋 講談社現代新書(1999)、 ・ 「わかるユダヤ学」、手島勲矢、日本実業出版、2002年9月


  *  カート・ゲーデル自身も”神の存在論的証明(1970)”を考察した。しかしそれは、不完全性定理を用いたものではなく、”神性”を単純に”肯定的性質”とおき、特に”神の三位一体”に言及していない。しかもその論理展開には(彼自身も気が付いていたと思われるが)飛躍があり、その証明は間違っている。
  ゲーデル(オーストリア人)もアインシュタイン(ユダヤ人)も、ナチスの迫害を逃れ、アメリカ合衆国に亡命した。プリンストン高等研究所において、ゲーデルは先にいたアインシュタインと、仕事にあっても家族ぐるみの交際にあっても意気投合した。(ゲーデルは、一般相対性理論の”ゲーデル解”を解いた) 社交的なアインシュタインは、ボーアとの論争にあって何度も”神”を引き合いに出し、核廃絶の平和運動や、キリスト教とユダヤ教の協力を推進した。また、内向的で緻密な思索の持ち主であるゲーデルは、人間の思索の最も深いところの逆説的な真理である”不完全性定理”を発見した。
  しかし、ゲーデルもアインシュタインも、おそらく このような非常に孤高な立場にいたので、福音に触れることが無かったと思われる。彼らの生涯を通して、ついに”神の三位一体”には至らず、イエス様を救い主として受け入れたことは無かったので、彼らは救われていなかったと考えられる。


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