5. 科学の分野における歯止め



  教会の日曜学校、チャーチスクールの学生、独習者などが大学進学、あるいは、未信者だらけの社会に出て、誘惑にやられず信仰を堅く保つためには、何よりも”みことば”に堅く立っている事が必要である。特に、クリスチャンホームなどの”純粋培養”を受けたクリスチャンは、”免疫”として、人間関係などの実際問題に対処する訓練を受け、惑わされないための充分な歯止めをも持っていなければならない。旧約時代には”現物”に対応付けてみことばを覚えるようにされたが、現在は、聖霊様に満たされ、みことばを体験することがメインである。(体験的にみことばを学ぶ必要がある。)
  さらに、(エデンの園のエバのように)誘惑は思索から来るので、一般の”思索”においても有効な歯止めを持っている必要がある。そして、(理科系ならば)高校から大学初年度程度の数学の知識(+α)によって、この歯止めが充分かけられると思われる。

  ・ アメリカにおける離婚率は結婚した人の数の約半分 ・・・ 49%(2000万人)であり、クリスチャンであっても大して変らない。(離婚者の再婚後の離婚率はさらに高く75%) しかし、聖書を毎日一緒に読むクリスチャン夫婦は0.1%である。(ロシア65%、次いで、スウェーデン、フィンランド、イギリス、その後アメリカ、日本の離婚率は38.1%)

  ・ 筆者の、簡単な化学実験のHPについて、時々、未信者の方から問い合わせが来る。最近は子供の理科離れが深刻であるが、アジアは製造業の中心であるのに、実験を伴う理科の学力や、実際に物を扱う体験を培う環境がさまざまな原因により充分でないと思われる。この分野について、もう少し強化していこうと思う。

  ・ 天才児の脳は、海馬(側頭葉の記憶領域の内側)が細かく区分けされていない(一つの大きなダンボールに記憶がなんでもかんでも投げ込まれている状態である)ことが知られている。それだけ、記憶の出し入れについて頭の回転が速く、理系、文系などの区別もないと思われる。



  1. 神の3定数の不思議:


  ”思索”は霊の通り道である。思索が心の中に満ちると”言葉”になり、語る言葉に霊が伴う。そして、その言葉に伴った霊が環境を変えていくのである。それほど”思索”は重要であるが、理性的な思索を最大限に純化したものが”数学”であり、その数学が、神の三位一体をあかししているのである。

  純粋に数学的には、それぞれ全く異なる3つの思索の歴史的な発祥地点 ・・・ 図形的思索(初等幾何)から π、 変化と極限の思索(解析学)から e 、記号・数式のパターン認識(初等代数学)から i ・・・ という3つの数学定数が明らかにされ、それらが、オイラーの公式にあって一つに合体する、という 数学史上最大の不思議である。20世紀の物理学者ファインマンは、このオイラーの恒等式
      について、”人類の至宝”であると言ったほどである。なぜなら、この、我々が直感できないシンプルな恒等式の中に、3つの代表的な数学定数と マイナス1 が入っているからである。
  現代数学も含めて、派生的、伝統的なものを除く本質的な数学定数としてはこれらの、たったの3つしか知られていないので、”3”という数が思索全般において特別な意味を持っている。(他はあっても一つにならない)

  これを見た人がクリスチャンならば、自然に、神の三位一体を思い起こすであろう。
  数学定数の、π(円周率)が「御父」、e (自然対数の底)が「御子」、 i (虚数単位)が「聖霊」、と対応付けて置く、この発想は、いささか”形而上学的”であると批判されるかもしれないが、まず純粋に数学的に見ても驚くべき事実であり(*)、そこから導かれる指数関数などの数式が聖書のみことばと非常によく対応付けられている(感覚的にマッチングしている)ことこそ驚くべきことである。(→ 数学思索の構造 7.

  * 世界中には多くの神々とよばれるものが存在するが、それらは、異教:”単一の唯一絶対神”(ユダヤ教、イスラム教)、または、”多神教”、さらに、 キリスト教の異端の多く ・・・ 何らかの形で三位一体を否定するもの ・・・ であり、これらは”思索”の本質的な構造とマッチングしない、すなわち、”偽物の神”、”偽った思想”であることが証明されるのである。



  2. 物理における”生”と”死”:


  神様の被造物である”自然”は、そのすべての法則において、必ず 2種類の形態 ・・・ ””、あるいは、”生(いのち)”のどちらか形態 ・・・ を持つことも驚くべきことである。

  (1) 古典物理においては、宇宙には原子・分子という同じような粒々がただひたすら多く存在することから、時間と共に その混合のエントロピー(乱雑さ)は必ず増大する方向へ行く。そうすると、熱力学、化学平衡論などの熱力学系の法則やコンデンサーの自然放電、放射性核の崩壊などのように、
     で現される”指数関数的な減少”のパターンが現れる。これは、紐が自然にだらりとぶら下がっているような形態であり、ドイツ語には”熱力学的な死”という言葉も存在するほどである。マクロの閉じた系のエントロピーが時間と共に増大するということは、初期値=「創造の初め」が存在することを意味している。

  (2) 物質は(世の終わりが来てすべてが改まる時までは)、安定的・永続的に存在する。物理定数 c (光速)、h(プランク定数)が現れる現代物理においては、ミクロの水面下の状態で”波動性”が現れる。永続的振動や波動性は、
      型 の数式で表される。量子力学的振動は、力学における”位置エネルギーと運動エネルギーとの間の振動”や電磁気学における”電場と磁場の間の振動”とは異なり、まさに、粒子の存在確率が”実数と虚数の間を行き来する種類の振動”であり、量子力学は本質的に”複素数の物理”であると言うことができる。しかも、この波動性はあくまでも”水面下”における理論的な想定であり、実際に”粒子”として観測されるとき我々はその一つ一つについての挙動を予測することができない。(確率性=神様の主権)

  (1)、(2)の違いは、自然対数の底 e の冪に、実数が入っているか 虚数が入っているかの違いである。このことは、聖書の中心的な記述のとおり、我々も、たましいがキリストとともに充分死んで(自然対数の底 e)、聖霊様(虚数単位 i )を受けるならば、永遠のいのちによって生かされる、ということを意味する。



  3. 不完全性定理の適用:


  難解といわれるゲーデルの不完全性定理であるが、その骨子はそれほど難しくない。

  自然数論における不完全性は、自然数がもつ”可付番・無限性”を、”有限な”公理系で無理やり表現しようとすることから発生する。あらゆる言語は記号になり、記号はゲーデル数によって自然数論に還元されるから、自然数論を含むほとんどの数学理論はもちろん、階層構造をもつ一般言語においても、永遠に決定不能なパラドックスが容易に発生する。そのような証明も反証もできない命題を”ゲーデル命題”と呼び、これは、帰納的な定義がなされたその命題自身のパラメータ(たとえばその命題自身の”証明”のゲーデル数)を、論理を反転させて(否定的な言及にして)、その命題に代入することによって構成できる。それはちょうど、デジタル回路でアンプに”負帰還”させて発振器を作るのと同じ原理である。(→ 人間の思索と神の愛 3.〜7.)

  不完全性定理は次のようである。
  第1定理: 理論(公理系)が無矛盾であれば、(その理論内部で)証明も反証もできない決定不能命題(ゲーデル命題)が存在する。
  第2定理: 理論(公理系)が無矛盾であれば、(その理論内部で)理論(公理系)自身の無矛盾性を証明できない。

  もし、結果が完全(すべての真理を知る)かつ無矛盾な”神”であるならば、そのような”神”は存在しない、という結果が導かれる。すなわち、
      ・ 内部が無矛盾であれば(神様が正確無比なコンピューターのようであれば)、結果は不完全(暴走するプログラムを含む)。

  ここで、第1定理、第2定理の対偶をとると、
      1. A → 〜B :無矛盾ならば不完全  ⇔  B → 〜A :もし結果が完全であるならば、公理系は矛盾している
      2. A → 〜C :無矛盾ならば、その無矛盾性を証明できない
                         ⇔  C → 〜A :公理系自身が無矛盾であることを証明できたならば、公理系は矛盾を含む

  したがって、完全すべての真理を知る・証明できないことが無い)、あるいは、ご自身の無矛盾性をあかしする神は、その内部が論理的に矛盾していなければならない。(少なくとも我々にはそう見える。) このことは、神の三位一体を主張できるものであり、1+1+1=1 のような矛盾した図式が公理系においてそのまま成立することを意味している。神様の内部は、「愛」によって自己矛盾しておられ、神様のご性質が本質的に「愛」であることが分かるのである。(Tヨハ4:8)

  (注) ・ 内部が矛盾して、なおかつ、不完全な結果をもたらす者 ・・・ サタン・悪霊、罪人のパターン(=「偽り者」(ヨハ8:44))も当然存在しうる。



  4. 創造論における”奇跡の要素”の必要性:


  信者の科学教育において、創造論教育は、みことばに基づいて当然行なわれるべき基本的な教育であるが、まさにこの点が世の流れの”進化論”とぶつかり、クリスチャンの信仰が惑わされる危険性が最も大きいポイントであり、我々が最も戦うべきポイントでもある。

  聖書の記述のとおりに、神様が創造の初めに天地万物を創られた、あるいは、ノアの洪水が存在したことの証拠は、確かに次々と明らかにされている。
  しかし、”無から有を創る”創造のわざは、あまりにも常識からかけ離れているので、一般の人々は「創造論」を全く無視しているのが現状である。
  ここで、「奇跡の要素」が人々の前に大々的に明らかにされると、これをモデルとして類推することができ、聖書どおりの神様の大創造を信じることができるようになるはずである。すなわち、科学が発達し、物質における質量、エネルギー、運動量、角運動量などの”保存則”が常識になっているので、しるしと不思議の奇跡によって少しでも”保存則”が打ち破られることを人々が目の当たりにするならば、それが現在における神の「再創造」であり、かつで神様が全宇宙を”大人の宇宙”として大創造されたことを信じることができるようになると思われる。
   (→ 新しい創造論



  5. 預言の源泉性:


  みことばは基本的に預言であり、預言は神からのメッセージである。このうち、霊的な預言は、神の言葉が成文化され 永遠に変ることのない みことばに比べ、重要度は低いが、もっと直接的であり、かつ、期間限定的で、”条件付で”(=預言を受ける者が信じて従うかどうかで)成就するものである。(物理で言うなら、みことばが”定在波”ならば、預言が”パルス波”、”波束”、”過渡現象”のようである)

  預言は、旧約時代には、神によって選ばれたごくわずかの特定の預言者が語り、国家の神制政治を導いていた。また、その影響力の大きさのゆえに偽預言者は殺されなければならなかった。(申13)
  一方、新約時代は、教会の(人々の)徳を高めるために、「勧め」、「励まし」、「慰め」などの種類の預言を 誰でも預言することができる。新約時代は「終わりの困難な時=惑わしが多い時」であるので、預言の中に間違いを含み得る。そのため、すべての預言は「吟味されるべきもの」(Tコリ14:29)であり、どんなに有名な預言者が語った預言であっても必ず吟味しなければならない。
  吟味の方法は必ずしも特定されていないが、1.聖書のみことばに合致するか(反していないか)、2.他の預言や摂理的な示しとの関連性があるか、3.予告予知については結果吟味(結果がそうなって、預言が神様からのものであることがわかる)、4.内側の深い確信があるか、などを基準とする。また、預言をする人がどのような分野の預言に強いかを知っておく必要がある。
  また、吟味の過程で、神様との交わりを深めるという大切な目的がある。

  預言者について、預言者とは基本的に「神様との関係修復」の働きをする者である。その目的のために、”キリストの奥義”と”聖霊の油注ぎ”が、使徒・預言者にキリストから委譲されている。(エペ3:9、使8:14、15) Tコリ12:28の”任命”とは、権威や身分が定められる事のみならず、戦略的地位に置かれる事を意味する。

  教会の教理は、使徒・預言者の上に建てられる。(エペ2:20)
  そのやり方は、まず、預言者が祈って、神のもとに行き、同時に、教会にいて、神のことばを持って来て、方向性を出す。
  使徒は、預言者のあることばを取って、どのように人々が歩んでいくかを(毎日毎日一歩一歩)導いていく。
  教師は、預言者のあることばを取って、教え、また、人々が真理を良く聞けるようにする。
    (cf. 牧師: 現実的に羊に食物を与える。羊が何を食べるか、一人一人について牧師のみが知っている。(父と子の関係)
        伝道者: 出ていって人々を連れてくる。)


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