日本の歴史から見たリバイバルの展望



   1. 神話時代から聖徳太子まで

   2. キリシタン・リバイバルから明治維新まで

   3. 大戦の時代から戦後の経済進出まで

   4. 日本のリバイバルの展望(まとめ)


  1. 神話時代から聖徳太子まで:


 日本国の成り立ちを考える時、大陸からやってきた2つの大きなトピックスが挙げられる。
 一つは、BC660?神武天皇が北イスラエル王国の末裔(エフライム)であることであり、もう一つは、AD4cに大陸から東方キリスト教信者でユダヤ系民族の秦(はた)氏一族が来て、キリスト教を伝え、また日本に日本らしい文化を伝えた事である。この時キリシタンの時代よりも遥か昔にキリスト教が伝来し、神話時代からのサマリヤのユダヤ的一神教と融合して、本来の唯一神道(キリスト教的神道)が形成され、一種のリバイバルが起こっていた。


 日本には初めからの先住民族というものは存在せず、中国系、モンゴル系、朝鮮系、東南アジア系、中東系、ヨーロッパ系などが移り住んだ混血の民族である。その中で、高い文化水準を持った大陸からの民として、サマリヤの血筋を引くイスラエル10部族の内のエフライムが日本にやってきて、支配階級に就いた事は十分考えられることである。
 日本の伝説的な初代天皇と言われている、神武天皇は、サマリヤの王と自称している。(*1)
 日本人がすべてイスラエルの末裔というわけではないが、状況証拠(*2)から、少なくとも皇族にはその血が流れている、という説は非常に有望であり、今後の発見が待たれるところである。
 卑弥呼の時代にもあるように、サマリヤの偶像崇拝(太陽神崇拝)や占いの伝統は、本来のヤーウエ信仰と共に並行して、初期からそのまま日本に引き継がれていたと考えられる。
 イスラエルからはるばる中央アジアのキルギスを経て、マナセ族と分かれたエフライム族の一部は、このように日本に移り住んできたのである。逆に、聖書預言によるならば、終わりの時、再びシルクロードを通ってイスラエルに向かう事も十分考えられる。(**)

 一方、4世紀の古墳時代の初期に、秦氏一族は、2万人もの人々が大挙して、朝鮮半島から日本に移り住む事を天皇から許された。秦氏はユダヤ人の東方キリスト教信者であり、バルハシ湖南部の弓月(クンユエ)国の民であったが、万里の長城建設の苦役から逃れて、朝鮮半島を経由して日本に流れてきたのである。
 中東やアジアに離散したユダヤ人にとってユダヤ性を色濃く有する東方キリスト教は受け入れやすかったと考えられる。東方キリスト教はローマ・カトリックから異端として非難されているが異端ではない。
 秦氏一族は日本に来て、多くのイエス・キリストの神社(*3)を設立したのみならず、いわゆる日本らしい文化(*4)を伝えた人々である。
   秦氏とその末裔が作ったイナリ(INRI)神社は、6世紀から8世紀初頭までは、何らかの形でイエス・キリストを祭った神社で、その霊験あらたかな御利益(病気が治った、命拾いした、田畑に水が湧いた、など)のゆえに、たちまち庶民の間に広まり、全国一多い神社になった。すなわち、いわばしるしと不思議によるリバイバルが起こっていたと考えられる。空海によって仏教に捻じ曲げられ、キツネが祭られるようになったのは後の9世紀になってからの事である。(*5)


  さて、6世紀になって、大陸から仏教が入ってきた。次々と入ってきた仏像と共に、天然痘などの疫病が入ってきたので、神道派の人々は仏像を”疫病神(やくびょうがみ)”と呼んだ。
 聖徳太子は593年摂政となった。彼は元々、唯一神道であり、これを中臣御食子(なかとみのみけこ、鎌足の父)より学んだ。しかし、後に熱烈な仏教徒であった実力者の蘇我氏に妥協し、(”篤く三宝を敬え”の)三宝を、”儒、仏、神”としたものと思われる。彼は、仏教や儒教を外国の神道であると考えていた。この事は622年に編纂された”先代旧事本紀大成経”に書かれている。これは後に、さらに変遷し、日本書紀が書かれた時(720)に、道慈という僧によって、”仏、法、僧”にすり返られた。(by.中部大・大山誠一教授) 当時、蘇我氏は神道派の物部氏を滅ぼしたが、大化の改新(645)の時、絶頂期にあった蘇我入鹿は殺され蘇我氏は滅亡した。
 古事記における、一番最初に現れた造化三神は元々一つの神で、三位一体のキリスト教の神を現わす。
 聖徳太子の伝説的な事柄(名前が厩戸豊聡耳皇子(うまやど とよとみみのおうじ、イエス様のように馬屋の前で生まれた、10人に一度に聞いて正確に聞き分けた)、光り輝くオーラ)は、彼がキリスト者、あるいは、キリストに関わる者である事をうかがわせる。聖徳太子が建てたといわれる、大阪の四天王寺は、元々は玉造(たまつくり)の地にあったイナリ神社(イエス・キリスト神社)で、どちらも西門に鳥居がある。


 平城京(710)以降、大陸から仏教が本格的に入ってからは、神道はさらに変遷し、その結果、権力争いや戦乱の止むことがない日本の暗黒時代の歴史になっていった。 (以下、略歴を記述)

 マホメットが回教を広める(610−)、ペルシアの景教消滅
 中国が隋から唐に変わる(618)、遣唐使
 唐の玄奘三蔵がインドに旅行(629−645)
 平城京(710)・・唐の長安を模倣し、多くの犠牲と技術(秦氏一族もこれに関わった)を駆使して完成
 古事記(712)、日本書紀(720)・・どちらも仏教に都合が良いように、史実が意図的に書き換えられた

 奈良に大仏建立(752)・・帰化人の指導で三年かかって完成。世界最大の銅像。開眼式にインドからボダイ僧正が招かれ、全員が筆に結んだ紐を握って眼を書き入れるという、悪霊的な儀式を行なった。
 →  この頃(8世紀半ば)から、平城京内で、朝廷に背く反乱勢力による醜い権力争い。道鏡という僧(766法王になる)は天皇の位を狙った。
 平安京(794)・・あまりの不吉な混乱のため、桓武天皇が政治を改めようと早くも遷都(一時、長岡京に遷都しようとしたがそこでも殺人が起こりさらに遷都した)
 空海(弘法大師) 帰朝(806)・・真言宗 → イナリ神社にキツネの偶像が入る
 遣唐使廃止(894)、唐の滅亡(907)
 仏教における死者崇拝(先祖崇拝)はペルシャの習慣から来た。(*6)
 8世紀の中ごろから開拓土地の私有化が許される。

 一連の平安大震災(850〜888)により国中が動乱・疫病
 荘園(900頃−)・・各地に荘園が起こり、荘官という代官が武装していく → 武士の発生

 保元・平治の乱(1156、1159)・・貴族(藤原氏)が京都で政治を怠けている間、武士が強くなり、貴族どおしの争いに、雇われた武士が活躍するようになった。
 壇ノ浦(1185)、鎌倉幕府(1192)・・源氏は貴族にはならず、武力による封建支配。
 元寇。幕府の経済力弱化。
 南北朝60年の戦い(1334−1392) → 地方にも大きな変化
 室町時代は中央の力が弱く、全国に常に戦いがあり非常に不安定な時代。武装した農村(惣村(そうそん))の土一揆。倭寇。 (餓鬼の時代)
 応仁の乱(1467)・・室町幕府の重臣どおしの戦いで、地方から大勢の武士が参戦し、京都は11年間の戦いで荒れ果て、寺も民家も破壊し尽くされた。
 戦国時代(15世紀末から100年間)・・地方の争いは、次第に統一された戦国大名を生み、下克上の本格的な戦乱の世になった。


  *1  神武天皇(BC660?)はサマリヤの王と自称。(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト → カム・ヤマトゥ・イヴリ・ベコ・シュメロン・マクト = サマリヤの王、ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者) 民謡のはやしことばなどと共に、意味不明の言葉だったので、変遷を受けずに残っているものと思われる。
 また、日本神話の姻戚関係がヤコブの家系と酷似している。(ヤコブ・・・ニニギ、ラケル・・コノハナサクヤヒメ、レア・・イワナガヒメ、ヨセフ・・山幸彦、アセナテ・・トヨタマヒメ、エフライム・・ウガヤフキアエズ、ベリア・・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)、ヨシュア・・歴代の天皇へ)

  *2  
     ・ ユニコーンはヨセフ族の紋章。70人訳で、申33−17の「野牛」が”一角獣”と誤訳された。(西欧ではさらに馬に角) 日本神道の狛犬は、正式には、右に獅子(ユダ族)、左に狛犬(角が有る・ヨセフ族)。
     ・ 太陽神崇拝(アマテラス)は、南のユダではヨシヤ王によって廃止されたが、北のイスラエルではアッシリア捕囚まで本来のヤーウェ崇拝と並行していた。
     ・ ヤタの鏡の裏の文字:円の中の文字はヘブライ語で、”有りて有る者”というよりも”ヤハウェの光”の意
     ・ ただし、DNA鑑定では南のユダに全面的に移動したレビ族(U歴11−13)の末裔しかわからない。レビ族の血を引く民は、外見上全く異なるアフリカ南部のレンバ族に見出されている。
     ・ キルギス語と日本語(訓読み)の類似性、キルギスの伝承

  *3  日本神道(特に、八幡(ヤハタ=ヤーウェ)、イナリ(INRI(インリ)=イエス・キリスト))は、本来、大陸からの渡来人である秦氏一族によってもたらされた東方キリスト教。景教(ネストリウス派の事、西方のローマ・カトリックによって、景教はキリストの人性を否定する異端とされたきた)ではない。
 景教は、東方キリスト教とは別ルートで伝わったもの(教理はほとんど同じ)で、使徒トマス、ナタナエルに始まり、西アジア一体に広まり、635年には中国皇帝に公式訪問して布教許可をもらっている。”大秦(たいしん)景教流行中国碑”(西安、781)。
 秦氏は、アマテラスではなく、”アメノ ミナカ ヌシ”(天の中心に座す主なる神)を祭った。
 日本最古のイナリ神社の糸賀稲荷(535、和歌山県有田市)のある地方は、”王子信仰”(神が尊い御子の姿で顕現する)が盛んな所である。太秦(うずまさ)神社、大酒(ダビデ)神社も秦氏が作った。伊勢の20年ごとの式年遷宮は、幕屋の移動を思わせる。
契約の箱にそっくりの神輿(みこし)が担がれる事は、749年宇佐八幡宮で始まった。

  *4  秦氏は日本らしい文化や技術・芸能をも伝えた。(養蚕、機織、冶金、製鉄(農具)、清酒、雅楽など) これらの文化は、時代が変わっても全く変わらず現在までも引き継がれている。
 秦氏の子孫の羊太夫(7〜8世紀)は和同開珎を鋳造する工場を作った。(埼玉県秩父で銅発見(707)、和同開珎(708)) また、彼がいた群馬県の多胡の地でも養蚕が始められた。
 ユダヤ性としては、古墳の埴輪の髪型(みずら)がユダヤ人やカザール人のものとそっくり。風呂好き・清潔好きの民。その他、従来の天皇家の慣習と重なる部分がある。

  *5  2002年の稲荷神社における霊の戦いの時現れた、悪霊によって汚されている写真(ページの下部)

  *6  原始仏教には死者を弔う風習も行事も無かった。中国やインドにおける仏教はもともと出家主義で、中国では死者を大切にしない宗教だと非難を受けていた。ペルシャ系のソグド人や西アジアから来た景教徒は死者の弔いを大切にし、”日に7度、生者と死者のために祈っていた。”(大秦景教流行中国碑) 彼らが中国で勢いを伸ばしていったので、仏教徒は恐れ彼らの慣習を仏教的な装いにして、いわゆる”盆”の行事を始めた。


   (参考文献) 「日本の中のユダヤ文化」 久保有政 学研、 「日本・ユダヤ封印の古代史」 同著 徳間書店

      **  →   日本のリバイバルに関連する預言について: 

                          (参考)   日本史のイメージ図


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