キリスト教の 初歩の学び  ・・・・・  信じて救われた人のために

                                                  2021年5月20日



   1. 有りて在る神:


   「初めに、神が、天と地を創造した。」 (創世記1章1節)

   「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。 それは、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」 (Uコリント4章18節)



  目には見えないけれども、確かに実在する神、 永遠の昔から存在する神が、この天地万物を造られました。 神は「霊」であり、普通は人にはその姿を現しません。 人が神を見たらその人は死ぬからです。(出エジプト33章20節) 主が初めてモーセに現れたとき、「私は、『在る』という者である。」と、自己紹介をされました。(出エジプト3章14節)

  旧約聖書でと太字で書かれている箇所は、「ヤハウェ」と読まれ、「彼は(過去も、現在も、未来にも)彼は在り続ける」というヘブライ語の意味になります。 そして、イエス様ご自身が、そのヤハウェであると言っておられます。(ヨハネ8章24節、他) 黙示録4章には、「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」として御座に座られた方を御使いたちがこう呼んでいます。 ヨハネの福音書1章1節には、ことば(=キリストの事)が永遠の昔から神であり続けた、という文法になっています。

  アダムとエバの時代、すなわち、人が神の手で造られた初めの時代には、夕方の「そよ風の吹くころ」(創世記3章8節)、いつも主が現れ、彼らは創造主である神の語りかけを受け、神様との良いコミュニケーションを持っていました。 このように、罪が入る前は、当然のように人々は皆、神を礼拝していました。 それは、本来人間は、何かを拝まずにいられない性質のものとして造られたからです。
  そして、罪が無く、神様との関係が正しいものであったときは、アダムとエバはエデンの園にいて、(おそらく、「いのちの木」からも)園の実を取って食べ、何不自由ない恵まれた生活を送っていました。

  しかし、罪が入ってからは、人々が何らかの「犠牲(いけにえ)」の捧げものを持ってきて、主の御前(みまえ)に出なくてはならなくなりました。(創世記4章4節)
  神が目に見えないせいか、人々はこの偉大な創造主を、神として崇めず、ないがしろにしてきました。




   2. 原罪について:


   「神であるは仰せられた。 「見よ。 人はわれわれのひとりのようになり、良し悪しを知るようになった。 今や、彼が、手を伸ばし続け、いのちの木からも取って食べ続け、永遠に生き続けることがないように。」」 (創世記3章22節)



  「罪」とは、ギリシャ語で”的外れ(まとはずれ)”という意味です。 神から離れ、自分を第一とし、自分の力により頼んでいこうとする性質のことです。

  アダムとエバの時代に、彼らが悪魔にだまされ、神によって禁じられていた「良し悪しの知識の木の実」を食べてしまったので(創世記3章)、神を神とせず、自分が神となる、という”的外れ”な性質が、人類すべてに入ってしまいました。

  この、神から離れて自分勝手な道を行こうとする性質を、「原罪(げんざい)」と呼びます。 原罪は代々遺伝し、多かれ少なかれすべての人に罪の性質が入っています。 「義人(=神の前に正しい人)はいない、一人もいない。」(ローマ3章10節)とあるように、誰一人、例外はありません。 子供は、教えなくても罪を犯します。
  そして、この原罪が、他のあらゆる罪(余罪)を引き起こしていきます。 原罪とは、人であるにもかかわらず、神のように事の良し悪しを規定して、自分が神になってしまう、という性質です。 そのため、自分が悪いということを認めるのが難しい。

  罪が入ったアダムとエバは、エデンの園から追い出され、また寿命も有限になりました。 罪がある以上は、神様との正常な関係を保つことができず、永遠の命をはじめ、多くの恵みを失うことになります。

  神様は聖なる方です。 ご自身が全知全能の聖なる方なので、人の内にあるどんな罪も見逃すことはできません。 人が生涯に犯した罪に対しては、死後に、永遠のさばきが定められています。
  そして、人は、自分のうちにある罪を、自分でどうすることもできないのです。 ・・・ このようにして、人類は悪魔の支配下に陥ってしまいました。




   3. 救いについて:


   「神は、これほどまでに、世を愛してくださったゆえに、ただ一人の御子を 与えてくださったのである。 そして、御子を信じる者は だれであっても、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つ。」 (ヨハネの福音書3章16節)

   「しかし、私たちがまだ罪人であった時に、キリストが、私たちの身代わりに死んで下さったことによって、神は私たちに対して、ご自身の愛をはっきり示されたのです。」 (ローマ人への手紙5章8節)



  しかし、あわれみ深い神は、ご自分のほうから「救い」を与えてくださいました。 神ご自身の ひとり子なる神、イエスを、私たちの身代わりに、十字架につけて死なせられました。 神が納得される罪の代価は、この十字架以外にはなかったのです。
  旧約時代には、またそれ以前にも、動物の犠牲(いけにえ)を毎回携えて、神の前に来ることが許されました。 しかし、時が満ちて、神ご自身の御子が、十字架によって捧げられ、その流された尊い血潮のゆえに、このただ一度の捧げものによって、「信じる」すべての罪人が、「義」、すなわち、神の前に正しい、と認められたのです。

  神と人との断絶は底知れない大きな罪で、人に対する罪(殺人、姦淫、盗みなど)よりも、神に対する罪(神を神としない罪、神を知ろうとしない罪など)のほうが、比べ物にならないくらいに重い、と聖書は言っています。 それは、「百デナリと一万タラント」の差ほどもあります。(マタイ18章23−35節)
  もし、神に対する罪が赦されたならば、当然、人に対する罪を赦すべきです。(七度を七十倍する、マタイ18章22節) また、神を愛するならば、信仰の兄弟をも愛して当然です。(Tヨハネ4章10−12節) 福音の本質は「赦し」です。 神に、計り知れない罪を赦されたのだから、他の人を、(また、意外な盲点ですが、)自分自身をも、心から赦すべきです。


  前にも述べた通り、罪とは”的外れ”の意味ですが、具体的には、「モーセの律法」(モーセの十戒、出エジプト20章3−17節)に違反することです。 この世の法律には、神に対する罪はうたっていませんが、聖書の十戒の、第1戒から第4戒までは神に対する罪の戒め、第5戒から第10戒までは人に対する罪の戒めになっています。 人は、このすべての戒めを、自分の中にある罪のゆえに、すべてを守ることができないのです。
  特に第1戒、第2戒は、意外に思えるかもしれませんが、偶像崇拝の罪です。 創造主なる神は、被造物を拝むことに対して、ねたまれ、忌み嫌われます。  ・・・ 救われた人がまだ何か偶像を握っているなら、それらを完全に捨て去るべきです。

  しかし、神様のほうから、救いの御手を差し伸べてくださいました。 御子キリストの十字架による買戻し(=「贖い(あがない)」)を「信じる」すべての人を、その罪の程度によらず、どんなにひどい罪であっても、価なしに赦してくださるのです。 十字架によって流された御子の血潮という、計り知れない尊い代価を、ご自身がご自身に支払ったことにより、私たちは神のもとに買い戻されたのです。 今は「恵みの時」、「救いの日」です。 この十字架こそ、「神の愛」です。
  イエスが神であること、十字架で私たちの身代わりに死なれたこと、そしてよみがえられたことを信じるなら、今まで犯した罪と、これからも犯すであろう罪も、すべて赦され、無条件に(=価なしに)「神の子」の身分を与えてくださるのです。 これ以上良い待遇はほかにあるでしょうか? それゆえ、この救いのことを、「福音」(=良い知らせ、ゴスペル)と呼びます。


  「悔い改め」とは、英語でもヘブライ語でも、”向きを変える”という意味です。 すなわち、神様の御顔を避けて逆方向に行っていたのを、神様に対して正しく向き合うことです。 神様が与える素晴らしい恵みを、素直な心で、ただ受け取ればよいのです。
  私たちは救われて、「信じる」だけで、今まで一度も罪を犯さなかった者とみなされ、無条件に神の子とされ、父なる神との関係が正常に回復したのです。

  罪(=故意に犯す罪+弱さによる罪)のきよめ(=「聖化(せいか)」)については、その大部分が「救い」のときに聖霊が内に入られることにより、きよめが同時に成されます。 故意に犯す罪については、内なる聖霊の力によって、もはや犯すことができなくなります。(Tヨハネ3章9節)
  それでも残っている部分(=弱さによる罪の一部)は、クリスチャンでも常に戦いがあります。 これは主がその人の生涯に与えられたチャレンジです。 救われたクリスチャンは、日々顔を洗うように、そのつど罪を犯したことを主の御前に悔い改めます。このようにして、神様との関係をいつも良好に保つことができます。 そして聖霊に従って悔い改めて、向きを変え続けるならば、有罪の判決が下されることはありません。(ローマ8章1節) 御子イエス様は完全な弁護士です。どんな罪でも、訴える者(告発者・サタン)から、「無罪判決」を勝ち取ってくださいます。なぜなら、ご自身が、身代わりに、すでに十字架で罰を受けてくださったからです。
  さらに、聖霊に聞き従う信仰の歩みの過程で、解放され、きよめられる時がはっきりとあります。(ガラテヤ5章16節)  ある罪のきよめ(特に、高慢の罪が砕かれることなど)については、痛みを伴うものです。肉において苦しみを受けた者は、罪を自分からやめました。(Tペテロ4章1節)

  最終的には、私たちが待ち望んでいる、世の終わりに主イエス様が再び来られる時(=「再臨(さいりん)」の時)、私たちは御使いのような、聖なる朽ちない体に変えられます。そのときが、完全なきよめとなります。(=「栄化(えいか)」、Tコリント15章51、52節)


  ここで、この「信じるだけ」ということが重要です。 救いの条件に、水のバプテスマや いろいろな儀式、食物規定、教会に所属することや献金の義務、安息日、宗教的な行ないなどが入ってはならない、ということです。 救いの条件に、十字架以外のものがあってはならないのです。 救われてもまだ古い罪の性質がいくらか残っているのであり、人には何かをしないと気が済まない性質があります。(ヨハネ6章28、29節)
  もし、救いの条件に何かの行ないを付け加えるならば、それは十字架を冒涜することであり、主の臨在は失われ、霊の異なる異端になってしまいます。 この点は、特に惑わされないように気を付けなければなりません。




   4. 三位一体の神:


   「初めに、 ことばがあった。 ことばは 神とともにあった。 神はことばであった。」 (ヨハネ1章1節)

   「もしあなたがたが、わたしは”在る”という者である(I am that "I AM")ということを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」 (ヨハネ8章24節)

   「わたしと 父は 一つです。 ( I and the Father are one.)」 (ヨハネ10章30節)

   「神の形であられる方が、 神に等しい者(be equal with God)であることに固執せず、 ご自分の 神としての権利を無効にし、しもべの形をとられ、人々と似たものとなられました。」 (ピリピ6、7節)

   「天において、あかしするものが三つあります。 御父、ことば、聖霊であり、これらの三つが、一つの存在です。」 (Tヨハネ5:7、「ことば」 とは、ヨハネ文章で「御子イエス」のこと



  神の三位一体とは、霊は一つ(=一人の神)であり、その現われが、父、子、聖霊の3つである存在、ということです。 (cf. カトリックの伝統的な”三つの霊”は三神論であり、異端的三位一体の教理。 エホバの証人異端は、キリストを父なる神よりも低い存在としているので、霊が異なる、明確な異端。)  大体において、異端は、キリストの「神性(しんせい)」を否定する傾向にあります。

  三位一体を明確に認識することはできませんが、あえてたとえて言うならば、御子は御父の腕のようなものであり、十字架の時一時的に切り離されたが、復活の前に再びつながって元通り一体となった、と解釈できます。 御父が御子から顔をそむけられたことの自然界へのしるしとして、日中に3時間もの間真っ暗になりました。(日食ならば2−3分、歴史上最長で8分) この時、信じる私たちを、御父に永遠につなげてくださったのです。 ・・・ 十字架上の切り離された「3時間」が、我々すべての「永遠の」救いに相当  (死の直前に御父とつながり、御父にご自身の霊をゆだねて死なれ、死後は復活までパラダイスに行かれた。)




   5. 聖書は神のメッセージ:


   「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰っては来ない。 必ず、わたしの望むところを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」 (イザヤ55章11節)

   「聖書は、すべて神の霊感によるものであり、教えに対し、戒めに対し、矯正に対し、義における訓練に対し、役に立つものです。 すなわち、神の人が、あらゆる良い働きに対してふさわしく、完全に整えられた者になるので、有益なのです。」 (Uテモテ3章16、17節)



  神は、「言葉の神」です。

  神は、語ったことを必ず成し遂げる、聖なる神です。(聖なる、の第2の意味) 聖書は、神のメッセージの中心であり、さらにその中で、旧約、新約聖書共に、御子イエスを中心に語っているのです。 旧約では遠くから間接的に、新約では直接的にはっきりと、御子イエスについて第一に語っています。
  そして、正当なプロテスタントの教会では、聖書に唯一の権威を持たせています。

  また、神の道と思いは、人の道と思いよりも、天が地よりも高いほどに高い。要するに、圧倒的に絶対的に高い、と言っています。 したがって我々があれこれ画策して思い煩うことは、主の御前に全く無意味であり、主の御声に聞くことが最も早道であることになります。(イザヤ55章9節)
  神を愛するとは、神の語りかけに聞くことでです。 (神の語りかけをギリシャ語で「レーマ」と言い、文字だけの言葉(ロゴス)と区別します。)

  聖書のみことばを通して、主に語られることはよくあります。 聖書のみことばに聖霊が宿るとき(=ことだま)、それは剣のように強力な神の語りかけになります。 聖書のみことばは、救われたクリスチャンが成長するための食物、栄養源であり(Tペテロ2章2節、 ヨハネ6章55節)、教えや矯正や訓練に役立つものであり(Uテモテ3章16節)、霊の戦いのときは攻撃用の武器になります(エペソ6章17節)。


  それどころか、天地創造も、神のことばによって行なわれました。(創世記1章3節、コロサイ1章16節) 御父が備え、聖霊がそれを温め(創世記1章2節)、御子が「光よあれ。」と宣言されました。(3節) 癒しや奇跡なども、同じ神である聖霊が行われる、「再創造」のわざです。 イエスの御名の権威を用いるとき、明確な言葉で宣言します。 たとえば預言のあるものは、預言を語ると 語られた言葉が即実現します。

  示しや預言については、多くの場合、聖書のみことばによって吟味することができます。




   6. 御霊の賜物:


   「そして、私の説教内容も、私の宣教方法も、説得力のある人の知恵の言葉によらず、御霊と、御力の、実演証明によったのです。 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵にではなく、神の力にあるものとなるためでした。」 (Tコリント2章4、5節)

   「わたしを信じる者は、わたしの行なっているわざを行ない、さらに、もっと大きなわざを行ないます。わたしが父のみもとに行くからです。」 (ヨハネ14章12節)

   「信じる者には、次のようなしるしが伴います。 すなわち、わたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびを上げて除き、毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けばいやされます。」 (マルコ16章16、17節)

   「皆の益となるために、それぞれの人に御霊の現われが与えられています。  すなわち、ある人には御霊を通して知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊にしたがって知識の言葉、 また他の人には、同じ御霊にあって信仰、またほかの人には、一つの御霊にあっていやしの賜物、 また他の人には奇跡の力、また他の人には預言、また他の人には霊の見分け、また他の人には各種の異言、また他の人には異言を翻訳する力が、与えられているからです。  これらのものは皆、一つの、また同じ、御霊の働きであって、御霊はみこころのままに、それらを各自に分け与えられるのです。」 (9つの賜物、 Tコリント12章7−11節)



  イエス・キリストご自身や、聖霊が激しく下った後の弟子たちが、多くのしるしと不思議を行なったのと同じように、現在の私たちにもそれが可能です。 父なる神は創造主なので、救われ、子供とされた私たちを愛しているゆえに、恵みの中で、神の再創造のわざを担わせてくださるのです。 超自然的な力こそ、神の存在証明と言っても過言ではありません。 多くの場合、他の人に福音を宣べ伝える「伝道」の中で表されます。

  福音派などの保守的な教会では、このような著しい奇跡のわざは、聖書が完成した今はもう必要ない、というようなことを言って、器を潰しています。(”反カリスマ”のにせ教理、 これはTコリント13章10節の曲解です) 一方、新興宗教やニューエイジなどでは、奇跡やいやしを売り物にしているところがほとんどです。実際はわざが起こらないか、起こっても一日だけとかですが。 でも、それでも、人々が関心を持って心を開くのは、目の前で”神”のしるしと不思議のご利益(ごりやく)が起こることを期待しているからです。
  そうであれば尚のこと、本当の創造主なる神が、はっきりとした奇跡を行ない、今も生きて働いておられるということをすべての人の前にあかしする事は、福音を語る導入としてごく自然なことなのです。

  不信仰は神のわざを止めます。(不信仰にならないために、聖霊に満たされてから行なうと良いでしょう。) こんな罪深い私に、こんな大それたことができるわけがない。 いいえ。事を成すのはあなたではなく、聖霊です。 私たちは救われて、キリストを着たのです。(ローマ13章14節、ガラテヤ3章27節) したがって、イエスの御名の権威も授かっているのです。(権威=力) だからあなたの内的な状況に関係なく、(主が導くタイミングの時に、)ただ「信仰」をもって、イエスの御名によって悪霊に命じるならば、悪霊は出て行かなければならないのです。 それはまるで漫画のように出て行きます。 なぜなら聖書のみことばが、このことを保証しているからです。 裏切ったイスカリオテ・ユダでさえも、イエス様から権威を授けられ、仲間の使徒たちに交じって奇跡や癒しを行なっていました。
  わざが起こらない方が”奇跡”です。 落ち着いて信仰をもって大胆に行なってください。

  奇跡や預言などのあらゆる不思議は、 一つには、伝道に伴うしるしとしてですが、 もう一つには、教会を建て上げるために、それぞれの御霊の現われが人々に分け与えられ、教会に備えられています。
  「御霊の賜物」(Tコリント12章8−10節)を教会で行使することによって、人々は建て上げられ、「御霊の実」(ガラテヤ5章22、23節)を結ぶようになります。 御霊の実を結んで、品性が「キリストに似た者になること(Christ-like-ness、ローマ8章29節)」、 「日々神と共に歩む「良い礼拝(従来、”敬虔”と訳された△)」」(Uペテロ1章3節、Tテモテ6章6節)、 これが最終的な目標です。 目標を取り違えないようにしましょう。 (マンモス教会になれば良い?、そういうわけではありません。)

  そして賜物の行使によって、それぞれの器の召し(=神の召命の計画)が円滑に成就していくのです。  「神の賜物と召しとは、変わることがありません。」(ローマ11章29節)




   7. 見分けと霊の戦い:


   「しかし、堅い食物は成人たちのものであり、良いものと悪いものを見分けるための感じ取る能力が、訓練されて熟練した人々のものです。」 (ヘブル5章14節)

   「にせ預言者を警戒しなさい。 彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来ますが、その内側は強欲なおおかみです。 あなたがたは、その実によって彼らを見分けることができます。」 (マタイ7章15、16節)

   「また、救いのかぶとをかぶり、御霊が与える剣、すなわち、神の言葉を受け取りなさい。」 (エペソ6章17節)



  神に反逆する霊、すなわち悪魔(サタン・・・悪霊どものトップ)と悪霊どもが、たとえや架空の存在ではなく、実在しています。 それゆえ、神に従って生きる人生の要所要所で、「見分け」と、「霊の戦い」が必要となってきます。
  霊の世界は、創造主(=神)と、被造物とがあり、被造物の霊は、御使い(天使)、悪霊(堕落天使、サタンは元ケルビム)、そして、我々人の霊があります。(動物には霊がない) 御使いは、神の働きを担う霊であり(ヘブル1章14節)、私たち個人や教会の守護天使もいます。 火や水を支配する特殊な天使(黙示録14章18節)や、礼拝天使(セラフィム、黙示録4章8節)、国・教会などの守護天使(ケルビム、ダニエル10章21節)など。

  今は惑わしの多い時代であり、にせ預言者(マタイ7章13−23節)、にせキリスト(マタイ24章4、5節)が多く現われる時代なので、彼らを見分けて、対処していかなければなりません。 今ほど霊の見分けが必要な時代はないのです。 だから御霊の賜物の「霊の見分け」の人も、五役者ととりなし手と共にグループを作っている必要があります。 見分け者がいないとできないミニストリーもあります。 経験による見分けは、賜物の見分けにはるかに及びません。 ただし、見分け者は霊が良いか悪いかだけを正確に判断するだけであり、その後どうすれば良いかは、これとは別の預言的導きになります。

  霊の戦いは、まず神に聞き従って(ヤコブ4章7節)、その上で、与えられた神の言葉の剣によって成されます。 唯一の攻撃用の武器である「御霊の与える剣」とは、神が語られる預言的言葉のことです。 これを語るとき、霊が切れます。 確かに、イエスの御名の権威や聖句をフル活用し、”下手な鉄砲も数打ちゃ当たる”という戦い方もありますが、まず主の前に静まって 神の語りかけ(レーマ)を受け取るならば、手強い敵もあっさり倒すことができます。 主に聞く、と同時に、敵と戦う、というバランスが重要です。
  もし、御霊の賜物が無く、御名の権威も使ったことがないような人が、宣教の働きに行くならば、丸腰で、武器無しで、戦闘のただ中に入るようなものです。 しっかり訓練を受けて、熟練してから遣わされるべきです。




   8. 教会論:


   「大勢いる私たちも、キリストにあって一つの体であり、また一人一人はそれぞれ器官だからです。」 (ローマ12章5節)

   「そしてキリストご自身が、 ある人々を使徒とし、ある人々を預言者とし、ある人々を伝道者とし、ある人々を牧師、また教師として、お立てになりました。 それは、聖徒たちに奉仕の働きをさせるように装備し、キリストの御体を建て上げ、 私たちが皆、神の御子についての、信仰の一致と知識の一致とに到達し、完全な大人になって、ついにキリストの満ち満ちた年齢に至るためです。」 (エペソ4章11、12節)

   「「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである。」とは、信じるべき言葉です。」 (Tテモテ3章1節)



  教会はキリストの御体であり、キリストの花嫁です。 五役者(ごえきしゃ、エペソ4章11節)の「使徒」と「預言者」の上に建て上げられ、大元の土台はキリストです。 ((注) 制度的教会は、この限りではありません。)

  教会はすべてをもってすべてを満たすところで、器たちの異なった賜物が与えられていて、互いに仕えあうように神によって備えられています。 (預言、牧会運営、教え、カウンセラー、分け与える者、指導監督、慈善(7つの奉仕、 ローマ12章6−8節)) このようにキリスト者の単なる集まりではなく、御父が定められた召し・賜物に従って働きをするように、秩序立てられています。 五役者を中心として、その権威・秩序に従って働きを成すことにより、ついにはキリストの年齢(御丈)まで成長していきます。
  ((注)Tコリント12章28節の(教会の中での)「第一に使徒たち」とは、五役者の使徒ではなく、「牧師」の事。 教会の中ではあくまでも牧師に権限がある。)

  初期の異邦人教会では、数多くの家庭集会レベルの小集会があって、それらが集まって合同礼拝をしていました。 監督や長老は町の小集会ごとに牧師によって立てられました。(Tテモテ3章1−7節、テトス1章5−9節) 規模が大きい場合は、執事(Tテモテ3章8−13節)も立てられました。 牧師(テモテやテトスなど)は使徒の按手によって任命されました。

  五役者(特に、使徒、預言者)が教会にいなければ、主の計画から外れ、目標を失い、教会はファンタジーになってしまいます。

  またある人が教会に所属していないからといって、救いを失った、ということにはなりません。ただ教会を通して現われる恵みをすべて失うことになります。 教会にはそれぞれ覆って守る御使いがいます。 個人と共にいる守護の御使いが小さい人は、教会の傘下(カバリング)に入ることが守りになります。 (教義的にぎりぎりのカトリック教会などは、その上で御使いとサタンが常に戦っています。 異端や他の宗教の建物には御使いはいません。 )

  日本のリバイバルに際しては、(普遍的教会として、)黙示録3章の「フィラデルフィア教会」、あるいは、悔い改めて聞き従うようになった「ラオデキヤ教会」あたりが目標となるでしょう。




   9. リバイバルと終末の備え:


   「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも はしためにも、わたしの霊を注ぐ。 すると彼らは預言する。」(使徒の働き2章17、18節、 ヨエル2章28−32)

   「主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と 後の雨とを 降らせてくださるからだ。」 (ヨエル2章23節)

   「西からは主の御名が、日の上る東からは、主の栄光が恐れられる。 主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。 しかしシオンには贖い主として来られる。 ヤコブの中の、そむきの罪を悔い改める者のところに来る。」 (イザヤ59章19、20節)

   「それゆえ、預言者ダニエルによって語られた、ぞっとする憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見た時には(読者よ、悟りなさい)、 そのとき、ユダヤにいる人々は山々へ逃げなさい。」 (マタイ24章15、16節)

   「それは、最後のラッパの響きと共に、まばたきの一瞬の間にです。 それは、ラッパが吹き鳴らされ、死人たちは朽ちない者によみがえらされ、そして私たちは変えられてしまうからです。」 (Tコリント15章52節)



  今の時代をよく認識する必要があります。 20世紀前半に二つの大きな戦争があり(マタイ24章6節の成就)、その後の1948年、それまで1900年もの間、世界中に散らされ、放浪の民(ディアスポラ)となってさまよっていたユダヤ人たちが、帰ってきてイスラエル国を建国しました。 完全に失われていた人々が国家を作り、”不死鳥の民”とも言われました。 このことは、エゼキエル書37章にあらかじめ預言されていたことが、成就したものです。 そしてこれは、世の終わりが近づいていることの重要なしるしとなっています。
  (今の世界的なコロナ禍も、「疫病」が流行ることもマタイ24章7節の一部として予告されています。)

  多くの預言書の預言によると、使徒の働きの時代よりももっと素晴らしい、全世界レベルの大リバイバルが終わりの時に起こる、ということが言われています。(=後の雨リバイバル) 後の雨(春の雨)とは、初めの雨(秋から冬の雨)の時に、使徒たちが種まきをして、冬の間に成長した穀物が、さらにしっかりと実を結ぶように、大いなる刈り入れの前あたりに降る雨の事です。
  予備的なリバイバルとしては、20世紀初頭の米国西海岸の「アズサ・リバイバル」が挙げられますが、このときは「いやし」と「異言」のリバイバルで、2年間続きました。 人々は、聖霊様が強く臨在するその祈りの家に入ったとたん、罪人が倒れて勝手に罪の悔い改めをして救われ、ガンが癒され、足の悪い人々が歩行用の松葉杖をたくさん残して帰っていきました。
  しかし今回は、預言をはじめとする御霊の賜物全般が用いられる、きわめてダイナミックなものとなることが予告されています。

  しかも、何と、(イスラエルを中心として、東のはずれにある、)この日本から、聖霊様の激しいわざが広がっていくことが、語られています。 神様は、語ったことを必ず成就する方なので、このことは必ず起こると確信しています。 キリシタンを迫害し、偶像だらけの仏教国で、今まで多くの宣教師たちが来て、信者が1%以下という、全く鳴かず飛ばずの、この「日本」から! 神がなされることは、まったく我々の思いをはるかに超えたことです。

  主のくびきは快適であり、聖霊様が強力に臨在され、次々と大いなる奇跡のわざを成され、多くの人々が救われます。 あまりの主の臨在のゆえに、伝道された人たちは、その場で速やかに信仰が成長して救われ、「『一人が種を蒔き、もう一人が刈リ取る。』」(ヨハネ4章37節)ということが成就します。

  聖書の原則から、最後のほうに最も良いものが残されているので、みことばの最終的なあかし、御力の最終的なあかしはもちろん、自然啓示からの最終的なあかしもついでになされる、素晴らしい大リバイバルになります。


  一方、リバイバルが終わると、次は終末の時です。 全世界に及ぶ試練(=惑わし)の時です。
  黙示録に書かれているいろいろな災害が起こり、ついに、反キリストと にせ預言者がエルサレムに現れ、世界中の人々を3年半の間支配し、キリスト者を大迫害します。
  そのため、この時に備え、町から逃れることが勧められています。(各自の逃れの場所は、それぞれ示されます) 備えをした群れの中にも、一部には殉教するよう定められた人々がいます。
  また終末の備えをしていなかった非常に多くのクリスチャンが殉教します。


  その恐るべき期間が終わると(「聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わった時、」(ダニエル12章7節))、主が再び雲に乗って来られます。(=再臨) その時生き残っている私たちは、空中に引き上げられ(空中携挙)、朽ちない体に変えられ、空中で主と会い、いつまでも主と共に過ごすことになります。 次に、千年王国をこの地で過ごし、そのあと永遠の天の御国に入ります。




    §  さらなる学びのために:


   ○ 福音の再確認について   ○ THE 信仰   ○ 病人をいやす秘訣(11章の一部)本の入手


      ○ TR (Textus Receptus) 日本語・新約聖書 付録付き

            (旧約聖書は、「新改訳聖書」が割合 正確です)




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