5. ユダヤ人物理学者の素顔    ・・・ アインシュタインの思索



  20世紀の物理学の世界は、ユダヤ人物理学者たちが大活躍(?)した時代と言っても過言ではない。しかも、彼らの多くは、量子力学にかかわっている。
  ボーア、デバイ、パウリ、シュレーディンガー、ノイマン、オッペンハイマー、ディラック、ファインマン、B.ジョセフソン、レオン・クーパー、そして、アインシュタイン。 ユダヤ人は、世界の人口の0.25%にすぎないにもかかわらず、20世紀のノーベル賞受賞者の約20%を占め、中でも物理学賞が多い。 しかし、彼らの業績の著しいインパクトのゆえに ほとんど伝説の人になっている場合が多いが、その割には 的が外れて、現在 それぞれに寂しい結果になっているように思われる。その理由は何であろうか?
  (その他、カントル、ヘルツ、フロイト、マルクス、レーニン、・・・)


  (1) アインシュタインの決定論的自然観:


  量子力学は、確率の導入によって、従来の”決定論的自然観”を根本的に否定した。 しかし、アインシュタインの自然観はどこまでも古典的であったので、初期には量子力学を構築する働きをしていたが、途中から生涯を通して 一貫して反対の立場をとり続けたのである。 それらの主な三つのポイントを挙げると、

  1) 自然がその根底において”確率的”に振舞うということは、彼の決定論的自然観と真っ向から反対するもの。(有名な言葉:”神はサイコロを振らない”)

  2) 1つの粒子の位置と運動量を同時に正確に測定することができないという”不確定性原理”のような不完全な原理は受け入れることができない。

  3) EPR問題において、物理的実在についての量子力学的記述は不完全であること。

  、である。

  1)については、自然の確率的振舞いの発見から100年以上経っているが、現在のところどんな理論も この”確率性”についてそれ以上の進展は無い。量子力学の予測は粒子の状態のあらゆる可能性についての確率分布までであって、個々の粒子の振舞いを予測するものではないからである。 ”神はサイコロを振らない”のは確かであるが、人間が思索で古典的に知ることができるのは、水面下の波動関数においてのみである。その確率密度のうち何が実現するかは、一つ一つのことについて、依然として 神の主権のもとにある。(ルカ12:6、7)
  自然の2つの基本的性質は、
   1.確率性、 2.波動性 であって、 この2つの性質は量子力学の初期から一貫して確認され続けてきた。
   したがって、自然の確率性は、認める・認めないにかかわらず、神が定めた本源的なものであると言える。
  ( → 6.信仰 )

  2)について、不確定性原理は、粒子と波動を結びつけるプランク定数 h と 虚数単位 i からなる 作用素(物理量)どおしの”交換関係”から導かれるように、波動という複素数の物理として交換関係が再定義される。 ( → 参考 3.) 不確定性関係から、零点振動やスピンのゆらぎが現れる。

  この不確定性関係は、h の無い古典物理であっても、波動であるなら通常現れる。(プランク定数 h は 粒子性と波動性を結びつける定数である。)
  共役な物理量の間の不確定性関係より、    これに  を代入して、
    は h を含まない 不確定性関係となり、音や電磁波などの同時測定の理論的な限界を与える。(低周波ほど、周波数の測定時間が必要となり、正確に測るためには無限の時間(定常波)が必要である。サイクル・カウンターの原理。光学顕微鏡の分解能。凾ヘ標準偏差を表す。)
  光は、光子の静止質量が 0 であるため 波動方程式に h は含まれないので、光は古典的な波として振舞い、初めからコヒーレント状態である。
  1)、2)については、人が知ることの限界について語っている。これについて反対するならば、それは”知的傲慢”である。この点で、不確定性原理を述べた、いわゆる異邦人(非ユダヤ人)であったハイゼンベルクの方が、事実を認めて、知的にへりくだっていたと言える。

  3)については、本文 3. 4.ですでに述べたように、空間的に離れている2つの物体が存在するとき、これらは相互に分離されうる”実在”の部分であるという 暗黙の了解があった。このような 実在論+隠れた変数の考えは、ボーム、ジョセフソンら実在論者が支持した。 ベルの定理の破綻、町田・並木理論の統計作用素による記述、および、20世紀末に行われた分離不可能性の実験結果より、まさにこの点が打ち破られたのである。
   ディラックの考案した状態ベクトルは、斬新な考えであったが、複数の状態が混在する”混合状態”を記述することはできなかった。EPR問題を提起したアインシュタインの言葉は、いつも慎重に”記述”の不完全性についてであった。
  また、ボーアは、独自の哲学、すなわち、いわゆる”コペンハーゲン解釈”を掲げて、このアインシュタインの挑戦を突っぱねた。しかし、この解釈は その後、物理を知らない一般の人々によって、かなり”東洋哲学的”に曲解され、F・カプラによってニューエイジの理論的土台とされた。 また、数学者のフォン・ノイマンは、波束の収縮にかかわって、”意識”を持った主観が関与すると、ミクロの対象に予測不可能で非因果律的な変化を引き起こすとまで主張したのである。意識と物質の相互作用については、一時期まじめに研究され、そして多くの否定的実験結果が報告されている。(***) (ちなみに、ブライアン・ジョセフソンも晩年、このような精神世界に没頭した。)
  これらは、ユダヤの祭司長スケワの7人の息子たちが魔術師に成り下がっていたことを思わせる。(使19:14)

  アインシュタインの相対性理論についても、特殊相対論(速度の相対性)までは良いが、一般相対論では、加速度の相対性は無いと考えるべきで(マッハの原理)、単に”重力理論”と呼んだ方が正しいと思われる。相対性理論も、光速 c が不変であることを除けば、ある意味では実在論的な古典物理である。
  これには、ユダヤ教的な旧約聖書の思想が反映されていると考えられる。 アインシュタインはボーアとの論争で何度もを引き合いに出している。 光速が不変で、時間や長さのほうがローレンツ短縮することは、優先順位として 「光が先に創造され、それから空間が創られたこと」 とよく合っている。(創1:3、:5、:6) しかし、それ以前の段階で、「神の霊が大いなる水の上を舞いかけていたこと」 を忘れてはならない。超光速の遠隔作用が光速を上回る摂理は さらに根源的なものであると思われる。(創1:2)
  ( → 相対性理論の概略 )


  (2) シュレディンガーの古典的な考え:


  シュレディンガーは、彼自身が導入した波動関数 ψ が物質波そのものを表し、物質は密度 ψ*ψ で空間に連続的に分布していると素朴なイメージで考えていた。しかし これは物質の示す粒子性と両立しない。

  後の、中性子干渉計の実験 (*)では、粒子性と波動性が共存することが 直接的に証明された。中性子は重力のもとで放物線軌道を描いて自由落下する。(1951) これは素粒子が古典力学の法則に従って運動している例で、量子論特有のプランク定数は出てこない。この現象は、”物理量の期待値が古典力学の運動方程式に従う”という エーレンフェストの定理によって説明される。

  また逆に、シュレディンガーの物理的実在性の考えが そのまま当てはまる実例も存在し、超流動や超伝導などの、物質のマクロなコヒーレント状態がそれである。 同種のボソン(スピン=整数 の粒子)がみな同じ波動関数 ψ で表される状態にある場合、すなわち、ボース・アインシュタイン統計に従って 同一の状態をマクロな数のボース粒子が占拠することができ(液体ヘリウム4、3、; 超伝導の場合は 電子がクーパー・ペアの整数の状態になりこの統計を満たす )、その合成波動関数である”マクロ波動関数”Ψは、抽象的な確率の流れではなく、マクロな粒子流密度を与える。これは局所的な回転が許されないので、流体は粘性を示さない。(超流動性)(**)
  シュレディンガーの猫、すなわち、”猫の生きている状態と 死んでいる状態とが同時に存在するように、マクロに見て 異なる2つの状態の重ね合せは可能か?”の答えは、マクロのコヒーレントの状態のとき それはそのまま 可能であると言える。(ジョセフソン接合を挟んだ超伝導リングがつくる磁束の変動の観測を行うと証明できる。(**))


  (3) ユダヤ人物理学者の位置付け:


  ユダヤ人物理学者は、きわめて斬新な、時には極端なアイディアを大胆に述べ 世界中に影響を与えたが、その根底の考え方は 非常に実在的、決定論的で、現実的なものにしか目が行かない傾向、あるいは逆に、その反動で極端にはずれたことを大胆に述べるという、どちらかの傾向にあると思われる。(いずれも、”不信仰”の覆いがかかっている。)
  また、主張や問題提起は、それらに反する結果が正しい、という 宿命的な必要悪の位置付け(ベニスの商人の悪役ユダヤ人のシャイロックを思わせる。)でもあり、このような意味で、かえって真実が探求されるようになり 自然の探求に間接的に貢献したとも言える。(”のろい”のもとにある。)

  ・ ボーア、ノイマン、ジョセフソン: コペンハーゲン解釈 → 意識論解釈 → 東洋哲学・ニューエイジ ×
  (・ ジョセフソン: 物理的心霊現象は無い → 心霊現象は無い × ⇒ 神の奇跡の存在 
  ・ アインシュタイン、シュレデインガー: 実在論・決定論 × ⇒ 量子力学が正しい ○
  ・ アインシュタイン: 一般相対論 → 宇宙論 → 奇怪な解・異様な解釈  ⇒ 時間・空間の扱いの見直しへ
  ・ ディラック: 状態ベクトル → 記述の不完全性 △ ⇒ 統計作用素による混合状態の記述 ○
  ・ ファインマン、アインシュタイン: 時間の逆行 → 虚時間の導入 → タイムマシンの理論・多世界解釈・双子宇宙論 × ⇒ 時間・空間の扱いの見直しへ
  ・ オッペンハイマー: 原子爆弾の研究 → 広島・長崎原爆投下  ⇒ ?


  物理学者にユダヤ人が多いということは、彼らの思考が緻密で、非常に具体的・現実的な思索の持ち主であり、同時に、自説を曲げないかたくなさがあるためと考えられる。聖書には、「うなじのこわい民(首を縦に振らないがんこな民)」(出エジ32:9)とある。 信仰の父アブラハムの時代と違って、モーセの時代に非常に具体的な”律法”が明文化されて神から与えられた理由は、イスラエルの民が 「あまりにもかたくなだった」からである。すなわち、神は罪を嫌うから、それ以上民に罪を犯させて 民を滅ぼしてしまわないために律法を与えたのである(「目には目を」など)が、これだけでは、アダムとエバ、アブラハムのような、本来の 神との正しい関係ではない。アダムとエバは自発的に主を礼拝(夕拝)していた。これは、人間としての最もあるべき本来の姿である。 しかし、律法を”行う”ことによっては、誰一人 神の前に”(正しい)”と認められないのである。

  そのようにして、物理学者以外も含めてユダヤ人はの多くは、ある意味では文化や経済の発展に大いに寄与し、世界の繁栄を導いてきた側面もあるが、神に喜ばれない不信仰の民、”福音の敵”としての役割(by. リック・ジョイナー)を果たすように用いられてきた。
  ただし、1948年にイスラエル共和国が再建されてからは、(時が近くなったので、聖書の預言の通り) のろいはかなり緩和されてきている。


    *  中性子干渉計の実験:  **  超流動・超伝導: 
    ***  意識論解釈:    


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