聖徳太子の謎
                                                2015 2月28日


  大化の改新を行ったとされる聖徳太子(AD574?〜622?)は、推古天皇(在位592〜628)の摂政だった厩戸皇子(うまやどのおうじ)または厩戸王の後世の呼称であり、後に仏教によって捏造された架空の人物といわれている。厩戸皇子は、用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女であり、敏達天皇、推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行ったとされる。ただし、蘇我氏もペルシャ系の渡来人であったことから、”仏教派の蘇我氏によって聖徳太子一族は滅亡させられた”というのは、後世の作り話である可能性が高い。
  このように、厩戸皇子は、ペルシャ系の景教徒(ネストリウス派のキリスト信者)ではなかったかと考えられる。




  1. 仏教徒による文献捏造の証拠:

  ・ 聖徳太子伝暦(917年)によると、墓に2つの棺を指示したとある。(下巻22コマ左・ ”太子命・・・・墓内設二床”) 一方、叡福寺(大阪市・太子町)の太子の墓とされる場所には3つの棺がある。
  ・ 天王寺事(太子が建立したとされる四天王寺の記録)によると、”聖徳太子の墓を捜しているが、どこにあるのか分からない”とある。

  720年に編纂された 日本書紀にのみ、604年に聖徳太子が 十七条憲法を制定とあるが、他の文献にはない。
  ・ 636年の 隋書・和国伝(=隋書・列伝第四十六 東夷 高麗・百済・新羅・琉求・倭国 ・・・ 唯一の 日本の飛鳥時代を記述する歴史書)には、冠位十二階は書かれてあるが、十七条憲法の記述は無い。 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國の2ブロック目に、内官有十二等 があるのみ。内官に十二等有り。一に曰く大コ、次を小コ、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信。員に定數無し。

  ・ 日本書紀にある 十二条目の”国司・国造”の 国司(こくし、コトモチ)という官職は、聖徳太子の時代には無く、701年の 大宝律令から始まる官職であり、この大宝律令を元にして 十七条憲法を作ったと考えられる。(by. 大山誠一氏、中部大・人文)

  ・ 聖徳太子の絵による風貌・容姿・服装は、敦煌の壁画に描かれている 唐代の宮廷の中国人によく似ていて、想像上の人物であることを表す。(図↓)

  したがって、聖徳太子は、日本書紀を編纂した 藤原不比等によって、600年代に実在した 厩戸皇子に 伝説や業績を付け加えて、700年代に捏造されたフィクションである可能性が高い。聖徳太子のようなカリスマをでっち上げることで、律令国家体制を権威付ける必要があった。 そのため、仏教思想で国をまとめるために、”篤く 三宝(仏教の)を敬え”と いかにも太子が言ったように書かれている。(多くの仏像や、後の奈良の大仏(752)も、民衆を精神的に支配する道具として建立された)
  日本書紀は、天皇在位年代など、他の文献と比べてもかなりずれている。(天皇在位年代表) 藤原不比等(659〜720)は 中臣鎌足の次男であるが、邪悪なテロ手法で日本を乗っ取ったとされる評判の悪い人物で、後に摂関政治で発展する藤原氏一族の都合の良いように、聖徳太子が行ったとされる”大化の改新”というものを捏造して 日本書紀に書いたと考えられる。
  また、古事記を最初に編纂した柿本人麻呂は、日本書紀の完成と共に 何らかの策略により、石見国に流され 後に処刑されたという。

  藤原氏は、皇室と その流れを汲む源氏・平氏とは別の、もう一つの大きな流れとなっていった。 藤原氏は百済系の渡来人であり、百済王子の豊璋という説もある。
  平安貴族は”下膨れ”の顔が美形とされ、これは 中国北部に多い黄河系漢族(Y染色体DNAハプロタイプの O3系統)に共通するものがある。(坂上田村麻呂、劉邦 O3a1c、高麗王・王建 O3a2b1。 O3は 武官、策士、実業家に多い。 藤原氏: O3系の 鮮卑・百済民族。参考


  



  2. 厩戸皇子、蘇我氏は渡来人:

  蘇我氏(日本書紀、先代旧事本紀には”宗我”)が 新羅からの渡来系一族(秦人)であることは良く知られている。稲目、馬子のいた欽明天皇の時代、秦人3−4万人が渡来(記録では最大)。
  蘇我馬子は 聖徳太子こと厩戸皇子と協力して、飛鳥京の建築物を作ったとされる。蘇我氏は 三代(馬子、蝦夷、入鹿)にわたって権力の欲するままに横暴を働き、熱烈な仏教徒(これも後の時代の創作)とされ、ライバルの”神道派”の物部氏一族を抹殺したとされているが、これらもすべて藤原氏による歴史改ざんである。

  この蘇我氏の墓から ローマガラスの器やトンボ玉が出土、また、2005年11月、蘇我入鹿の邸宅跡らしい遺跡が発見され(奈良県明日香村・甘樫丘東麓遺跡)、石垣の地下に排水用の暗渠(あんきょ)が作られていて、この文化は、まさにペルシャ、ローマと同じであることが確認された。
  ローマガラスは640年頃まで地中海沿岸のナトロン(天然炭酸ソーダ)を原料としているので、ガラスフリットはローマで作られていたことが分析でわかる。ガラスの製品はそれを元に各地で。


  新羅のあった韓国の慶州(キョンジュ)には古墳群があり、20万点もの遺物が出土している。それは、 1.ローマガラスの器や皿(トンボ玉含む)、ローマ製の金の製品、 2.墓の形式、 3.星観測用の天文台、また 4.百済や高句麗とは言葉が通じず(”無文字”=漢字が無いの意味梁書新羅伝)、これらの文化が他とは異質で異なる、などの特徴があり、シルクロードを通してローマやペルシャ方面からの文化や人種5〜6世紀の新羅に限定的にとどまっていたことを表している。

  それ以前の、BC2末〜AD4中 三韓時代の 辰韓秦韓、半島の南東部、新羅の所)は、馬韓(後の百済)が土地を割譲した場所であり、苦役を嫌った秦の遺民が住み着いていた。(後漢書・東夷伝・三韓 ・・・ 『辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之』。ただし、同じこの後漢書の西域列伝・大秦国は ローマ(安敦=マルクス・アウレリウス・アントニヌス)を表す。秦の始皇帝も目が青かったが、この秦ではない?。)

  その後、代表的な秦人である 中央アジアの弓月君(クンユエ、ゆずきのきみ、 by.日本書紀・応神紀(応神14〜16年)、 京・畿内の名鑑:『新撰姓氏録・諸蕃』(815)では”弓月王”および”融通王”と記され(具体的な名前は 功満王、功智王など)、「漢」国の秦の始皇帝の子孫の扱い ・・・ ただし、始皇帝の三代目の孫の孝武王 と自称しているので、時代はおかしい)は、応神16年(≒377年)に 新羅を牽制しつつ 百済経由で 120−127県(あがた)(数千人−1万人規模)が大和に入り、養蚕・絹織物・金属精錬・土木・建築などに従事し、その絹織物が柔らかく暖かいことから、天皇から”波多”の姓を賜った。

   → 弓月、辰韓: 資治通鑑、新唐書、後漢書 の資料

  また、5世紀後半の雄略(478−489)の時は、1万8千人の秦人が入り ”太秦(うつまさ、禹都萬佐(=都を治水し、万(よろず)のことを助ける))”の姓を賜った。
  稲目、馬子のいた欽明(539−571)の時代、秦人3−4万人が渡来(記録では最大)。

  三韓(新羅、百済、高句麗)は 中国国内で戦いに敗れた国の逃れの場所だったので、新羅には、ヨーロッパ〜中央アジアの血が濃い国の王族たちが集まったと思われる。対馬の国司は 逃れた王族だけをフリーパスで日本に通していた。彼らは、1〜2世紀頃の フェニキア・エドムの航海技術をその時代まで受け継いでいた、琉球国の海人(ウミンチュ)による船舶輸送を、日本や中国へ行き来するために活用していたと考えられる。勾玉などの原料となる 安曇野(糸魚川)のヒスイは、(蛍光X線分析により、)生産地が唯一ここだけであり、新羅や琉球へ同じ成分のものが伝わっている。 これは散らされた北海道縄文人(mt−DNAが N9b の 海の民)や、弥生時代後期の北九州の海人(かいじん)族、阿曇氏(あずみうじ)一族によって流通していたのであり、さらに後の時代ではこの阿曇氏を滅ぼした大和朝廷を避けて、船で行き来していたことが証明される。 (朝鮮半島 ⇔ 糸魚川 ⇔ 安曇野 ⇔ 武蔵国)

  最近遺跡が発見された、利根川水系の武蔵国を本拠地とし、軍馬を多く用いた ”関東王国”(AD500年代頃、関東王国関東王国2)も、大和を避けて、船で中国北斉ほくせい、550年 - 577年騎馬民、北斉と同じ水瓶が出土、また隣の朝鮮半島・ペルシャと通じていたはずである。秦氏系の渡来人である羊太夫の国であり、JNRIの銅板が江戸時代に発掘されている。(関東王国には古墳(埼玉古墳群、他)が大和王朝よりも多く、非常に多くの埴輪、装飾用の馬具などが出土(騎馬民族)、旧唐書(くとうじょ、945)・列伝第一百四十九上 東夷(日本)には、倭国と日本国とを分け、日の出るところに近いので”日本”と呼んだこと、が書いてある。大和王朝とは別の、それよりも大きな国だったということ。 王の墓は高麗尺で測定された(高句麗の技術)、三種の神器(剣(ペルシャ製)、勾玉、鏡)もあった。大王の館には、政治・宗教・経済の機能が集まり、利根水系の水運が直通していた。)



  その後、伊奈利神社(東方キリスト教会)がたくさん作られた武蔵国(元 関東王国、日本国)は、いわゆる「INRIリバイバル」(*)が起こり、大いなるしるしと不思議が起こったことが 日本文徳(もんとく)天皇實録(巻一嘉祥(かしょう)三年(850年)5月19日)に記されている。( ・・・ 「奈良神」 で検索)

  『以武藏國奈良神列於官社。先是。彼國奏請。検古記。慶雲二年、此神放光如火熾。然其後。陸奧夷虜反亂。國發控弦。赴救陸奧。軍士載此神靈。奉以撃之。所向 無前。老弱在行。免於死傷。和銅四年神社之中。忽有湧泉。自然奔出。漑田六百餘町。P8018民有疫癘。祷而癒。人命所繋不可不崇。從之。』

   ・・・・・ 武蔵国の奈良神(ならのかみ)を以て官社(かんしゃ)に列す。是(こ)の先、彼(か)の国奏(もう)して請(ねが)えり、 「古記を検するに、慶雲(きょううん)二年(文武(むんむ)天皇・705年)此(こ)の神 光を放つこと火熾(かし)の如し。然(しか)して其の後、陸奥の夷虜(えみし)反乱せり。国 控弦(こうげん)を発し、陸奥に赴(おもむ)き救う。軍士此の神の霊(みたま)を載(たい)し、奉じて以(もち)て之を撃つ。向かう所に前無く、老若行に在りて、死傷を免れる。 和銅四年(元明天皇・711年)神社の中に、忽(たちま)ち湧泉有りて、自然に奔出し、田 六百余町を漑(うるお)す。 民に疫癘(えきれい)有れば、祷(いの)りて癒(い)ゆ。人命を繋ぐ所 崇(あが)めざるべからず」 と。 之に従う。

   ・・・・・ 武藏國奈良神(ならのかみ)の古記 = 武蔵国の伊奈利(いなり**)神の記録、  @ 慶雲2年(705) この神から火のごとく光を放つ、 A その後 陸奥国の蝦夷の反乱に際し 神霊によってこれを討ち平定、行った者すべて 誰も死傷者はいなかった、 B 和銅4年(711) 神社の中に湧水、600町(1町=約110m四方)以上の田を潤す、 C 民に疫病が流行したが、祈祷によって皆 癒された。 人命を繁栄させる所であり、崇められるべき神である。


  INRI が伝わったのは、対馬・壱岐の国司 → 大宰府 経由で、王族クラスのみ(+ 王族につく職人など、この中にユダヤ人もいたと思われる)が通ることを許された。 最初の伊奈利は、535年糸賀伊奈利(和歌山県・有田市)で、当時の安閑天皇陵からはペルシャのギランと同じ質のカットグラスの断片が出て、この地域は”王子信仰”が盛ん。

  この文徳天皇実録の奈良神の記述と 時を同じくして、和同開珎(708)は 武蔵国在住の渡来人・秦氏の羊太夫によって作られた。 『羊』の名は多胡碑(郡司の任命の碑 ・・・ ”和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした”)にあり、養蚕なども伝え、人々に尊敬されたという。 多胡とは胡人(渡来人)が多い という意味。
  そして、多胡碑の台座の下から十字架が、羊太夫の墓の石室から INRIの銅板(古銅券)が出たとされる。(『甲子夜話5』六十三巻(21)  ・・・ 〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より〔墓中とは碑下を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕十字架を出だす。是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと〔この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり〕。 ・・・・ ) しかし、藤原政権によって任命されたにもかかわらず、後に一族は彼らによって抹殺されたという。
  この 羊太夫のような 東方キリスト教徒の渡来人たちを通して、は、この地に 大リバイバルを起こされたと考えられる。

  * INRI あるいは JNRI とは、十字架の上に掲げられた罪状書きの文: Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum 「ユダヤの王、ナザレのイエス」 という意味で、東方キリスト教会が用いた イエス様の称号。 (cf. キリシタン(ローマカトリック)では、 IHS(人類の救世主イエス)、IHC(人類の救世主キリスト)などを使用し、INRI、JNRIはほとんど用いない。 また、景教は ネストリウス派が中国に入ってからの名前で、景教の形で キリスト教が日本に入ってきたのは さらに後の時代。 5.↓)
  ** 伊奈利は、単に INRIに対する万葉仮名の当て字であるのみならず、(人偏に尹(神の杖)で、聖職者、治める者)で、天地の間に立って調和させる方 = イエス・キリスト) + (示: 高杯(丁)の上に物(一)を乗せて示す、 不:高杯の上に物があらず、 奈: 木を高杯に乗せて示す = 十字架の示し

   (* ・・・・ このINRIリバイバルの件は別途報告します)






  3. 厩戸皇子はペルシャ系:   (ユーチューブ

  聖徳太子こと厩戸皇子は、英才教育を幼少の頃から受け、その後は飛鳥京の北の斑鳩宮(法隆寺)に住居を構え、”太子道”といわれる 北北西に20度傾いた直線道を、仕事をする 飛鳥京(飛鳥寺のあるあたり)へ 愛馬”黒駒号”で毎日通っていたといわれている。

  ・ 法隆寺は、以前の通説では601年に聖徳太子によって建立されたとされていたが、最近の研究では、7世紀初めに建てられたものが一度焼失し、7世紀の終わりから8世紀初めにかけて 再建されたことになった。それは、1.中の仏像(薬師如来)は 技術的に607年には存在せず、7世紀の終わり頃に作られたというのが妥当、2.使われている木の年輪の調査により、650-690年に伐採され、その後に再建されたということが明らかになっている。(by.wiki 法隆寺)
  したがって、まず、聖徳太子こと厩戸皇子も、蘇我氏同様、仏教徒である必要性が無いのである。 それに加えて、

  ・ 聖徳太子が建てたといわれる四天王寺にある ”七星剣”には、明確に北斗七星が描かれている。 これは、北の方角を知るための シルクロードを通行する民に特徴的な 必須の知識である。

  ・ 日本書紀には、飛鳥寺を作った職人たちの名前が書かれているが、意味不明な当て字で書かれている。 大外大名誉教授の井本英一氏によると、これらはすべてペルシャ語で、 寺工太良未太(じこうたらみた)は Tala Mita ・・・ 寺の匠・総監督、 白昧淳(パイマーン デゥーン)は Payman-dun ・・・ 物差し入れ、 麻奈文奴(まなもんぬ、マーナー ミンナン)は Marnar・・・大理石、Minag・・・上薬、 というような具合である。( → 日本書紀・巻第二十一 用命天皇〜崇峻天皇: 元年春三月、立大伴糠手連女小手子、爲妃、是生蜂子皇子與錦代皇女。是?、百濟國遣使?僧惠總・令斤・惠寔等、獻佛舍利。百濟國遣恩率首信・コ率蓋文・那率ux味身等、進調、?獻佛舍利・僧聆照律師・令威・惠衆・惠宿・道嚴・令開等・寺工太良未太・文賈古子・鑪盤博士將コ白昧淳・瓦博士麻奈文奴・陽貴文・?貴文・昔麻帝彌・畫工白加。)

  ・ 飛鳥京の水落遺跡には、噴水用の穴があけられた石と、その土台の地下に総延長21.2mもの銅管が埋まっていた形跡があり、一部はラッパ状の小さな管が水を貯める木箱に残っていて、ペルシャやローマの庭園と同じような、水をモチーフとした特徴的な作りとなっている。

  ・ 北北西に20度傾いている”太子道”(奈良県三宅町近辺にまだ残っている)は、冬至の12月21日の23:33に、ちょうど一直線上に シリウスがあることになる。ペルセポリス(BC330廃墟、by.ギリシャのアレクサンドロス)の建造物も、同様にすべて北北西に20度傾いている。
  * 因みに、ペルシャ(イラン)にイスラム教が入ったのは AD640年にアラビア人が来たのが最初であり、6世紀の頃は まだ ネストリウス派のキリスト教、および、(伝統的に昔から残っていた)”シリウス信仰”だったはずである。 BC4年、イエス様のご降誕の時、東方の国(ペルシア)で星に導かれた博士たちが、黄金・乳香・没薬を携えて来て、御子を礼拝した。(マタイ2:1−12) (当時の占星術で、土星:パレスチナ、うお座:世の終わり、木星:王・救い、という説があるが、ここでは超自然的に星が移動して導いたと考えられる。)

  ・ 聖徳太子に仕えた 秦河勝(はたのかわかつ)の面が、1300年前から兵庫県赤穂市にある大避(おおさけ)神社(中国語で”大闢、大辟”は”ダビデ”の意)に安置されている。その顔立ちは、鼻が高く、彫が深い、西洋人顔(ユダヤ人顔)である。(→ (3)シルクロードからのユダヤ人の移民 ) この頃伝わった文化は、日本の最も古い伝統文化(養蚕、機織、冶金・製鉄、貨幣(和同開珎)、清酒、雅楽、禊 など)となり、ユダヤを起源とするものが多い。

  したがって、厩戸皇子は、ペルシャ系 (あるいは ユダヤ系)だった可能性が強い。



  ・ 太子のいとこの 蜂子王子は、彫が深く、1.の中国人顔(黄河系漢族)とは程遠い。 彫が深く、鼻が高い ペルシャ、ユダヤ系を思わせる各種の面がいくつも存在する。
  また、聖徳太子の母親の 穴穂部間人(あなほべのはしひと)は、『はしひと』=漢字で波斯人(はしひと、波斯はペルシャの意)=Parsi の人(パルシーグ)=ペルシャ人 と解釈される。(by.井本英一名誉教授(大阪外国語大学))

 

  (追記) ・ 最近の mt−DNA(ミトコンドリアDNA)の調査でも、初期・中期の半島からの渡来人は ”臨シ人”(春秋時代の斉の首府、山東半島の北部付け根の遺跡の墓から出土・2500年前)である。 彼らは N9a系統で、これはヨーロッパ人とトルコ人の中間くらいの人種であり、九州弥生人:8%、現在も 山東: 3−4%、 韓国: 3−4%、 日本人: 4.6%(ただし 関東縄文人、アイヌ、沖縄、また台湾、広東には N9aはいない)のように分布しているので、明らかに朝鮮半島からの渡来人である。 彼らが、ペルシャ人、ユダヤ人、(あるいは 東ローマ人)だった可能性が高い。(単なる、東欧や中央アジアや 北方ヨーロッパ系ではない) 北からの N9b系統が入ったさらに昔の時代と合わせて考えて、N9aは「マナセ族」、N9bは「エフライム族」である可能性がある。(N9a ≒ N9b、兄弟関係ほどに近い)  一方、後の 欽明の時、3−4万人の渡来人のうち、藤原氏の家系がそうであるように、百済からの O3系統((→ 2015 11改定 O2)黄河系漢族、鮮卑)も大勢入ってきた。 因みに、弥生人の O2b系(→ 2015 11改定 O1b)は 長江中流域の呉系(稲作)。
      → 古代日本のDNAと その性格(2) の(4)


  * 2017 2/22 追加:

  秦の始皇帝のY染色体DNAが O2a2b1a1a(旧 O3、子孫からの推定) であり、 秦河勝も同じO2a2b1a1a であることから、 秦河勝は 秦の始皇帝の子孫である可能性が強い事が証明されています。(ちなみに徐福も同じ O2a2b1a1a(徐州の子孫の推定))。 秦の始皇帝は、体格ががっしりして、目の色が青かったので、形質がよく現れる母系遺伝(mt−DNA)は ヨーロッパ系に近い人種だったと思われます。 BC762頃に甘粛省の犬丘に初めて秦が国となり、この甘粛省は現在でも J系統(中東系、10%)のDNAがある地域。
  始皇帝陵の兵馬俑の労務者墓から出た50体の遺骨からは、型(mt−DNA)、すなわち、ユーラシア西部のパルシール人、ペルシャ人、クルド人のDNAが検出されました。(2006年・中国通信社、 N→R→T。 ユダヤ系のN1(= I ) や 日本のN9b、臨シ人のN9a とは分岐が異なる。 Tは、 HVなどのヨーロッパ人により近い。)

  また、殷は、Q1a2(帝辛の子孫) であり、 夏・匈奴(Q*、Q1a、Q1b1)や 周の貴族(Q1a1 (一般民はO2a、O3など))、南北アメリカの原住民(Q1a2a)と同じであり、 発祥は アフガニスタンのパシュトゥン人(Q*(祖型) 16%、 Q全体で18.4%)。
  一方、同じ 旧 O3であっても、 坂上田村麻呂 O2a1c であり、 前の皇帝となった 劉邦 と同じであり、日本書紀・応神20年9月にある 坂上田村麻呂が後漢の霊帝の子孫である記事と一致します。

  藤原氏は、その直系の藤原清衡のミイラから O1b2a1a1であり、 O1b2(旧 O2b)の系統で、 多くの弥生人、 現在の韓国、中国東北、日本人 に分布する典型的なタイプです。 古い新羅人の有名人もこのタイプであり、比較的新しい時代に来た弥生人は、長江中流域から 山東半島、朝鮮半島を経由して 日本に来たことになります。(稲作や縄文人と共にいた関東の古い弥生人などは、一部が陸続きだった 南からの別ルート。)





  4. 厩戸皇子はネストリウス派キリスト信者:

  まず、厩戸豊聡耳皇子(うまやどの とよとみみのおうじ)という名前から、厩戸(馬小屋)とは、キリストの降誕の場所と同じ(ルカ2:6、7)であり、十人の訴えを同時に聞き分けた、前もって予告・予知した、などの超自然的な聖霊の賜物(Tコリント12:7−11)によっても、実に、ネストリウス派のキリスト信者ではなかったかと考えられる。本当に救われて、聖霊を受けているならば、何らかの超自然的な聖霊の働きがあかしされるはずである。

   日本書紀・第22巻・推古天皇: 『及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然』  ・・・・ 壮に及りて、一に十人の訴を聞きて 失たず能く弁へたまひ、兼ねて未然のことを知りたまひき。

    「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊(みたま)の賜物の現れが与えられているのです。 ある人には 御霊によって 知恵のことばが与えられ、ほかの人には 同じ御霊にかなう 知識のことばが与えられ、 またある人には同じ御霊による 信仰が与えられ、 ある人には同一の御霊によって いやしの賜物が与えられ、 ある人には 奇跡を行う力、ある人には 預言、 ある人には 霊を見分ける力、ある人には異言(いげん)、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」 (Tコリント12:7−10、 9つの御霊の賜物)

   ここで、 一に十人の訴を聞きて 失たず能く弁へたまひ = 「知恵のことば」の賜物
         
兼て未然(ゆくさきのこと)を知る = 「預言」(予告・予知を含む)の賜物



  ネストリウス派が、431年ローマを追放されて後、東ローマ(ビザンチン)が分立。 その後、6世紀にはペルシャ(ササン朝 226-651)は、ネストリウス派の本拠地となっている。(661からウマイヤ朝・イスラム化の開始) そのため、厩戸皇子がペルシャ人(あるいは東ローマの人)だとすると、ネストリウス派のキリスト信者であった可能性が高いことになる。

  cf.  ネストリウス派が「景教」として中国に入ったのはもう少し後の635年。
  (↓下図は7世紀後半 ・・・ 新羅356- 935、唐618- 907、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)395-1453。 聖徳太子(AD574?〜622?)、推古天皇(在位592〜628)の後に、 景教は 635年に初めて唐の長安へ。景教碑 781年に建てられた。)

  (* 秦は、BC3世紀の始皇帝の秦(首都:咸陽)ではない。兵馬俑(よう)は皆 東を向いている。始皇帝も目の色が青かったという。(* 昔ほど西洋人のDNA→ (参考) (4) アジアとヨーロッパの共通祖先: (りんし、春秋時代の斉(BC1046-BC386)の首都、山東半島の北一帯)の遺跡の2500年前(ヨーロッパ人種)、2000年前(中央アジアに近くなる) by.人骨資料のミトコンドリアDNA) 秦人とは外国人の意味。西安にはピラミッド西安のピラミッドが100基ある。(下の右図は 前漢の皇帝・劉邦と呂后の子の墓地:漢安陵、ペルシャと同様20度傾き、 また 空港の西のほうには前漢の武帝の茂陵もある。 前漢の終わり頃のDNAは中央アジア程度 ・・・ 星信仰。  始皇帝の墓は、エジプト・ギザと同様 南北なので太陽信仰系。 cf.ユダヤ人の集積地は 開封(後の宋の時代に栄えた)で、もっと海側の河南省・黄河の南側


 

   太子予言(預言)の可能性:

  * 厩戸皇子が聖霊様に満たされたクリスチャンであったならば、いわゆる『太子予言』といわれるものの信憑性が高まってくる。(=聖霊の賜物の「預言」の可能性?): 「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかつてない壮麗な都になり戦乱を十回浴びても、それを越えて栄え、千年の間都として栄える。しかし一千年の時が満ちれば、黒龍(黒船)が来るため、都は東に移される」 ・・・ 平安京と、明治維新で成就!
  「それから二百年過ぎた頃、クハンダが来るため、その東の都は親と七人の子供のように分かれるだろう……」 ・・・ 「クハンダ」とは仏教用語で「末世に現れる悪鬼」のこと、東の都は 東京。 これが何を意味するかは不明 → 聖徳太子が残した人類滅亡の予言
詳細の預言

  ** 聖徳太子秘文「未来記開封」 (飛鳥昭雄・三上智著)より  聖徳太子の謎探訪   ・・・・ 飛鳥昭雄氏は モルモン教徒、しかし 霊的見分けでは○、 み言葉に接していて 救われているか?
  
  「当人王九十五代 天下一乱 而主不安 此時東魚来呑飲四海 日没西天 三百七十余箇日 西鳥来食東魚 其後海内帰一 三年如狗猿者掠天下三十余年 大凶変帰一元云々」 (太平記 巻の第6)
   解釈:  第九十五代後醍醐天皇のころ、「元弘の変」(1331年)などもあり国家は乱れてきて、天皇も衆生もおちおちしていられない。このとき日本は東の魚(鎌倉 幕府)が支配している。後醍醐天皇は北条政権によって一年以上島流しになる。しかし、鎌倉幕府の支配に対して、西の後醍醐天皇に結集する勢力が盛り返し て、1333年鎌倉幕府を打ち破る。
しかし、足利尊氏の推す京都の北朝と、後醍醐天皇の吉野朝・南朝とに分裂する。その三年後に後醍醐天皇は亡くなるが、三十年以上にわたって皇位継承は乱れに乱れ海のものとも山のものとも分らなくなる。
1368年になって、足利義満が第三代将軍となり、吉野の南朝は京都の北朝に吸収されて30年ぶりに一つになる。


   「父祖先逆積於天際 子孫今逆致呼家亡 青魚躍呑四海 赤鳥因没六浪 光沈北水三十旬日 封南木、六十日 山鷲舎馳野鳥 野鳥飛舎呑東魚」(未然記第八百歳)
   解釈:  後醍醐天皇の時代になると、日本を支配してきた鎌倉幕府の逆らう政冶は、積もりに積もって、子孫の存続をも脅かす国家存亡の危機、「元弘の乱」を招く。後 醍醐天皇は六波羅探題によって捕らえられ隠岐の島に一年以上島流しになる。楠正成が鎌倉幕府軍が動けない様に六十日間引き付けて戦う。足利尊氏の軍が馳せ 参じて戦い、新田義貞軍が小田原城に攻め込み、鎌倉幕府は崩壊する。(未然記1245年から1345年までの100年記)





  5. 景教の日本への流入:

  景教(ネストリウス派の中国での呼び方、”光の信仰”の意味)が阿羅本(アラボン)という人物が率いるネストリウス派宣教団によって初めて中国・長安(唐の首都 =今の 西安、昔の咸陽)に伝わったのが635年、皇帝に接見。 それが唐の初・中期の王の庇護の下に約150年もの間盛んになり、”大秦景教流行中国碑”(1623年?長安で発見)が建てられたのが唐代の781年。 当時、教会を”大秦寺(ユダヤ寺)”と呼んだ。(* 大秦 = 景教の碑文より 「ユダヤ」のこと)

  当時の中国では、北方系の支配者による宗教の寛容のため、景教、仏教、などが共存し競っていた。(唐の 三夷教 ・・・ 景教、ゾロアスター教、マニ教)
  唐の末期には道教・儒教を重んじる支配者が現れ、845年外来宗教は仏教と共にすべて弾圧された。(会昌の廃仏、仏教の僧となって脱税する者が増えたため)
  元の時代には、チンギスハンの盟友のケレイト部族が信奉し、大ハーンの法令で宗教に対する寛容を謳っていたので、中国国内でも一時復活した。(1) チンギス・ハンのモンゴル統一

  ネストリウス派は、日本には、
  @ 中国とは別ルートで、新羅経由で600年代の早期に伝わったとしても、時間的には問題ないと思われる。 ネストリウス派が431年エフェソス公会議で異端認定された後、まずペルシャに伝わり、7世紀(600年代)には中央アジア・モンゴル・中国へ伝わった。(ペルシャにイスラム教が入ったのは 640年にアラビア人が来たのが始まりなので、上記の5-6世紀の新羅にはまだイスラム教は入っていない。)
  A 加えて、景教はその後も、唐の代表的な宗教の一つとして存在し、遣唐使を通して何度も日本に流入したはずである。(**)
   ・・・ 845会昌の廃仏(景教・仏教など弾圧・消滅)、 遣唐使廃止 894年、 唐の滅亡907。

  そして、厩戸皇子は、100年近く経ってから藤原不比等によって、仏教を熱心に推進した架空のカリスマ的人物・”聖徳太子”として 完全にでっち上げられてしまったのである。 そして、国家は仏教・神道(アニミズム)・偶像がはびこり、奈良に大仏建立(752)・悪霊的儀式により のろいが入り、霊的に全く不毛の国となった、平安大震災(850〜888)・疫病、餓鬼の時代となり、次第に武士が台頭し戦乱の世になっていった。次のリバイバルは、キリシタンの時代まで長い間待たなければならなかったのである。(→ 日本の歴史から見たリバイバル



   早稲田大の故・佐伯好朗教授は景教が日本に入ってきたことの先駆的提唱者である。 加えて、京大の故・池田栄 名誉教授によると、日本初の孤児院を作ったのは景教徒の カラという人物であった。また、彼と共に渡来した 李密医は、光明皇后(701−760)に聖書のマタイ8章(イエス様による病人の癒しの記述を含む)を読んで聞かせ、光明皇后は 病人の治療施設や 孤児院などを建設する慈善事業をすることとなった。(当時の仏教は慈善をしなかった。)



   景教碑の文(781碑文の文字日本景教研究会

  (↓ 白い傍線): 『我三一分身 景尊彌施訶 隠眞威同人出代』
      ・・・ 「私たちの三一(三位一体神)分身(=御子、あるいは 応身)、景教の尊い彌施訶(メシア)は真の姿を隠し、人として世に出られた。」、
  『神天宣慶 室女誕聖於大秦 景宿告祥 波斯覩耀以來貢 圓二十四聖有説之舊法 理家國於大猷』
      ・・・ 「神天(天使)は慶びを宣言し、室女(処女)は聖なるメシアを大秦(ユダヤ)で誕生させた。イエスの宿(星)は幸いを告げ、波斯(ペルシャ)からはその輝きを見て貢(贈り物)を持って来た。24の旧法(旧約聖書)を成就し、家や国を御手に治められた。」

  (↓ 黄色い傍線): 景教碑文の冒頭部分
  『粤若 常然眞寂 先先而無元 然靈虚 後後而妙有 總玄而造化 妙衆聖以元尊者 其唯 我三一妙身 無元眞主阿羅訶歟判』
      ・・・ 「万物の何一つ無き先に存在し、初め無く、終わり無き方、とこしえまでも存在する 元尊(神)、 この方は 真理をもって造化(創造、create)し、多くの預言者たちを遣わされた。 この方こそ、我らの三位一体神の 妙身(=御父)、 初め無き まことの主、阿羅訶(アロハ(シリア語)、saint、聖なる方、神)である。」   注) 三位一体の聖霊は「三一淨風」、あるいは 証身

  

  景教碑に「造化」(創造の意味)という 現在の神道用語が用いられ、景教の「造化三神」という言葉がオリジナルである。 古事記の序ににある「参神造化の 首(はじめ)と作(な)り」=「三神が造化の初めとなった」(アメノミナカヌシ(天御中主神)、タカミムスヒ(高皇産霊神)、カムムスヒ(神皇産霊神)) は、 景教 あるいは 原始キリスト教の、それぞれ 「父」、「子」、「聖霊」 の 「三位一体の神」を 基にしている(by.日本の中のユダヤ文化、久保有政、学研) 秦氏の建てた「蚕の社」(京都の木島神)の「三柱鳥居」は、元々 神の「三位一体」を表す。 三柱鳥居は日本全国で5つ以上ある。

   敦煌のイエス・メシア経(序聴迷詩所経、636 宋代初期に敦煌の石室で発見)の文(*漢字の当て字が未成熟である)
  「末艶(マリア)は懐妊して後一男を産み、名を移鼠(イエス)とつけた。」
      ・・・・・ 「天尊(父なる神)涼風(聖霊)によって、名前を末艶(マリア)と言う一童女に向かわせると身ごもった。涼風がマリアの腹の内に入った。これは天尊が教 えた通りで、マリアは身ごもった。天尊は涼風を通してマリアに、男がなくて懐妊したのだと伝えた。それは民衆が、男がいなくて懐妊したことを信じるためで あり、天尊には(威)力があることを知らせることでもあり、信者が天尊への信仰と清さを抱いて生きるためでもあった。マリアは懐妊して一男を産んだ。名前を移鼠(イエス)と名づけた。父(ヨセフ)は涼風に向かって訊ねた。もし涼風によって懐妊して産まれたなら、世間は何と言うでしょうか。聖上(ヘロデ大王)は皆を退去させ、全国民を服従させることになるでしょう。天尊は天上におられ、その威光を普く天地に現わされた。移鼠(イエス)迷師訶(メシア)は産まれ、その地では天地が明るくなった。一つの星が天上に現われ、星の大きさは車輪のように大きく輝き、天尊もおられた」 クリスチャントゥディの記事(2014 8 川口氏)

  * 秦人渡来時代の新羅経由の陸ルートの他に、沖縄経由の海ルートがある。(→ (1) エドム人とユダ族の移動 ) 仏教の影響をほとんど受けなかった沖縄では、(アニミズム、シャーマニズムと共に、)実に、旧約聖書、新約聖書に基づく 風習が現在も強く残っている。(→ 2.沖縄におけるユダヤ教とキリスト教の伝承
  逆に、本土では、仏教によって これほどまでに改ざんされてしまったことが分かる。 また、後のキリシタン禁制の時代には、十字架などのキリスト教を連想させるものが目立つ所からすべて抹消されていったと考えられ、本土では目に見える証拠はほとんど皆無である。


  ** ・ 西日本の日本海側に多く建てられた大避(おおさけ)神社、大酒神社は、中国では「ダビデ」を漢訳して「大闢」と書くゆえに、元々 景教の寺院として建てられたという。赤穂の大酒神社に先の”秦河勝の面”がある。 また、木嶋坐天照御魂神社(京都の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した大酒神社が管理)の 珍しい”三柱鳥居”は 「神の三位一体」を表し、”いさらい井戸”はイスラエルの転訛であるという。(by.佐伯好郎 氏、戦前の景教学者・言語学者)
  景教の三位一体の解釈で、1者を 残りの2者が定義し合う、そのような関係にある というものが存在した。(実は、数学の3定数どおしの関係と同じである!)




   西本願寺浄土真宗の本山)には、マタイの福音書の「山上の垂訓」(マタイ5:1−12)を中心とした部分の漢訳そのものである”世尊布施論”(↓図、参考リンク)という書物が所蔵されていて、親鸞がこの書によって景教に学んだといわれている。(by.ケン・ジョセフ氏(アッシリア系日本在住米国人、景教・原始キリスト教の研究家) by. 世尊布施論.wiki) この書物は、キリシタン禁制の時代にもこの寺にあった。 浄土真宗の教義の一つ、”自分にしてほしくないことは他人にもするな” ← 「あなたにしてほしい通りに隣人にもしなさい。」(こちらのほうが積極的)(黄金律、マタイ7:12)
   ・・・ ただし、山上の垂訓等の十字架前の教えは すべて「律法」を再度語ったものであり、人は律法によって救われるのではなく、ただ、御子イエス様の「十字架」の贖いによる。

  注) ”お経”の内容は、中国で創作された果てしない空想話ばかりであり、哲学的にこれといって徳のあるものではない。翻訳せず、意味不明のまま皆有難がっているに過ぎない。(これを”知らぬが仏”と言う?) 大乗仏教の意味のある部分は、聖書からの借用(盗用)部分のみ。 また、原始仏教哲学や それに基づくニューエイジ的な世界観も(転生輪廻など)、物理学的見地(エントロピー増大則)から そもそも間違っている。 仏像の偶像は元々ギリシャからのもので、死者崇拝はペルシャからのもの、それが中国で渾然一体、というか、単なる混合物になった。仏像が日本に入り始めた頃、天然痘が流行したので、仏像は”疫病神(やくびょうがみ)”と呼ばれた。 ・・・ ガンダーラが転じて アホンダーラだ?
   → 仏教とヒンドゥー教の”神観”、 これらの果てしない作り話は後世(16世紀)の”西遊記”のようなもの。 仏教の天国の教理は全くもって うそくさいが、仏教の”地獄”の教理だけは、聖書の「よみ(ハデス)」の記述に似ているのは、仏教が”死”の宗教だから。よみの鬼どもは悪霊(=堕落天使)であり、すべての死者を生前の行いに応じて拷問する連中であり、この辺はよく知っている。 いずれにしても、これらの サタンおよびその”虚構の世界”は、天使長ミカエルが立ち上がる時に 天(空中)から落とされ(黙示12:7−9、ダニエル12:1)・・・それゆえ、地上には災いが来る・・・ 、千年王国の後、「よみ」は最終的には 「ゲヘナ(火と硫黄の池)」に投げ込まれる。(黙示20:14)
   → 天国と地獄のあかし



   E・A・ゴードン夫人(明治末の英国人・アジア研究家)は、真言宗(空海)と 景教との関連性を認め、高野山に”大秦景教流行中国碑”のレプリカを建てた。(夫人の墓と共に現存) 明らかに、空海も 聖書から引用したということ。 空海も当然、唐で 景教からも学んだはずである。(唐の 三夷教 ・・・ 景教、ゾロアスター教、マニ教。 後者2つは 密教に関わっている。)

  ただし、 ”INRI神社”に狐の偶像を入れる事をしたのは 藤原道長である。彼が、今までの聖なるものをことごとく汚してしまった。その後、安倍晴明(あべのせいめい)が 呪いをかけてこれを封印した。 藤原道長は、多くの仏像を作らせたが、顔と胴、手足など 全部 分業で作らせたので、仏像の顔の表情がたるんでいる。彼は国の支配のために、政策的に仏像を大量生産させた。
      → 悪霊によって汚れている 霊の戦い前の稲荷神社の霊写真(千葉県S市) (下)

  空海は実は 景教徒 だったと考えられ、唐で「遍照金剛」という洗礼名を受けた。 ・・・「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」(マタイ5:16)の意。  さらに、弘法大師予言(預言)では ”イナリが貶められ、そのずっと後に 四国と本州に橋が架けられる頃、本当のイナリが現れる” としている。

  ・ 京都祇園祭の山鉾には、江戸時代以前からペルシャ絨毯やピラミッドの絵が描かれたものが多い。(祇園=シオン、太秦(うずまさ)など秦氏の名前多い、カゴメマーク(六紡星=ダビデのマーク)、菊の紋=ヘロデの文様、 琵琶湖(=ガリラヤ湖・(古)キネレテ湖、キネレテ=ハープ=琵琶)、エルサレム(平和の都市)=平安京。



   景教の教義は、「三位一体」(特に、イエス・キリストの神性)を正確に語っていないので 一般に「異端(431エフェソス公会議で異端認定)」とされている(アリウス派、ネストリウス派(=景教)は異端、 アタナシウス派(=ニカイア派)は正統とされる)が、マリア崇拝を否定しているので、景教を支持する正統派の教派もある。(そもそもローマ・カトリックを”大いなる異端”と呼ぶ プロテスタント教派は多い) 一方、ネストリウス派を異端認定した西ローマのほうは、同時期の 4-5世紀までに聖書の改ざん(2) (シナイ写本(4c)、バチカン写本(4c)、アレキサンドリア写本(5c)など)が行われ、それが少なくとも9世紀まで公然と用いられた。イスラエルの祝福を ただ単に「教会」に置き換えただけの反ユダヤ的な ”置換神学”や、御子イエス様の「神性」を貶め 神の「三位一体」を弱める意図的な改ざん部を含む ”西洋神学”は不完全である。さらに、ローマカトリックは、”教皇無謬説”や”マリアの無原罪・神性”を教義に取り入れているので、このような意味では”異端”と呼ばれるべきものである。
  ・・・・・ むしろ、異端の程度は逆である!

  このように、ネストリウス派は”悪質な異端”(=霊が異なる異端)ではなく、当時の教理が未成熟なだけと考えられる。(上記の景教碑にもあるとおり、「神の三位一体」を認めている。) 教義にあまりとらわれず、十字架の贖いを信じて、イエス様を愛する素朴な信仰を持った信者ならば、救われていたと思われる。(これは、後の時代のキリシタンについても同じ。→ キリシタン時代) (ヨハネ3:16)



   § 世尊布施論 第三

 (西本願寺所蔵の写本(↓); オリジナルは”一神論(敦煌・1918発表)(*)”の第三巻、巻末に641年と記入(唐の太宗の貞観14頃、翻訳は阿羅本の側近による?)): ・・・ 内容は、ほとんど新約聖書山上の垂訓の箇所!マタイの福音書6章 (KJV) 漢訳「馬太傳」 (→ もっと大きな字の写真、 中国における研究、 全文・黒字部・途中から・ただし字が一部異なる)


   1.世尊曰、 如有人布施時、勿対人布施、會須 遣世尊知識、 然始布施 ・・・「主はこのように言われる。 施しをするときは、人に施しをする前に まず主に知っていただく必要があり、それから施しをしなさい。」(マタイ6:1−4の変形) (世尊:宇宙のイエス、 曰:いわく、 如:ごとく、 勿:(古)〜するな、 會須:必要がある、 須:待つ、必要である、 然:しかり)
   2.若 左手布施、勿令右手 ・・・ 「もし左手が施しをするならば、右手に知らせないようにしなさい。」(マタイ6:3)  (若:もし、もしくは)
   3.覚 若 礼拝時、 勿 聴外人 眼見、外人 知聞、 會須 一神目見、 然始礼拝 ・・・ 「祈る時は、他人に聞かれたり、見られたりしないように気をつけなさい。 ただ神の目に知っていただく必要があり、それから祈りなさい。」(マタイ6:5−6の変形)
   4.有財物 不須放置 地上  或時 壊却 或時 有賎盗 将去、 財物 皆須向 天堂上 必竟 不壊 不失 ・・・ 「あなたの宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは きずものになり 強盗が持ち去ったりするだけである。 あなたの宝は 天にたくわえなさい。そこでは実際、壊れることも失われることもない。」(マタイ6:19−21)  (天堂上:天国、 必竟:実際)
   5.看飛鳥、亦不種不刈、亦無倉坑可守 ・・・ 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。」(マタイ6:26)

   6.似如梁柱着自家眼裏、倒向餘人説言汝眼裏有物、 除却因合此語假矯、先向除眼梁柱 ・・・ 「自分の目に梁があるのに、人々に向かってあなたの目のちりを取らせよと言うなかれ。 矯正というのを止めて、まずあなたの目から梁を取り除きなさい。」(マタイ7:4、5) (自家:自己、 眼裏=眼里:目、 餘人:複数の人々、 假矯:矯正する)
   7.們要小心、不可将善事行在人的面前、故意叫他們看見、 若是這様、就不能得 們 天父的賞賜了 ・・・ 「あなたは人に見せるために、人前で善行をしないように注意しなさい。 そのようにするなら、あなたは 天の父から報いが受けられない。」(マタイ6:1) (ニンベン+爾們:あなたは、なんじは、 要小心:注意せよ、 這様:このような)

 
    参考文献: 『隠された十字架の国・日本―逆説の古代史』、2000年、ケン、シニア ジョセフ著、徳間書店


  * 『一神論』(641)は、宋代初期に敦煌で発見されて、1918年に発表。これには、「一天論 第一」132行、「喩(たとえ) 第二」39行、「世尊布施論 第三」197行の小三篇が収められ、1931年(昭和6)年に東方文化学院京都研究所から『序聴(イエス)迷詩所(メシア)経』(636)との合本で公刊された。 西本願寺にあるのは 遣唐使の時代の写本と考えられる。
  後の時代に、これを親鸞(1173−1263、”末法思想”が盛んになる頃)が読んで、仏教(浄土真宗)の教義に取り入れたと、容易に想像できる。(”悪人正機説”、”他力本願”など)

  さらに、この聖書の教えを含む仏教は、後のキリシタン宣教において、阿弥陀如来による他力本願の救済を説く浄土教と、神との契約による救済を説くキリスト教は構図的に近いものがあり、信者としては乗り換えやすい面があり、(* さらに観音信仰とマリア信仰の近さもあって、 ・・・ これは神の知恵、なぜわざわざカトリックが用いられたか!)西日本を中心に急速にキリスト教が浸透するという、大規模なキリシタン・リバイバル受け継がれていった


  * またケン・ジョセフ氏は、『〔隠された〕十字架の国・日本』(こちらはインターネットの転載ですので、ページ数はわかりません)には、ジョセフ氏が西本願寺に尋ねた様子が載っています。(紹介ページ

  『私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのです けれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と 言う。
「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
「はい、たしかにあります」
と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうし てもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。』

とあります。




  (結言)

    「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
  それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
  あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、 わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」 (出エジプト20:3−6、 十戒の 第1、2戒 ・・・ 目に見えるもの、目に見えないもの の両方について)

    「キリストと ベリアル(偶像の悪霊)に 何の調和があるでしょう。」 (Uコリント6:15)

    「 ・・・ 偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。 私は、あなたがたに 悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」 (Tコリント10:19、20)

        ・・・・  たとえば、カトリックが主導する”宗教”を越えたエキュメニカル運動や、キリスト教と ”神道”との 合同礼拝など もってのほか。  ( → 霊の戦い前の ある古い神社の 霊写真(下のほう)、悪霊どもによって汚れている)
    * 日-ユ同祖論的な方法で伝道をされる方は、”ミイラ取りがミイラになら”ないようご注意ください




    これほどまでに、日本文化・宗教に、キリスト教が有効な部分に入っているならば、仏教徒も、神道家も、ユダヤの末裔と思っている人も、そうでない人も、 皆、偶像崇拝を 完全に悔い改めて、本当の神であるキリストに帰依すべきである。



   (追記) 十字架信仰2017記事:    また、大和カルバリー教会では、大物の仏教の僧侶が救われたそうです。 ((追加) その約一か月後の(2016年)11月20日、西日本の高僧であるその人の葬式(93歳)が行われました。主日第3礼拝・1:01:40−1:02:10) 召される前に信じたそうです。大和カルバリーにはその人の子供(男性、女性)が教会員でいます。)

    ・・・・・ 結局、仏教を極めた人間が、仏教には救いはなく キリストにそれがある、ということを生涯の終わりについに悟ったことになります。

   ・ 戦時中、自分が神にでっち上げられた昭和天皇も、クリスチャンだったことは 結構有名な話です。




   ● (参考) →  INRI リバイバル(2017 7/3) ・・・ 古代日本のキリスト教伝来のあかし



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